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◇
「ピッパ様? どちらにいらっしゃいますか?」
庭の茂みをかきわけながら、アンネマリーは声をかけた。
アンネマリーはお茶会があった日の夜、第三王女殿下の話し相手になるよう、王妃から命がくだったことを突然告げられた。夜が明けて、王妃の離宮の客室で身支度を整えると、早速王女殿下と引き会わされたのだが、今年十歳になるピッパはかなりおてんばな王女だった。
幼少期から父親と共に隣国で暮らしていたアンネマリーは、ブラオエルシュタインから隣国へと嫁いだ第二王女であるテレーズと懇意にしていた。隣国の言葉をそれなりに話すことができたアンネマリーは、まだ、言葉がうまく話せないテレーズ王女のために、王女が嫁いで約ニ年の間、いろいろと尽力してきた。国に帰るときは、後ろ髪を引かれる思いで帰国したのだ。
そのためピッパは、姉姫であるテレーズの様子をあれこれ聞いてきた。異国の話も毎日のようにせがんでくるので、王女殿下にどこまで異国の話をしていいものか、アンネマリーは苦慮していた。
ブラオエルシュタインは、封建的で閉ざされた国だ。あまり他国の文化や情報を入れるのは、良しとされない風潮だった。
そんなピッパ王女を、アンネマリーが探しているのには理由があった。
ディートリヒ王に似て、綺麗な赤毛に金色の瞳をした愛らしい姫は、その日、刺繍の時間に飽きたのか、部屋を抜け出してしまったのだ。側にはたくさんの侍女や女官がいたが、その包囲網をかいくぐってこつぜんと姿を消してしまった。
割とよくあることらしく、またかとばかりに捜索は淡々と進められていた。アンネマリーは来たばかりでお客様状態だったが、よくわからぬまま、王女殿下の捜索へと駆り出されていた。
王城の内部に詳しくないアンネマリーは、なんとなく自分が子供の頃だったら隠れそうな場所を探してまわっていたのだが、思ったより奥の方まで入り込んでしまったことに気がついた。庭の茂みから出て、先に見えた小道に行先を変える。
(どうしよう……やみくもに歩いたから、どちらから来たのか分からなくなってしまったわ……)
まわりを見渡すも、人影は見えない。衛兵の一人でも立っていそうだが、人っ子ひとり見当たらなかった。すると、奥の方から、がさがさと葉が揺れる音がした。
「ピッパ様……?」
驚かせないようにそうっと近づくと、なんだか楽しそうな笑い声が聞こえてきた。しかし、それは少女のそれではなく、青年の、透き通った耳に心地いい笑い声だった。
「はは、殿下、くすぐったいぞ。ほら、顔をなめるのはやめろ」
何やら不穏な台詞が聞こえてくる。
「ば、やめろってば。ようし、そんなやつは、こうしてやる」
楽しそうなことこの上ない、それはそれは上機嫌な声だった。アンネマリーはいけないと思いつつも、音をたてないように近づき、茂みの陰からそうっと覗き見た。
「!?」
そこには、狸のように大きな猫を膝に乗せ、満面の笑みで猫と戯れている、ハインリヒその人がいた。
「王子殿下……?」
あぐらをかいたハインリヒの膝の上で、長毛の猫がだらしなくおなかを上に向けて寝そべっている。顔を上げた毛まみれのハインリヒが、笑顔のまま固まった。
ぶな~と、およそ猫らしくない鳴き声が聞こえるまで、ふたりは長いこと、無言で見つめ合っていた。
王子を見下ろしていることに気づいたアンネマリーは、我に返り、あわてて膝をついて頭を垂れた。
「申し訳ございません! ピッパ様をお探しておりましたところ路に迷ってしまって」
言い訳にしかならないが、アンネマリーは必死に訴えた。いくら嫌っていても、一国の王子を目の前にして、不敬を働くわけにはいかなかった。
「ああ……あの子はまた抜け出したんだね……仕方のない子だ」
やわらかい声が落ちる。
「いいよ。顔を上げて」
自分に向けられたその声は思いのほかやさしく、自分の思っていた王子とは違ったことに、アンネマリーは驚きを隠せなかった。リーゼロッテが、王子殿下はよく笑う方だったと言っていたのを思い出す。
「君は確か、クラッセン侯爵令嬢だったね。義母上が無理を言ったようだ。すまない」
ハインリヒは、彼女が茶会で自分に興味なさげにしていた令嬢の一人であることに気づいた。
リーゼロッテを心配して王城にひとり残ったことも、王妃に妹姫の話し相手を命ぜられたことも、カイから報告を受けている。彼女なら、むげに追い払うようなことをしなくても大丈夫だろう。
「君はリーゼロッテ嬢の従姉だそうだね。……彼女は少し難しい案件で悩んでいる。心配かもしれないが、今しばらくこちらにまかせてくれないか?」
「え? あ、はい……もちろんです」
突然のことで、言葉がうまく出てこない。アンネマリーは、自分がハインリヒの紫の瞳をじっと見つめたままでいることにも気がつかなかった。
「あと、この姿を見たことは、秘密にしてくれると助かるのだが」
肩をすくめておどけたようにハインリヒは言った。毛まみれで猫にデレデレしていたハインリヒに、王太子の威厳は皆無であった。
「ふ、ふふ……わかりましたわ。わたくし、何も見ていませんわ。王太子殿下が、大きな猫と楽しそうに戯れていただなんて」
アンネマリーは、こらえきれず笑ってしまった。なんとなく、その猫に触れてみたくなる。お腹がぽよぽよしていて触ると気持ちがよさそうだ。
「あの、その猫に触れても?」
そう言うと、王子は笑顔から一転、渋面を作った。
「いや……殿下は少し気難しいんだ。慣れていない人間が触ろうとすると、引っかかれるかもしれない」
「殿下が……引っかく……?」
そう聞き返されて、ハインリヒはしまったというような顔をした。
「あ、いや、殿下、というのは……この猫の名だ」
「猫の名、でございますか?」
きょとんとして、アンネマリーが首をかしげる。ハインリヒは一瞬黙って、観念したように続けた。
「ああ、子供の頃にこの猫がやってきたのだが……。いつも、周りのみなが自分のことを“殿下” “殿下”と呼ぶものだから、その、何というか、自分も誰かを“殿下”と呼んでみたかったのだ。だからこの猫の名を殿下にした」
ちょっとやけくそのように言って、ハインリヒはそっぽを向いた。耳が赤くなっている。耐えきれなくなって、アンネマリーは庭にしゃがみこんだままお腹を抱えて笑ってしまった。
「王子殿下の殿下は、殿下以上に殿下らしいですわね」
ふてぶてしい態度で仰向けたまま、猫の殿下は狸のような太いしっぽを、ゆらゆらと左右に揺らしている。
「殿下がいっぱいでややこしいな。ここに来た時は、わたしのことはハインリヒと。そう呼んでくれないか?」
アメジストのような紫の瞳にまっすぐ見つめられ、アンネマリーの頬が朱に染まった。
「またここに来ることを……お許しいただけるのですか?」
ハインリヒは、ゆっくりとうなずいた。
「ただし、約束してほしいことがニつだけある」
殿下のお腹をなでながら、ハインリヒは一度視線を下に落とした。
「猫の殿下と、このわたしには、何があっても決して触れぬこと。……約束してくれるか?」
真剣な目で見つめられ、アンネマリーは是の答えしか返せなくなる。
「はい。決して触れないとお約束いたします。でも……」
今度は、アンネマリーが水色の瞳を伏せ、再びハインリヒを見つめた。
「お約束はふたつだけでよろしいのですか? あとひとつ……今日見たことを、わたくし、誰かにしゃべってしまうかもしれませんわ」
「ではこの秘密は、ふたりだけのものに」
これも約束だ、とハインリヒが柔らかい表情で言った。
「はい、ハインリヒ様」
どちらからともなくくすりと笑い、ふたりは猫の殿下が邪魔をするまで、しばらく見つめ合ったままでいた。
【次回予告】
はーい、わたしリーゼロッテ。ヴァルト様に力の謎を解いてもらうべく王城生活を続けていたけれど。いつの間にか、近衛の騎士様たちの噂の的になっていて⁉︎ ヴァルト様、恥ずかしいので抱っこするのはやめてください!
次回、第10話「囚われの妖精」 わたしのチート、探してプリーズ!!




