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「それで、リーゼロッテ様は旦那様に『何でもするから怒らないでくれ』と、そうおっしゃったのですね?」
確かめるように聞き返すと、リーゼロッテはこくりと頷いた。エマニュエルは大げさにため息をつく。何でもするなど、下心がある男の前では言ってはならない言葉の中でも上位の台詞だ。
(旦那様がお声を荒げるのも無理はないわね)
目の前のリーゼロッテは審判を待つ罪人のごとく、神妙な面持ちをしている。
「わたくしが全て悪いのです。お忙しいヴァルト様に迷惑ばかりおかけしてしまって……」
「リーゼロッテ様。旦那様がお怒りになったのはそこではありません」
エマニュエルはリーゼロッテの危うさに、正直困惑していた。
日常リーゼロッテと接していると、疑問に思うことが多々あった。なぜこの令嬢はこんなにも自己評価が低いのだろうかと。
伯爵家の令嬢ならば、もっと居丈高に振舞ってもおかしくないのだが、リーゼロッテはとにかく腰が低い。我が儘なことは何一つ言わないし、自分さえ我慢すれば丸く収まるだろうと思っている節さえ感じられる。
「リーゼロッテ様、不敬を承知で申し上げます」
エマニュエルの厳しい口調にリーゼロッテは居住まいを正した。
「恐らく旦那様がお咎めになったのは、リーゼロッテ様の“何でもする”などという軽率なお言葉です」
リーゼロッテはエマニュエルの真意がいまいち理解できなかったが、黙ったまま深く頷いた。
「よろしいですか? リーゼロッテ様。何でもするなどと気軽に言って、もしも相手に今この場で服を脱いで裸になれと要求されたらどうなさいますか?」
「え?」
リーゼロッテは驚いたように顔を上げた。その反応にエマニュエルは、危機感がまるでないリーゼロッテに心の中で嘆息した。
「実際に旦那様がそのようなことを言うなどとは申しません」
心の中ではわからないが。エマニュエルはそんなことを思いながらも、神妙な顔のまま言葉を続けた。
「しかし、世の中にはいい人間ばかりではないということです。旦那様が危惧なさったのはまさにそのことでございましょう。安易に軽率なお言葉を口になさるのは避けるべきだと、リーゼロッテ様はお思いになられませんか?」
大事に守られてきた深窓の令嬢だ。今までだったらやさしいお嬢様で済んだだろう。しかし彼女は間もなく社交界デビューを果たす。こんな迂闊な発言をほいほいするようでは、確実に悪い輩の餌食になるのは目に見えている。
思いもよらならなかった叱責を受けて、リーゼロッテは言葉を失っていた。日本にいた頃の事なかれ主義の八方美人な感覚では、貴族としてはやってはいけないのだ。
短慮な発言で言質を取られてしまったら、ダーミッシュ家や公爵家にも迷惑がかかることになるだろう。自分の立場をわきまえて言動に気を配ることは、貴族として当然のことだった。
「エマ様。わたくしが浅慮でしたわ。以後十分に気をつけます……」
しゅんとしてリーゼロッテはうつむいた。年上とはいえ下位の者からこうも厳しく言われて、通常の令嬢ならば怒り狂ってもおかしくはない。しかしリーゼロッテの態度は一貫して平身低頭だった。
「わかっていただけたなら何よりですわ」
「エマ様。わたくしどうしようもないくらい世間知らずなのです。至らないことがあったら、すぐに教えてくださいませ」
お願いいたしますと懇願するように頭を下げる。エマニュエルは慌ててそれを制した。
「リーゼロッテ様。下の立場の者に安易に頭を下げるのはいけませんわ。外では決してなさいませんよう」
「申し訳ありません!」
早速の教育的指導に、リーゼロッテは条件反射のように頭を下げてしまう。筋金入りの腰の低さに、エマニュエルは苦笑するほかなかった。
「ですからそのように謝ってはなりません」
ますます恐縮した様子のリーゼロッテに呆れながらもエマニュエルは、自然と口元に笑みが浮かんでしまった。
「リーゼロッテ様……どうか……旦那様をお嫌いにならないでください……」
ふとこぼれるように言葉が出る。
あれほど取り乱して怒りを露わにするジークヴァルトなど、今まで唯の一度も見たことがない。だが、こんなにも無防備なリーゼロッテに、危機感を覚えたのだろう。それこそ声を荒げてしまうほどに。
どうか、彼の真意を分かってほしい。エマニュエルは懇願するような視線をリーゼロッテに向けた。
「もちろんですわ、エマ様。ジークヴァルト様がおやさしいのは十分にわかっておりますし、今回の件はわたくしが嫌われても仕方ないくらいですもの」
「旦那様がリーゼロッテ様をお嫌いになるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ませんわ」
きっぱり言い切るエマニュエルに、リーゼロッテは首をかしげて曖昧な笑みを返した。
どうやったら主人の恋心はリーゼロッテに届くのだろう。リーゼロッテは託宣の相手のはずなのに、龍の怠慢なのではないか。エマニュエルは心の中で再びため息をついた。
そんな時、エラが部屋に戻ってきた。室内に入るなりエラは、口を開くより先にリーゼロッテに駆け寄った。
「お嬢様、何かございましたか!?」
「ええ、わたくしの浅慮からジークヴァルト様にご迷惑をおかけしてしまって……」
(さすがエラ様ね。何を言わずともリーゼロッテ様のご様子ひとつで異変を察知するなんて)
膝をついてリーゼロッテの手を取りながら、エラは事の次第を頷きながら聞いていた。もちろん守護者やカークのことは話題に出さなかったが、リーゼロッテは包み隠さずエラに胸中を打ち明けている。
信頼関係が見て取れるが、エラは大事にするあまり、リーゼロッテに対して過剰に過保護なのだろう。エラに依存したままでは、今後もリーゼロッテに弊害が出るに違いない。公爵家での環境が、ふたりにとって良い方向へ作用するといいのだが。
(それにしても、エラ様のことも放置はできないわね……)
無知なる者であるエラの争奪戦が、使用人たちの間で苛烈を極めている。貴族であることを鼻にもかけないエラは親しみやすく、男女問わず益々モテモテになっていた。
抜け駆け禁止とばかりにお互いがけん制し合っているため、危うくも均衡を保っているが、女性はともかく男性陣からは熱列なラブコールが激化している。
男爵令嬢であるエラに強引に言い寄る使用人はいなかったが、それとなくアプローチする者は大勢いた。それに使用人の中に貴族の子弟がいないわけではない。身分的につり合いが取れる者なら、強引な手口で迫ることもあり得るだろう。
リーゼロッテとは違い、そこのところはエラはそつなく上手にかわしているようだが、何かがあってからでは遅いのだ。
エラはリーゼロッテと共にダーミッシュ家から預かった大事な客人だ。エッカルトやマテアスがうまくやっているだろうとは思うのだが、一抹の不安はぬぐい切れなかった。
リーゼロッテとエラの会話に耳を傾けながら、エマニュエルはそんなことを考えていた。




