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「やだ! エラ、どうしたの? 今日はやけにめかしこんでるじゃない!」
会う者会う者に同じように声をかけられる。
マダム・クノスペたちが帰って行ったあと、ベッティに施された化粧を落とそうとすると、せっかくだから今日はそのままでいてはどうかとリーゼロッテに言われたのだ。
さすがに結い上げた髪は元に戻したが、リーゼロッテがよろこぶならとそのまま仕事に戻ったエラだった。
いつもは意図的に控えめな化粧で目立たないようにしているエラだが、がっつりメイクをしている今の彼女は、清楚でいてどこか理知的な印象を与える正統派美人となっている。
女性陣には概ね受けはいいが、昔から一緒に働いている男たちにぽかんと見つめられたり、やけによそよそしくされて、少しばかり居心地がよくない。
普段から姿勢のいいエラは、今日はいつも以上に凛とした雰囲気をかもしだしていた。そんな近寄りがたい美人と化したエラに、男たちは気後れしているようだ。
「わっエラ! すっごい美人がいると思ったら、あなただったの! 何? 今日はデート?」
「ちょっと、その話題はダメだって!」
すれ違った侍女仲間に声をかけられ、エラは苦笑いした。ペーターとの別れ話が広まって、どこへ行っても気を使われて困っているのだ。
「公爵家から来た侍女に化粧をしてもらったのよ。見ての通り彼女の腕前はすごいから、みんなも一度お願いしてみたらどう? 彼女の技能は侍女として学ぶものがたくさんあるし」
「ああ、ベッティさんね。さすが公爵家の侍女って感じよね」
エラの化粧をまじまじと見ながら、ひとりの侍女が言った。
「ホント、わたしたちも負けていられないわね! でもエラが美人なのは元からなんだから、いつもそうやって綺麗にしていればいいのに」
「そうよ、エラはもっとおしゃれするべきよ」
「リーゼロッテ様のおそばで過ごすのに、過度な化粧は必要ないわよ」
エラが呆れながら返すと、周りの侍女はもったいないと口々に言った。
「わたしはこれを旦那様に届けないといけないから、もう行くわ」
「ああ、そうなの。引き留めて悪かったわ」
去り際に「あっエラ!」と一人の侍女がもう一度エラを引き留めた。
「旦那様の執務室へ行くなら、ここは通らない方がいいわ。この先にさっき、その、ペーターがいたから……」
不義を働いた元恋人には会いたくないだろう。そんな気遣いからか、こんなふうに気を回してくる同僚が多い。
「ありがとう。でもペーターとのことは終わったことだし、もう何とも思っていないから。わたしはリーゼロッテ様にお仕えできればそれだけで幸せよ。だから心配しないで」
「もう! エラのお嬢様命はあいかわらずね! エラがいいのならもう心配しないけど。……でもペーターの方はそうは思ってないみたい。念のために気をつけて」
「そう、わかった。忠告ありがとう」
今回の件でペーターの株は下がりまくりだ。特に女性陣からは針の筵な状態になっている。自業自得とはいえ、気さくで気の合うペーターを好ましく思っていたのも事実だ。ペーターが相手の女性と幸せになればそれでいいと、エラの中ではその一件はすでに過去のことになっていた。
そのあとペーターに会うこともなく無事届け物を済ませたエラは、すっかりそんなことも忘れてリーゼロッテの待つ部屋へ戻ろうと廊下を歩いていた。
「わっ」
廊下の途中でいきなり腕を掴まれ、エラは人気のない場所へと引っ張り込まれた。
「いきなり何を! って、ペーター……?」
掴まれた腕を振りほどこうと相手を威嚇するような声を上げたエラは、自分の腕を掴んでいるのがペーターだと気づくと、拍子抜けしたように肩から力を抜いた。
「やだ、びっくりさせないで。こんなことしてるとあらぬ誤解を受けるわよ?」
困ったよう声をかけるが、ペーターはエラの顔を凝視したまま怖い顔をして黙っている。
「ちょっとペーター、いい加減手を放して……っつ」
エラの言葉とは裏腹に、ペーターはエラの腕をつかむ手に力を入れた。
「オレが好きなのはエラだけなんだ」
「…………は?」
唐突に紡がれたペーターの言葉に、エラはぽかんと口を開けた。
「あの女とは別れた後に子供ができたと言われたんだ。正直オレの子か疑ってる。エラだけなんだ。だからオレ達やりなおそう」
真剣な声でペーターはエラをその腕に抱きしめた。
「ちょっとやめてペーター! わたしたちはもう別れたのよ!」
身をよじって抜け出そうとするが、ペーターはその腕の力をさらに込めてくる。
「強がるなよ。エラだってまだオレのこと好きだろう?」
「は? いやちょっと待って。そんなことあり得ないわ。あなた父親になるのよ? それにあの女性だって……」
相手の女性にはエラも一度だけ会った。大きなおなかを抱えてペーターと別れてほしい懇願してきたその女性は、ペーターとは幼馴染とのことだった。彼女の話だとペーターとは昔から結婚の約束をしていて、お互いの家族もその心づもりでいたらしい。
エラの目から見ても、誠実そうな女性だった。そんな女性を目の前にして、エラのペーターへの恋心が一気に冷めたとしても無理のない話だ。ペーターの言うことなど、到底受け入れられるはずもなかった。
「オレはあの女に騙されたんだ! 悪いのはオレじゃない!」
「あなた、それ本気で言ってるの?」
ペーターはこんな男だったのか。信じたくはないが、自分の見る目がなかったということだろう。エラの思いは氷点下レベルにまで下降した。
「なあ、エラ。オレは本当にお前だけなんだ。お前の父親、エデラー男爵の力をもってすれば、あの女とのこともどうにでもなるだろう?」
「な――っ」
男爵家を利用しようと近寄ってくる人間は、これまでも少なからずいた。商家から爵位を賜ったエデラー家は、今、飛ぶ鳥を落とす勢いのある家として、貴族の中でも注目を集め出している。
ペーターが自分に近づいてきたのは、エラといれば男爵家の甘い汁が吸えると思ったからなのだ。その事実にエラは愕然とした。
庭師のペーターは、気さくで気の合う頼れる同僚だった。困ったときには幾度も助けてもらったし、弱っているときは他の誰よりもそばにいて支えてくれた。
二股をされても嫌いになり切れなかったのは、そんなペーターが好きだったからだ。それなのに今目の前いるペーターは、仄暗く笑顔をゆがませてエラを一向にその腕から離そうとしない。
はじめからそのつもりだったのだ。エラに向けられた笑顔もさりげないやさしさも。すべてが偽りと打算で塗りつぶされていたのだと思うと、もう何ひとつ信じることなどできなかった。
「離して! あなたとはもう終わったのよ! 無理に決まっているでしょう!」
厳しい口調で睨み上げるが、ペーターはへらりと嗤ってエラを無理やり上向かせた。
「そんなわけいくかよ。男爵令嬢でお嬢様のお気に入りのお前を手放すなんて、それこそあり得ないんだよ。なあ、エラ。エラはオレにこうされるの好きだったよなぁ」
そう言ってペーターはエラの耳朶に唇を寄せてきた。生温かい息が耳にかかり、エラの全身に鳥肌が立つ。
「いや、やめて、やめなさい! あんたにこんなことする権利なんかない!」
ペーターと幾度か口付けを交わしたことはあるが、それ以上の関係になったことはない。エラが必死に腕を振りほどこうともがくと、ペーターは苛立ったように大きく舌打ちをした。
「下出にててりゃあいい気になりやがって! お前はオレのためにそばにいればいいんだよ!」
ペーターの手が大きく振り上げられる。エラは殴られることを覚悟して、咄嗟にぎゅっと目をつぶった。だが、予期した衝撃はいつまでたってもやってこない。
「貴様、男の風上にも置けない下衆野郎だな」




