28-10
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ソファに座ったままエマニュエルを見送ったリーゼロッテは、もう一度紅茶に手を伸ばしのどを潤していた。ほうとため息が出る。やはりエラが淹れてくれる紅茶がいちばんだ。
(エデラー夫人のご容体、たいしたことないといいのだけれど……)
うつむき加減で小さくため息をつくと、ぱたんと扉が閉まる音がした。マテアスが戻ってきたのだろうと気にも留めなかったのだが、一向にマテアスが入ってくる様子はない。
不思議に思って扉の方に顔を向けると、そこには扉を背にして立った状態で浮いているジークハルトがいた。じっとこちらを見つめている。
「ハルト様? いらしていたのですか?」
何か違和感を覚える。
そう思ったリーゼロッテは、ジークハルトの顔にいつもの笑みがないことに気がついた。笑みどころか表情がない。その姿はまるでジークヴァルトのようにも見えた。
(いつもニコニコしているハルト様が……何かあったのかしら?)
具合でも悪いのかとさらに何か声をかけようとしたとき、それまで無表情で黙って見つめていたジークハルトが、にこっと笑みを作った。
その瞬間、リーゼロッテは耳の奥に衝撃を受けた。飛行機に乗ったときのような、耳の奥が詰まったような感覚だ。
思わず両手で耳を抑える。耳だけではなく何か空気に閉塞感のようなものを感じて、リーゼロッテは浅い呼吸を繰り返した。
(なにこれ……なんだか息苦しい……)
異形たちも落ち着きがないようにそわそわとした様子をしている。リーゼロッテは反射的に執務机に座るジークヴァルトを仰ぎ見た。
「お前っ……何のつもりだ!」
鋭い声と共に立ち上がったジークヴァルトの視線が、守護者の元に向けられた。
リーゼロッテもつられて視線を戻すと、ジークハルトが泳ぐように、すい、とこちらに向かってきていた。その指先を伸ばして、今にもリーゼロッテに触れようとする。
その間にジークヴァルトが体をねじ込むように入り込んだ。
「――……っ!」
ジークヴァルトの背中越しに、ジークハルトが楽しそうに笑っているのが垣間見えた。次の瞬間、伸ばした手をそのままに、ジークハルトはジークヴァルトの体に重なった。
ジークヴァルトの輪郭がぶわっとぶれたように見えた後、その体が一度大きく揺らいだ。その一瞬、目の前で突風のような空気の衝撃を感じて、リーゼロッテは咄嗟に両腕で頭をかばった。
しばし重苦しいほどの沈黙がおりて、リーゼロッテはその目をそっと開いた。
見上げると目の前に、リーゼロッテを守るように立つジークヴァルトの背中があった。周りを見回すがそこにジークハルトの姿はない。また気まぐれで出ていったのだろうか?
「甘すぎだ」
だらんと両腕を下ろした状態で、うつむき加減のジークヴァルトがぽつりと言った。
「ヴァルト様……?」
続いている息苦しさに不安を感じて、リーゼロッテはジークヴァルトに手を伸ばした。
「えっ……?」
その手を取ろうとして、リーゼロッテは逆に手首を掴み取られた。乱暴に腕を引かれ、リーゼロッテはたたらを踏みながら引き寄せられる。
ジークヴァルトはもう片方の腕も掴んだかと思うと、無言のままリーゼロッテを荷物を扱うかのように無造作に持ち上げた。
「いった」
背中が打ち付けられる衝撃に、リーゼロッテは思わず声を上げた。痛みに一瞬、呼吸が止まる。
「っは、ヴァルト様……一体何を……」
涙目で見上げると、リーゼロッテは執務机の上に乗せられて仰向けの状態にされていた。
両手首を縫い付けるように押さえられ、天井を見上げたまま身動きが取れない。覆いかぶさるような姿勢で見下ろすジークヴァルトと、リーゼロッテは目を合わせた。
机の上に積んであった書類の山が、バランスを崩して滑り落ちていく。
それには目もくれず、ジークヴァルトは深い青の瞳でリーゼロッテを見据えている。無表情の顔はいつも通りだ。いつも通りのはずなのに――
「あなたは……誰?」
考える前にリーゼロッテはそう口にしていた。違和感に身をよじるが、高い机からぶらりとはみ出した両足が、力なくだた空を蹴っただけだった。
押さえつけられた手首にぐっと力を入れられ、リーゼロッテのエメラルドのような瞳に恐怖の影が落ちる。ジークヴァルトの瞳が細められ、その口元に笑みが刻まれた。
(こんな笑い方……ヴァルト様じゃない……!)
違和感が確信に変わっていく。
「……ハルト様……ジークハルト様なの……?」
震える唇から紡がれた問いに、ジークヴァルトは破顔した。
「はは、やっぱりわかるんだ? さすがは龍が結びし運命の相手だね」
その声はジークヴァルトのものであって、ジークヴァルトのものではなかった。
「ごめんね、痛かった? 久しぶりの肉体はなかなか力加減が難しくて」
守護者のいつも通りの調子のよい言葉が、ジークヴァルトの口から紡がれている。それを前に、リーゼロッテは事態を飲み込むことがまるでできない。そんなリーゼロッテを前に楽しそうな声音で言葉は続いた。
「ヴァルトもまだまだ甘いよね。こんなにあっさりと体を乗っ取られるなんてさ」
リーゼロッテの瞳が戸惑いに揺れる。「なぜ……?」と、かすれた声がその口から小さく洩れた。
ジークヴァルトの顔をしたそれは、組み敷いたリーゼロッテの緑の瞳を覗き込むようにうっそりと笑った。
「リーゼロッテ。悪いけど、君にはヴァルトの子供、今すぐにでも宿してもらうから」
【次回予告】
守護者であるジークハルト様に体を乗っ取られてしまったヴァルト様。わたしは抵抗もむなしく押し倒されて……! 怒涛の展開の大ピンチに身も心も絶体絶命!? 何気に無理矢理展開! 苦手な方はご注意ですわ!
次回、第29話「守護者の本懐」 あわれなわたしに、チート、プリーズ!!




