第30話 ためらいの午後
「ねえ、カーク。なんだか暇ね……」
日当たりのいいサロンで紅茶を飲みながら、すぐ脇の壁際でたたずむカークに声をかけた。
今この場には、リーゼロッテとカーク以外に誰もいない。返事が返ってこないのはわかっているが、独り言を言うよりは、よほど建設的といえるだろう。
サロンの入口には護衛としてエーミールが控えているのだが、リーゼロッテにはそれと分からないよう配されていた。
あの日以来、力の制御の訓練は行われていない。それどころか、ジークヴァルトの顔をちらりとも見かけていなかった。
あのぐちゃぐちゃになった執務室を思うと、その事後処理に追われているのだろう。そう思いたいのだが、あんなことのあった後では、ジークヴァルトも顔を合わせづらいのかもしれない。
無意識に自分の手首を反対の手で握りしめた。
今はドレスの長い袖に隠されているが、そこにはまだあの日の痕が残されている。だいぶ薄くなってきているものの、手首は掴まれた形のままあざとなって、あの日の出来事をなかなか忘れさせてくれない。
リーゼロッテは先ほどから何度もついているため息を、ふたたびその口から小さく漏らした。
『ため息ばかりついてるとしあわせが逃げてくよ?』
からかうような声音に、はじかれたように顔を上げる。同時に壁際のカークが、ぴょんとその場で大きく跳ねた。
無意識に距離を取ろうと立ち上がったリーゼロッテは、あの日以来、初めて目の前に現れた守護者の出で立ちを見て、真っ青な顔になった。
「は、ハルト様……そのお姿は、どうなさったのですか……?」
めずらしく地に足をつけて登場したジークハルトは、銀色の高貴そうな甲冑を身につけて、全身が血まみれの状態だった。頭から血を流し、その背中や腕などに何本もの矢が刺さっている。
「もしかして……ジークヴァルト様に……?」
『……うん、実は……』
俯いて苦しそうな表情を見せる。
「そんな……!」
口元に手を当てて、リーゼロッテは信じられないといったように小さく首を振った。
ジークハルトは瞳を伏せて、『いいんだ、すべてはオレが悪かったんだから……』と苦し気につぶやいた。
みるみるうちにリーゼロッテの瞳に涙がたまっていく。その様子を神妙な顔で見つめていたジークハルトは、しかし突然、ぷっと噴き出した。
『って言いたいところだけど、これは別にヴァルトにやられたわけじゃないよ』
肩をすくませて、血まみれのままいつものように悪びれない笑顔を向けてくる。
「ええ? でしたらその格好は一体……?」
リーゼロッテは目を丸くしたあと眉根を寄せた。何しろ目の前の守護者の姿は、相当痛々しく感じられ、見ていて決して楽しいものはなかった。
『この姿は、オレが死んだときの出で立ちなんだけど……これならすごく反省しているように見えるでしょ?』
「ええっ!?」
その発言自体が反省していないことの証明のようだが、ジークハルトはお構いなしに言葉を続けた。
『しばらくこの格好でいれば、リーゼロッテも許してくれるかと思ってさ』
こんな血まみれの状態で周りをうろうろしてほしくない。そこら辺にいる異形にもスプラッタなものはちらほらいるが、知り合いのそんな姿に耐えられるほどリーゼロッテの神経は図太くなかった。
「だ、ダメですわ!」
『えー、冷たいなぁリーゼロッテは。そこを何とか許してよ。もう二度とあんなことはしないからさ』
「違いますわ……! そうではなくて、そのような格好は今すぐやめてくださいませと申し上げているのです!」
『え? じゃあ、この前のこと、許してくれるんだ』
「ええ!? ……いえ、そんな……そういうわけには……」
なにしろあの日、本気で無茶苦茶怖かったのだ。リーゼロッテが言いよどむと、ジークハルトは血まみれの顔をぐいと寄せてきた。
肩に刺さった折れて曲がった矢の先がぷらりと揺れる。矢傷がリアルすぎて、リーゼロッテは思わず目を背けた。
じーっと顔を覗き込まれて、リーゼロッテはその圧に耐えきれずに涙目であっさりと白旗を上げた。
「わ、わかりましたわ! 許します! もう 許しますから、どうか今すぐ元のお姿に戻ってくださいませ!」
『そう来なくっちゃ。ホント、やっさしいなぁ、リーゼロッテは』
うれしそうに声を弾ませると、ジークハルトはポンっと普段通りの観劇王子の服装に戻った。あぐらのポーズで宙に浮く姿を認めて、リーゼロッテは大きく息をついた。
「……そのかわり……ひとつだけ、お聞かせ願いますか? ジークハルト様……」
真摯に見上げると、ジークハルトは笑顔のまま、何? と首をかしげて見せた。
あの日、リーゼロッテがされたことは、とてもではないが許せるようなことではなかった。しかし、あの時のジークハルトは本気ではなかったと、今では思う自分がいた。
「ハルト様は……本当は、何がしたかったのですか……?」
『んー? うん、まぁ、あの場でリーゼロッテがヴァルトの子供を宿したとしても、それは託宣の子供ではなかっただろうしね……』
ジークハルトの言葉はめずらしく歯切れが悪い。リーゼロッテから目をそらし、なんとなく何かをごまかしているように感じられた。
「どういうことですの?」
リーゼロッテはうやむやにされないように語気を荒げた。片眉を上げて、ジークハルトを可愛らしく睨みあげる。
『リーゼロッテは知らないかもしれないけど、婚姻の託宣を受けた者には、結婚する時期が改めて託宣として降りるんだ。それまではどんなに交わろうとも、託宣の子供は授からないってわけ』
「ええ? でしたらハルト様がしたことに、まるで意味などないではないですか!」
『ヴァルトがなかなかリーゼロッテに手を出さないからさぁ。ちょっとじれちゃって』
ジークヴァルトと同じ顔でてへぺろされて、リーゼロッテはあんぐりと小さな口を開けた。
「そ、そのような理由であのようなことを……!?」
淑女のたしなみも忘れて、その場でがくりと膝をついた。
そんな姿でも優雅に見えるのは、ダーミッシュ領で毎日転びまくっていたからだ。どうせ転ぶのならと令嬢らしい可憐な転び方を研究してきた身としては、優雅に膝をつくのもお手の物であった。
そんなリーゼロッテをジークハルトはニコニコと見つめている。
生まれながらに婚姻の託宣を受けた者たちは、幼いころから共に過ごして、自然と、それもかなり若いうちに、そういう関係に至っていくのが当たり前のことだった。
守護者として幾人もの託宣者の傍らで過ごしてきたジークハルトにしてみれば、リーゼロッテとジークヴァルトのつかず離れずの関係の方が珍妙に見えて仕方がない。
『リーゼロッテはさ、自衛のためにちゃんと正しい知識を身につけた方がいいよ? でないとまた足元を掬われかねないし』
お 前 が 言 う な、という言葉がのど元まで出かかって、リーゼロッテはそれを脳内で叫ぶにとどめた。流されるままに異世界令嬢生活を続けてきたが、ジークハルトが言うことももっともだと思ったからだ。
その時不意に腕を引かれて、ぐいと立ち上がらされた。驚いて見上げると、息を弾ませたジークヴァルトに抱えるように抱き込まれていた。
ここまで走ってきたのだろうか。その額には汗が滲んでいる。




