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突然、冷静な第三者の声がして、エラは驚いて目を開けた。
「グレーデン様……!」
そこにはペーターの腕を掴んでねじり上げている騎士服姿のエーミールが立っていた。
「悪いが話は聞かせてもらった。こんな廊下で大声を出していては自業自得だがな。今、見聞きした件はダーミッシュ伯爵に報告させてもらう。エデラー嬢も不服はないな?」
「は、はい、もちろんです……」
「な! 待ってくれ、違うんです! 今のはエラが! そう、エラがやり直したいと嫌がるオレに迫ってきて……!」
まだ言いつのろうとするペーターの腕を、エーミールはさらにきつくねじり上げた。
「痛い痛い痛い! 腕が折れるぅ!!」
エーミールは無造作に掴んだ腕を離すと、その反動でペーターは廊下の床に無様に倒れこんだ。
「貴様、それ以上くだらない戯言を言うようなら、次は叩き切るぞ」
低い声音で腰に下げた剣の柄に手を添える。エーミールに冷たく見下ろされて、ペーターは尻もちをついたまま後ずさると、意味不明な捨て台詞と共に、足をもつれさせながら逃げ去っていった。
エラはその姿を茫然と見送った。今さらながらに体が震えてきて、無意識にぎゅっと自身の体を抱きしめる。
不意に目の前に白いハンカチが差し出され、反射的にエラはそれを手に取った。しばらく白いハンカチを見つめていたが、はっと我に返って目の前に立つエーミールの顔を見上げた。
その瞬間にしずくが頬を伝い、エラは自分が泣いていることに初めて気づいた。
「グレーデン様……」
堰を切ったようにぼろぼろと涙があふれてくる。止めなくては思うのに、そう思えば思うほど涙があふれて止まらなくなる。
「もう少し早く気づいてやれればよかったのだが」
エーミールはすまなそうな顔をした。
「い、いいえ……グレーデン様……」
それ以上言葉にならない。エラは受け取ったハンカチを握りしめて、必死に嗚咽をこらえた。涙がぱたぱたと落ちてはハンカチに吸い込まれていく。
怖かったのか悔しかったのか悲しかったのか。自分でもよくわからない感情に支配されて、エラはしばらくの間エーミールの前で泣き続けた。エーミールはそんなエラを慰めるでもなく、エラが泣き止むまでただ黙ってそこに立っていた。
「……あの、助けていただいた上に、こんなふうに泣いたりして……私事でご迷惑をおかけして申し訳ありません」
すんと鼻をすすりながら、エラはようやく顔を上げた。赤くなった目がなんとも痛々しい。
「いや、わたしも休憩中で何をしていたわけでもない。助けになったのなら、それでいい」
「はい、本当にありがとうございました……あの、こちらのハンカチは洗ってからお返しいたします」
「いや、別にいいだろう」
そう言うとエーミールは、泣き止んだエラの手からひょいとハンカチを取り上げた。そのまま騎士服のポケットにハンカチをしまい込む。
「え? そんな、駄目です! 汚いですからきちんと洗わせてください!」
慌てたエラは思わずエーミールのポケットに手を伸ばした。しかし、途中でエーミールに手を取られて阻まれてしまう。
「あなたの涙が汚いわけはないだろう?」
驚いたエラは、思わずエーミールの顔を凝視した。公爵家で聞いた彼の噂話は、気位の高い貴族そのものだったのだ。
エーミール・グレーデンという人物は、一見貴公子然としたいい男だが、使用人たちにはいけ好かないお貴族サマとして嫌われている、というのがエラの中での認識だった。
そんな彼に優男がするような発言をされて、自分の手を取ったままでいるエーミールの顔を伺い見る。が、エーミールは至極まじめな顔つきをしているだけだった。
その様子は何を当たり前のことを、といったふうで、エラを口説こうとかそういった下心は微塵も感じられない。エラの手を掴む手のひらも、差し出されたから礼儀的に手に取ったというような、そっと添えた程度のものだった。
「そんなことよりも、エデラー嬢。あなたは少し迂闊すぎるな。男爵家とはいえその権力を利用しようと近づく人間は少なくないだろう。もっと自身の立場を理解した方がいい」
耳に痛いことを言われ、エラは何も言い返せない。しゅんとうつむいて素直に謝罪の言葉を口にした。
「まったくもってグレーデン様のおっしゃる通りでございます。今後はこのようなことを起こさないよう、細心の注意を払って行動します」
「ああ、分かればいい」
そうか。この方は貴族として、しっかりと矜持を持たれている方なのだ。
エラはそう思いいたると、噂は当てにならないものだとしみじみ思った。使用人たちにしてみれば、彼のようなタイプの貴族は親しみやすさとはかけ離れていて、恐ればかりを抱いてしまうだろう。
本来、貴族とはそんなもののはずだが、ここダーミッシュ家やフーゲンベルク公爵家の雰囲気が和やかすぎて、ついそのことを失念していた。
そんなことを考えていると、先程よりも近い距離でエーミールが自分の顔を凝視していることに気づく。
「あの……わたしの顔に何か……?」
そう言ったエラははっとした。盛大に泣きまくった後だ。化粧が崩れて恐ろしいことになっているのかもしれない。
「いや……エデラー嬢、今日のあなたはいつもと雰囲気が違うのだな」
「先程にベッティに化粧を施してもらったので……」
少し戸惑ったようなエーミールに、エラは伏し目がちにそう答えた。黒い涙の跡が自分の頬についていないことを祈りながら。
エーミールは少し顔をしかめて「あの侍女か」と心底嫌そうにつぶやいた。
「グレーデン様……?」
不思議そうに首をかしげると、再びエーミールはエラの顔を覗き込むように凝視してきた。やはり救いようのないくらいパンダ目になっているのだろうか?
「エーミールだ」
「え?」
「家名ではなく、エーミールと呼べばいい」
不意にそう言われてエラは戸惑った。エーミールは侯爵家の人間で、自分はしがない男爵の娘だ。その身分には天と地ほどの開きがある。
「ですが……グレーデン様をお名前でお呼びするなど……」
「だから許すと言っている。エデラー嬢、あなたはリーゼロッテ様をお支えする、言わばわたしとは同志のようなものだ。わたしはジークヴァルト様にすべてを捧げると誓った。あなたのような有能な侍女が、ジークヴァルト様の妻となるリーゼロッテ様のそばにいれば、わたしも安心できる」
「……――っ!」
エラは鳶色の両目をこれ以上とないというほど見開いた。驚きのあとに、じわりと歓喜の念が湧き上がってくる。
今度は反対にエラがエーミールの手を両手で握りしめた。エーミールの手を胸元に引き寄せ、潤んだ瞳でぐいと顔を近づける。
「はい……はい! グレーデン様、いいえ、エーミール様にそのようにおっしゃっていただけて、わたし、本当にうれしいです!!」
「そ、そうか。それは何よりだ」
驚いたように少しのけぞりかけたエーミールだったが、エラの手を振りほどこうとはしなかった。
「はい! ありがとうございます、エーミール様。どうかわたしのことは、エラと呼び捨てになさってください」
「ああ、そうさせてもらおうか、エラ」
エーミールにやさしく微笑まれて、エラはその顔の近さに驚いて慌てて手を離した。
「ししし失礼いたしました」
エーミールの前では先程から失態ばかりをさらしている。ドキドキする胸に手を当てて、エラは冷静になるために大きくひとつ呼吸した。
「いや、かまわない。……エラ、あなたは見ていて飽きないな」
「えっ?」
思わず赤くなった頬を両手で押さえてしまう。意味深な台詞だが、平然としているエーミールを見る限りは、そこに深い意味などはなさそうだ。そう思って自分を戒める。
「あ、あの、ご休憩されているところ、お手を煩わせてしまい本当に申し訳ありませんでした」
「ああ、わたしもやることがなくて時間を持て余していただけだ。気に病まなくていい」
「ですがそのようなわけには……」
「あなたも主人に似てなかなかな頭が固いな」
呆れたような口調で言われたが、そこに不快な感覚はなかった。しかし自分の主人というのは、リーゼロッテのことだろうか?
「まあいいだろう。だったら礼代わりに、何か暇つぶしにできることを提案してくれないか?」
「暇つぶしでございますか……?」
ダーミッシュ領は平和な土地であるし、屋敷の中で護衛の騎士が活躍する場面などそうそうあるものではない。エーミールが暇を持て余すのも無理のないことだった。
「でしたら、ルカ様の剣の手合わせなどお付き合いいただけますと、ルカ様もおよろこびになると思います」
「ああ、彼はなかなか筋がいいと、ジークヴァルト様もおっしゃっていたな」
ルカを褒められてエラの気分はさらに上昇した。先程からエーミールは自分がよろこぶ言葉を大盤振る舞いしてくる。
今まではリーゼロッテの侍女としていられるのなら、誰に何を言われようともかまわないと思っていた。だが、自分の努力を認めてくれる人がいるというのは、こんなにもうれしく感じるものなのか。エラはうれしさで身震いしそうになるのを必死でこらえた。
「エーミール様がよろしければ旦那様にお伺いしてみますが……」
「ああ、そうしてくれ。わたしからも伯爵に話してみよう。……他には何か提案はないか?」
「他に……もしお時間が合えば、わたしが街のご案内などさせていただきますが」
「ああ、それはいいな。一度ダーミッシュ領の街並みを見てみたいと思っていた」
自分の提案が快く採用されて、エラは自然と笑顔になった。
「では、そちらも旦那様にお願いして参ります」
「よろしく頼む」
エーミールに柔らかく微笑まれて、エラは顔を赤くした。
「戻るなら部屋まで送るが」
「いいえ! エーミール様はごゆっくり休憩なさってください。あ、わたしが言うのも何なのですが……」
「ふ、その様子ならもう大丈夫そうだな。では、わたしは失礼する」
「今日は本当にありがとうございました」
深々とお辞儀をして、エラはエーミールの背を見送った。




