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「最近、リーゼロッテ嬢の様子はどうなんだ?」
王太子の執務室で執務の傍らハインリヒ王子がジークヴァルトに声をかけた。
「ああ、問題ない、と言いたいところだが、最近は四六時中、力が漏れて出ている。まあ、公爵領にいる間はこの前のような騒ぎにはならないだろうが」
「白の夜会までにはどうにかなりそうなのか?」
「守り石があれば問題ない。それにダーミッシュ嬢自身も今は浄化ができないわけではないし、オレがそばについていれば大ごとにはならないはずだ」
「やはり白の夜会で、ヴァルトにこちらの警護をさせるのは無理か……」
執務の手を止めてハインリヒはつぶやくように言った。
白の夜会とは、年に一度開かれるデビュタントのための舞踏会のことだ。本格的な冬が訪れる前に、王城で催される国内最大級の夜会である。
「まあいい。今年はわたしも夜会には顔を出すだけだ。ヴァルトは心置きなく、リーゼロッテ嬢のそばにいればいい」
「今年は例の彼女とは踊らないのか?」
「ああ。去年まではまだギリギリだったが……いい加減もう無理だろう? 父上には許可は得た。それに今回、カイは義母上にとられてしまったからな」
ハインリヒは肩をすくめてみせた。
カイは王太子直轄の王城騎士という立場だったが、その実、王妃の子飼いの諜報員のようなものだった。ふたりは叔母と甥の関係であるし、そこはもう騎士団の中では暗黙の了解となっている。
自分の警護が手薄の状態で、大勢の人間が入り乱れる夜会に出るわけにはいかない。ましてや令嬢と触れ合ってダンスを踊るなどハインリヒにできるはずもなかった。
「今年は王の後ろでおとなしく控えているさ」
王族主催の夜会で王太子が踊らないとなると、物議を醸すのは目に見えている。だが、そんなことは些事だった。
その方が気が楽だったし、何より今回の白の夜会には、アンネマリーもデビュタントとして出席する。
顔を合わせないでいることは恐らく無理だろう。白の夜会で社交界デビューを果たす者は、全員もれなく王族に挨拶をするしきたりだった。
最後に会った日の彼女の顔が目に焼き付いて離れない。ハインリヒは無意識に唇を噛みしめた。
(わたしは彼女をひどく傷つけた――)
もっと穏便に済ませる方法はあったはずだ。王太子として、今までやってきたように、それができて当然だった。それなのに、あの日、自分を律することができなかった。
いつか彼女に触れてしまう。ハインリヒはそんな自分に恐怖した。
(――アンネマリー……)
自分にはもう、その名を呼ぶ資格などありはしない。分かっている。分かっているのに、気づくとあの日の彼女が脳裏に浮かぶ。今にも泣きそうな彼女の顔が。
自分の弱さゆえに、彼女をいたずらに傷つけたのだ。殿下の庭で見たあの愛おしい笑顔を、自分は二度と取り戻せないだろう。
雑念を振り払うかのように、ハインリヒはぎゅっとまぶたを閉じた。しばらく息を詰めてから、大きく息を吐く。
「どのみち、カイを王城にとどめておけるのは、白の夜会までだ。夜会後ヴァルトには、通常通りわたしの警護に戻ってもらう」
「ああ、わかっている」
このところずっと、ハインリヒが何かに思い悩んでいるのはジークヴァルトも承知はしていた。だが、自分に話して解決できる程度の事ならば、とっくにハインリヒ本人がどうにかしているだろう。
そう思うと、本人が口にしない以上、ジークヴァルトが立ち入るべきことではなかった。
カイの方がよっぽど事情を知っている様子だったが、やはりカイもハインリヒに何を言うでもなく、いつも通り接していた。
夏の終わりを告げる雨が、静かに降り始めた。窓をたたく雨音が次第に強くなっていく。
王太子の執務室には、雨音をBGMに書類を捲る音と紙を滑るペンの音だけが、しばらくの間響いていた。
その静寂を破ったのは、コンココンという扉をノックする音だった。この軽い感じはカイだ。
「ハインリヒさま―、入りますよー」
案の定、誰何する前にカイは遠慮もせずに王太子の執務室に入ってきた。
「今日は朗報をふたつ持ってきましたよ。まずひとつ、この雨で午後からの公務は取りやめになりました」
弾むような声のカイに、書類仕事の手を止めぬままハインリヒは「そうか」とだけ返した。
公務がなくなって喜ぶ王太子はどうかと思うし、今日は女性のいない場所での公務だった。カイにしてみれば朗報だろうが、ハインリヒにとっては外での公務が室内での書類仕事に変わるだけだ。
「もうひとつは、王妃殿下がおなりですよー」
「は……? 義母上がおなり?」
書類に滑らせていたサインの途中で手が止まり、ハインリヒはぽかんとした表情で顔を上げた。
「はい、隣の応接室でお待ちです」
しばらく絶句した後、ハインリヒは苦虫をかみつぶしたような顔で立ち上がった。
「先にそれを言え」
インクが滲んでしまった書類が目に入り、出そうになったため息を無理矢理飲み込んでから、ハインリヒは隣の王太子専用の応接室へと足を向けた。




