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「リーゼロッテ様、道中お気をつけて」
公爵家のエントランスホールに大勢の使用人たちがずらりと並んでいる。その真ん中で、リーゼロッテはジークヴァルトと向き合って立っていた。
「ヴァルト様、今回もいろいろとよくしてくださってありがとうございました」
「ああ」
そう言いながらジークヴァルトは手に持った菓子を差し出してくる。いったいどこに隠し持っているのか、いつも手品のように出てくる菓子に半ば感心しつつ、リーゼロッテは素直に口を開いた。
もう羞恥心には蓋をした。無の境地で受け入れることに慣れてしまった自分が少し怖く感じるが、使用人たちの目の前で「あーん」と言えるジークヴァルトに比べればまだましというものだ。
(ジークヴァルト様には恥ずかしいって感情がないのかしら……?)
そんなことを思いつつ、差し出された菓子を口にする。今日は大好きなチョコレートだ。安定のとろけるおいしさに、リーゼロッテの頬はいつものようにへにゃりと緩んだ。
口の中のチョコがなくなると、何か言いたげなジークヴァルトがじっとこちらを見ていることに気づく。どうして反応していいかわからず、とりあえずその瞳を黙って見つめ返していると、横からさっと小さな箱が差し出された。
見ると家令のエッカルトがチョコが数粒入った箱を、恭しくリーゼロッテに向けて掲げていた。
「……エッカルト?」
「さ、リーゼロッテ様もご遠慮なく……」
さらにずいと箱を差し出され、どういうことかと困惑気味にジークヴァルトを再び見上げた。ジークヴァルトは無言のまま、先程と同じように自分の顔をじっと見つめている。
(この状況で、自分で食べろ……ということではなさそうね)
背中を冷や汗がたらりと伝う。これはあれか?あーんの往復作業ノルマ化計画なのか?
リーゼロッテの一挙一動を、みなが固唾を飲んで見守っている。もう一度エッカルトに顔を向けると、好々爺の期待に満ち満ちた視線とぶつかった。
胸の前で祈るように組んだ手にぎゅっと力が入る。ふるふると小さく首を振りながら羞恥で潤んだ瞳で見つめ返せば、エッカルトの方は細い瞳を悲し気に潤ませてきた。
目の前にさし出された箱の中に視線を落とす。ここでKYになりきれたら、箱のチョコ全部を自分でほおばって食べてしまうのに。
しかし、淑女としての矜持がそれを許さない。いっそのことエッカルトにあーんをかましてみようか。
一瞬のうちに脳内に様々な思いが駆け巡るが、自分がとれる選択肢はひとつしかない。それは初めから分かりきったことだった。
(これは使用人たちへのパフォーマンスなのよ)
ジークヴァルトと婚約者である自分が、仲良くやっていますというアピールなのだ。使用人の士気にかかわる重要なミッションなのだ。
(きっとそうよ!でなければこんな茶番を、由緒正しい公爵家で繰り広げるはずはないわ!)
やけくそになってリーゼロッテは、その小さな指でチョコを一粒つまみ上げ、涙目でぎっとジークヴァルトを睨み上げた。
「ヴァルト様、あーんですわ」
背の高いジークヴァルトの口元に、少し背伸びするような格好でチョコを差し出す。チョコをつまむ指先が小さく震えてしまうのは、羞恥なのか怒りなのか、自分でもよくわからない。
ジークヴァルトは身をかがめて、リーゼロッテの手からチョコを受け取ろうと薄く唇を開いた。背伸びをしているリーゼロッテが少しふらつくと、そっとその細い腰に手を添えて支えてやる。
周囲にいた使用人たちの口から、ほぉ……とため息が漏れた。
頬を染めて一生懸命チョコを差し出すリーゼロッテ。それを支えるようにやさしく包むジークヴァルトが、チョコを受け取り口にしている。
「「「あの甘いもの嫌いの旦那様が……!」」」
歴史的一瞬をその目に焼き付けようと、使用人たちは目を皿のようにしてふたりを見守っていた。
「甘くはございませんか……?」
甘いものは得意ではないと言っていたくせに、チョコレートを食べさせてよかったのだろうか? まあ、用意したのはエッカルトなので、そこまで責任を感じることもないのだろうが。
「ああ、問題ない」
「そちらはビターチョコになっております」
エッカルトが補足するように付け加えた。その顔はいたく満足げだ。
女性をまったく寄せつけなかったあのジークヴァルトが、かつてなく柔らかい表情で女性の手ずから菓子を口にしたのだ。ジークヴァルトの誕生の折から、その成長を傍らで見守ってきたエッカルトにしてみれば、涙のひとつも出てくるシーンであった。
(今まで何も欲することのなかったジークヴァルト様が、ようやく手にしたしあわせなればこそ……)
決して失うことのないように誠心誠意尽くすのが、仕える者の務めであろう。
「年を取ると涙もろくなっていけませんな……」
胸元からハンカチを取り出すと、エッカルトは目頭にそっと押し当てた。その様子をリーゼロッテは複雑そうな表情でみつめている。
(この状況がいかにすごいことなのか、リーゼロッテ様には理解しがたいのでしょうが……)
「リーゼロッテ様、どうぞ道中お気をつけて。またここにお帰りになられる日を、使用人一同、首を長くしてお待ち申し上げております」
エッカルトが深く腰を折ると、周囲の使用人たちも一斉にリーゼロッテに礼をとった。
「ええ、ありがとう」
内心、引き気味に返事をしたリーゼロッテの髪が、不意にすいと梳かれた。驚いて見上げると、静かな目をしたジークヴァルトが、無言でゆっくりと蜂蜜色の髪に指をくぐらせている。
頭をなでられるのは久しぶりのことだ。
少しだけ驚いたが、リーゼロッテは黙ってそれを受け入れた。見つめあいながら、ジークヴァルトの指がゆっくりと髪を梳いていく。
(これはいつまで続くのかしら……?)
何も言わずに頭をなで続けるジークヴァルトに、リーゼロッテの頬が次第に赤く染まっていった。
公開羞恥プレイはもう勘弁してほしい。そう思って、リーゼロッテはそっとジークヴァルトの胸元のシャツをつかんで小さく引っ張った。
「…………!」
ジークヴァルトは一瞬驚いたように目を丸くして、これまた驚いたようにリーゼロッテの髪に絡めた手を慌てて引っ込めた。あまりにも性急な動作に、リーゼロッテの長い髪がふわりと宙を舞う。
「無意識だ」
そう言ってふいと顔をそらしたジークヴァルトは、宙を見据えたままぎゅっと眉根を寄せた。




