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「さあ、この件はもうおしまい! で、マダム。こっちの件はどうするつもりなの?」
重苦しくなった空気をかき消すように、アデライーデはマダム・クノスぺに明るい声で問いかけた。こっちの件と指さしたのは、ケースの中で輝く『オクタヴィアの瞳』だ。
「どうもこうも、こちらの宝飾をリーゼロッテお嬢様がお付けになってデビューに挑むとなると、わたしもこのまま引き下がるわけには参りませんわ!」
言うなりマダムは紙の束を取り出して、猛スピードでペンを滑らせた。描いては飛ばし描いては飛ばし、ものすごい勢いで紙が宙に舞っていく。
「ほほほ! インスピレーションが止まりませんわ! こうなったらリーゼロッテお嬢様のデビューのドレスは一から作り直しさせていただきます!!」
「ええっ!?」
「じゃあ、わたしのドレスはこのあたりでオッケーね!」
「ええ、今日はもう終いにしましょう。アデライーデお嬢様のドレスは、わたしが責任をもって夜会までにかんっぺきに仕上げておきますわ! このクノスペにお任せください! ほほほほほっ、たぎるわ! この血がたぎって仕方がないわぁぁぁ!」
「さ、この窮屈なドレスはさっさと脱ぐわよ」
アデライーデは侍女たちに指示して、ラフな部屋着のドレスへと着替えにかかる。
「では、わたしたちはこれで失礼いたします。リーゼロッテお嬢様、また仮縫いでお会いいたしましょう」
散乱したデザイン画をお針子たちがかき集めると、マダム一行は嵐のように去っていった。
「はあ~作戦成功ぅ」
居間のソファに腰かけてアデライーデがはしたなくのびをする。侍女の一人に非難めいた視線を送られるが、どこ吹く風でそのままごろんとソファに寝転んだ。
「アデライーデお嬢様! 公爵令嬢ともあろう方がそのようなはしたない格好をされて! リーゼロッテ様を見習ってくださいませ!」
いきなり水を向けられたリーゼロッテは、向かいのソファに腰かけたまま居心地悪そうに身じろぎした。
「いいじゃない、ここはわたしの部屋よ。肩も凝ったし寝転がるくらい別にいいでしょ」
今朝方早く戻ってきて、仮眠もそこそこにマダムの着せ替え攻撃が始まったのだ。ようやく窮屈なコルセットから解放されて、あくびのひとつも出ると言うものである。
「お嬢様! 昔のようにどこででも寝てしまう癖は直っておられないのですか?」
アデライーデは子供の頃、力を使い果たしては行き倒れて、所かまわず眠ってしまっていた。それは公爵家の屋敷だろうと王城の敷地内であろうと変わらずで、あちこちでみなを心配させたものだった。
さすがに今はそんなことはしなくなったが、社交界でアデライーデはいまだに『フーゲンベルクの眠り姫』と呼ばれているのだ。
「よそではこんなことはしないわよ。久しぶりに帰ってきたっていうのにうるさくいわないで」
ふくれ面をしてアデライーデはクッションを抱えたまま背もたれの方へ横向きとなった。首をこきこきと鳴らして、肩のあたりを揉み込んでいる。
「アデライーデお姉様。お辛いようなら、わたくしがお背中を押しましょうか?」
日本では家族や友人にマッサージをして、かなり好評だったことを思い出したリーゼロッテは、アデライーデのソファの前で膝をついた。「あら、いいわね」との返事に、その背中をそっと指圧する。
「あっ! あっ! いい! それ、いいわ、リーゼロッテ!」
リーゼロッテの小さな指でピンポイントに背中を押され、アデライーデが痛気持ちいい叫び声をあげた。
「お、おやめくださいませ! リーゼロッテ様はそのようなことなさいませんよう! ああ、お嬢様もお止めください! おふたりとも悪ふざけが過ぎますわ!」
侍女の悲痛の叫びにアデライーデは身を起こすと、笑いながら目の前のリーゼロッテをぎゅっと抱きしめた。リーゼロッテもつられて淑女らしからぬ笑い声をあげてしまう。
「いいじゃない。未来の妹と親睦を深め合っているだけでしょ」
そう言ってリーゼロッテの血色の戻った頬をするりと撫でた。ひとしきり笑い合った後、アデライーデはリーゼロッテの顔をじっと覗き込んだ。
「……さっきはきつい言い方をして悪かったわ」
「い、いいえ! わたくしが至らないばかりに、アデライーデお姉様に……」
「リーゼロッテ、そうじゃないでしょう?」
リーゼロッテの言葉を制止して、アデライーデはニヤッと笑って見せた。しばし考え込んだ後、リーゼロッテは先ほどと同じくお手本のような淑女の笑みを作った。
「そうよ、それ」
満足そうに頷くとアデライーデはリーゼロッテの顎に手を添えた。
「そうね、顔の角度はこう。その笑顔もいいけど、もっと、こう、何を言われているのかわからない、そんな表情を少しのせてみて?」
本当に何を言われているかよくわからなかったリーゼロッテは、曖昧な笑みを浮かべて小首をかしげた。
「そう! それ、いいわ! ついでに、そんなつまらないこと言うなんて、この人はなんてバカなんだろう、そんな気持ちもひと匙含ませれば、もう完璧ね! 違うわ、もっと憐れむ感じで……そう! それよ!」
それと言われても、いまいちどれなのかよくわからなかったが、リーゼロッテはとりあえず言われた表情をキープした。
「ああ……いいわ、リーゼロッテ、あなたなかなか才能があるわ。いい? 夜会で誰かに心無いことを言われたら、必ずその顔を作るのよ? 下手に言い返したりしなくていいから、黙ってその顔で微笑んでいれば、あとはそれでうまくいくから」
(口は災いのもと、ということかしら……?)
リーゼロッテはアデライーデがそう言うならと、普段のはにかむ笑顔に戻って「はい、お姉様」と頷いた。
「いやぁん、なんでこんなに可愛いのぉっ」
悶絶するように胸にかき抱かれ、リーゼロッテはあわあわとなった。すっかり和やかな雰囲気に戻った場にほっと息をついた侍女たちは、ふたりのやり取りをみやりながら、仕方ないとばかりに目配せし合っていた。
間近でアデライーデに顔を覗き込まれ、リーゼロッテの頬がぽっと赤くなる。ふと、いつもは眼帯で隠されている右目の傷が目に入った。
化粧を施しているからだろうか。そこまで目の上下にかかる傷は目立たない。だが、その右眼はどことなく焦点を結んでいない。やはりその視力は失われているのだろう。
「傷が気になる?」
「はい、あの、いいえ……その……今も痛んだりはなさいますか?」
気づかわし気な視線は、純粋に心配しているようだ。周囲からぶしつけに送られる同情の目を、いつもアデライーデは煩わしく思っていたが、リーゼロッテのものはそれほど不快に感じなかった。
「そうね、寒い日なんかは痛むこともあるけど……言われてみれば、最近はあまり気にならないわね」
その言葉にリーゼロッテがほっとしたような顔をする。そんなリーゼロッテをアデライーデは再びじっとみつめた。片目での生活も慣れてきた。だが、片側のみを酷使する日々は、頭痛や過度な疲労をもたらしてくる。
(そういえば、ダーミッシュ領に滞在してから、ひどい頭痛も減ったような……)
リーゼロッテの愛らしい顔をみつめながら、アデライーデは以前、王城で読んだ調書を思い出した。
王城で異形の者たちが騒ぎを起こした日、リーゼロッテの聖女の力が解放された。その日、王城に残っていた者たちは、抱えていた慢性的な体調不良が改善したという報告が山ほど乗っていたのだ。
ふと気づくとリーゼロッテのエメラルドのような緑の瞳が、アデライーデの青い瞳を食い入るようにじっと見つめている。
「……アデライーデお姉様……とっても綺麗……」
うっとりと目を細めて微笑むリーゼロッテに、今度はアデライーデが頬を赤らめた。
「何なの、この娘! ヴァルトにあげるのはもったいなさすぎる!」
再びリーゼロッテを胸に抱きしめながら、アデライーデは心の中で白旗を上げていた。
(これじゃあ、あの他人に厳しいエマニュエルも懐柔されるわけだわ……)
リーゼロッテが苦境に立たされたとき、手を差し伸べずにいられる者がどれだけいるだろう。
夜会などもう二度と出るものか。ずっとそう心に決めていたのだが、今回、白の夜会への出席が不可避なものとなってから、アデライーデは憂鬱な日々を送っていた。
それなのにリーゼロッテのためなら、自分のちっぽけなプライドなど些細なことだと思えてくるから不思議なものだ。
リーゼロッテはただ微笑んでいればいい。
甘やかすばかりではいけないと頭では分かっているのに、周囲が全力で守ろうとしてしまう。
「とんだ人たらしね」
もう一度その頬をするりとなでて、アデライーデは仕方ないといった風に微笑んだ。




