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仮の執務室である居間の扉を開け、近くの使用人に紅茶を用意するように声をかける。同じ轍は踏むものか。主とリーゼロッテを二度とふたりきりにはすまいと、マテアスは固く胸に誓っていた。
異形にひっくり返されて散々になった執務室は、八割がた元に戻っている。
マテアスは頑張った。公爵家の品位を損なわず、最短かつ予算を最低限にとどめるように、公爵家の家令を継ぐ者としてここ数日最善を尽くした。
呪いなどに負けるものか。人脈・人徳・権力、持てる能力をフルに使って、不眠不休で尽くして尽くして尽くしきったのだ。あとは修復を頼んだものが戻るのを持つのみだ。我ながら仕事ができる男だ。
自画自賛しなければ、誰も褒めてくれなどしない。別に褒めてもらうためにやっているわけではないのだが、まあ、モチベーションの問題だ。
やりきった満足感で、マテアスの気分はいつになく高揚していた。
「さあ、旦那様もこちらで休憩なさってください」
リーゼロッテに紅茶をサーブしながら、マテアスは上機嫌で主に声をかける。おもむろに手を止めて、ジークヴァルトは不承不承の体でリーゼロッテの隣に腰かけた。
(本当はうれしいくせに)
そう思いながら、ジークヴァルトには先ほど淹れてあった冷めた紅茶を提供した。
「リーゼロッテ様は先ほどお手から力が放たれていましたね」
「ええ、驚いた瞬間に飛び出したの。力を出そうと思って出したわけでは」
「あーん」
「………」
言葉の途中で差し出された菓子を目の前に、リーゼロッテが固まった。なんとも空気を読まない主である。だが今日のマテアスは機嫌がいいので、あえて主の愚行を見逃すことにする。
ジークヴァルトの顔を恨みがましそうにちらりとみやって、リーゼロッテはぱくりとそれを口にした。
リーゼロッテがもぐもぐしているうちに、ジークヴァルトが二つ目のクッキーに手を伸ばそうとする。咄嗟にリーゼロッテはその手首を掴み、涙目でふるふると首を振った。
淑女らしからぬ振る舞いであったが、リーゼロッテも必死なのだろう。クッキーを飲み下すと、リーゼロッテは懇願するようにジークヴァルトを仰ぎ見た。
「ヴァルト様。クッキーは自分できちんと食べますので、その、あーんは一日一回までにしていただけませんか?」
リーゼロッテ的には羞恥に耐えかねて全面廃止の方向にもっていきたいのだが、一度エッカルトに相談したときに、せめて一日一度だけでもあーんを受け入れてほしいとさめざめと泣かれてしまったのだ。あんなにやさしいおじいちゃんに泣かれては、いやだとは言えるはずもない。
手首を掴んだまま返答を待つリーゼロッテを、ジークヴァルトは無言でじっと見つめている。見つめ合った状態でしばらくの間、部屋は無音が続いた。
しばらくするとジークヴァルトは、クッキーを取ろうと伸ばしていた指先を、おもむろにリーゼロッテの顔へと向けた。ジークヴァルトの手首を掴んでいるリーゼロッテの手も、自然とその動きについていく。
ジークヴァルトの手のひらは、何の迷いもなくリーゼロッテの頬に添えられた。そのまま、触れるか触れないかの力加減でリーゼロッテの唇を親指の腹ですいとはらった。どうやら唇に残ったクッキーのかけらが気になったようだ。
リーゼロッテが動かないのをいいことに、ジークヴァルトの指は唇の上をゆっくりとさらに一往復した。
一連の動作に固まっていたリーゼロッテの顔が、みるみる真っ赤に染まっていく。狭いソファの中を最大限に後退去るのと同時に、ぼぼんっ!とリーゼロッテの手のひらどころか全身から緑色の光が飛び出した。
「おお、見事にお力が出ましたねぇ。素晴らしいです、リーゼロッテ様」
パチパチと手をたたきながら、マテアスはそれとなく主が責められない方向にもっていく。従者として主のためにこのくらいはして差し上げないと。
その甲斐あってか、リーゼロッテは目を白黒させているだけで、抗議の声は上がらなかった。
しかも先ほど、主の欲情に伴ってざわつきかけた異形の者が、リーゼロッテの放った力であっさり浄化されていた。一瞬の出来事だったが、マテアスの糸目はそれを見逃さなかった。
それがなければ、マテアスは蹴飛ばしてでもジークヴァルトを止めていただろう。仮の執務室まで破壊されてはたまったものではない。
(リーゼロッテ様のお力次第では、今後も部屋を死守できるかも……)
それが甘い考えだったとマテアスが身をもって知るのは、無情にもそれからほんの数日後のことであった。




