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「どんなに周囲が守ろうにも、異形の数には勝てないからね。ちょっとした油断で大惨事さ」
「どうしてそんな……」
「どうしてって? それは龍がそう決めたからだよ。龍の託宣は絶対だ。今の今まで一度だって違えられたことはないし、龍から託宣を受けた者は、それを果たすまで死ぬことすら許されない。例え、死んだほうがましって目にあおうともね」
リーゼロッテは絶句した。王城でハインリヒ王子から聞いた事と言えば、自分の受けた託宣がジークヴァルトとの婚約だということだけだ。そして、王子はこうも言っていた。
「わたくしが異形に狙われるのは、ヴァルト様の託宣の相手だからと……」
「ああ、そうだよ。異形たちはフーゲンベルクの血筋を恐れているからね。だから、こうやって君とヴァルトが近づくと、異形の者は焦って騒ぎ出すのさ」
胸元で遊んでいた指が下に降ろされ、無遠慮な手が滑り落ちる。
リーゼロッテが短い悲鳴を上げたのと同時に、周囲にいた異形の者たちが一斉に騒ぎ始めた。
執務室全体がドンっと大きく揺れ、部屋の空気がビリビリと振動する。ありとあらゆるものがガタガタと音を立てて震えだした。
「ほらね。異形たちの恐怖する声が聞こえるだろう?」
ジークハルトは耳元でやさしく囁いた。
「いやっあっ」
異形たちが荒れ狂う部屋の中、リーゼロッテは怪しい手つきから逃れようと死に物狂いで抵抗した。リーゼロッテの悲痛の叫びが、何かが割れる音にかき消されていく。
「ほら、嫌ならもっと本気で抵抗しなきゃ」
楽しそうな声音で掴んだ手首をさらにきつく締めあげる。リーゼロッテの瞳からは、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「ああ……リーゼロッテの涙はいつ見ても綺麗だね」
目じりに唇を寄せ、あふれる涙をちろっと舐め取ると、ジークハルトは痛みに触れたかのように一瞬顔をゆがませた。
「……綺麗すぎて、オレたちには甘美な猛毒だ」
恐怖におののく異形たちが、リーゼロッテの涙に反応している。ジークヴァルトへの畏怖と嫌悪、それにも勝るリーゼロッテへの憧憬と贖罪――
抗いがたい誘惑が、異形たちをさらに混乱へと導いている。
「聞いて、リーゼロッテ」
ジークハルトはそれまでやわやわと動かしていた手を止めて、リーゼロッテの瞳を覗き込んだ。やっていることにそぐわない穏やかな顔つきに、リーゼロッテはジークハルトの真意が測れない。
いつもと変わらぬ守護者の笑顔。痛む手首。やさしげな声。鳴りやまない部屋の騒音。体を這いまわる怪しい手つき。溢れて止まらない涙。異形たちの叫び声。
ぐちゃぐちゃで、何が何だかもうわからない。
「ヴァルトが受けてきた恐怖はこんなものじゃなかったよ。ねえ、可哀そうだと思わない?」
そう言いながらドレスの上から手のひらを当てて、ジークハルトは慈しむようにその腹をなでた。
「でも、リーゼロッテが託宣の子供をここに宿せば、ヴァルトはその運命から解放される。ヴァルトを救えるのは、リーゼロッテ、君だけなんだよ」
やさしく腹をなでながら、ジークハルトは伺うようにリーゼロッテを覗き込んだ。リーゼロッテの瞳が大きく見開かれる。溢れた涙が膜を作って、緑に輝くガラス玉のようだ。
「ごめんね。でも、少しでも早くコマを進めたいんだ。ここまできといて今さらだって、自分でもそう思うんだけど……」
悪びれない笑顔のままジークハルトは再び手を下にすべらせた。




