29-3
◇
エッカルトは執務室の扉の前で片膝をつき、手に持った鍵の束の中からひとつを選んで、目の前の鍵穴へと差し込んだ。
かちゃりと鍵が回る小気味いい音がする。刺した鍵をそのままにエッカルトは扉のノブに手をかけてゆっくりと回してみた。ガチガチと抵抗を受け、ノブは回らない。
もう一度刺した鍵を反対方向に回すと、再びかちゃりと音がした。同じようにノブを掴んで回すが、ノブは軽く回るだけで扉は開かなかった。
「鍵はかかっていない……?」
後ろに立ってその様子を見守っていたマテアスが息を飲んだように言った。エッカルトは静かに立ち上がると、頷いてマテアスの言葉に同意した。
「お前の言うように、この扉は初めから鍵はかけられていないようだ」
「確かに……目の前で扉がひとりでに閉まっただけで、鍵がかけられる音はしませんでした」
「そうとなると内側に何か物が置かれているかだが……」
公爵家の屋敷の扉は全て、部屋の方向に扉が開く内向きのドアだった。賊が侵入してきた際に、バリケードを作って扉を開けさせないようにするためだ。
しかしジークヴァルトがそんなことをする理由がない。いくらリーゼロッテと二人きりになりたいと思ったとしても、このような強硬手段に出るとは到底考えられない。
こんな面倒なことをするくらいなら、自室にリーゼロッテを連れ込んだ方がよほど手っ取り早い。その方が異形たちの横やりが入らないからだ。
エッカルトは扉に片手を当てた。何か強大な力に包まれていることは感じ取れるが、物音ひとつしない部屋の中の様子までは測り切れない。
押し当てた手のひらにビリっとした痛みを感じて、エッカルトは扉から手を離した。
「この力が突然部屋の中を包んだのだな?」
「はい、扉が閉まってそう間を置かずに。……一瞬の出来事でした」
青ざめたマテアスの言葉に「そうか」と返したきり、エッカルトはしばし沈黙する。顎に手を当て瞳を閉じる。部屋を包む力に禍々しさは感じない。ただただ、圧倒される強大な力だ。
(親父のこの反応……ジークフリート様の時でも、恐らくこんな事態はなかったんだな……)
「大旦那様に連絡をしますか?」
「いや、いずれ報告は必要だろうが……今はこの状況を何とかせねばなるまい」
ジークフリートたちは今、王都をはるか離れた辺境の地で過ごしている。早馬を送っても、行って帰って一週間はかかるだろう。自分たちだけで対処するほか選択肢はなかった。
しかし今目の前で起きていることは未曽有の事態だ。部屋を包む力に邪気は感じないものの、異形のしわざでないとも言い切ることはできなかった。部屋の中でジークヴァルトとリーゼロッテは、今どうなっているのだろうか?
マテアスの脳裏に、真っ赤に染まったあの日がフラッシュバックする。守るべき存在――ジークヴァルトの小さな体が、目の前で倒れ伏した血塗られたあの日だ。
呼吸が浅くなり、マテアスは震える二の腕を無意識に反対の手で強く掴んだ。
「マテアス、打ちひしがれるのは万策尽きてからだ。己にできることを放棄して、お前はすべてを諦めるつもりか?」
エッカルトの厳しい口調にマテアスははっと顔を上げた。ぎゅっと唇をかみ、眉根を寄せる。
「……上の階からロープで降りて、窓から執務室に入れないかやってみます。その間、廊下側から壁を壊す手はずをお願いできますか? それと、念のため、周辺の人払いもお願いします」
「承知した。すぐに手配を……」
エッカルトが頷こうとしたその時、執務室の中がドンと揺れた。中に残っていた異形たちがまるで混乱したように騒ぎ始めている。
エッカルトとマテアスは思わず顔を見合わせた。
四の五の言っている時間はない。それ以上言葉を交わすことなく、互いに反対の廊下へとふたりは足早に歩み去っていった。




