血涙(1)
年末年始短編、4日まで連日0時更新、全5話です。
――――ハイネ王国立学術学園/ウィリアムズ家
リズとフィズ、カザンとの楽しい昼食を終え、いつもと変わらず家事に精を出すアイラ。
すっかり主婦業も板につき、愛する夫の為、床での秘技を脳トレしながら高速で家事を熟して行く。
ラッセルとヘラが出張中である事以外は、アイラにとってはいつもと変わらぬ幸せな日常の一コマ。
しかし、そんな日々がまるで嵐の前の静けさだったかの様に、アイラは厄介事へと巻き込まれて行く事となる。
◇
「御存じの通り、主人はロールシュでの任務に就いて居りますので……やはり、御請け致しかねます。」
「ですが、これはネグローニ侯爵様直々の推薦でありますれば………。」
ラッセルとヘラがロールシュ共和国の首都グローシュへ向け出発して二週間。
アイラはハイネ王国騎士団から殺人事件の調査依頼を懇願されていた。
何故その様な依頼が自分の元へ来たのかは想像もつかない。
しかし、上位貴族が推薦しているとなれば、アイラが断る事も難しく。
蟀谷に手をやると、大きなため息を一つ吐いた。
「………これは、困りましたね。」
――――ハイネ王都/住居区画/ネグローニ侯爵邸
夕刻。
湿度が高く気温も高い初夏であるにも拘らず、暑苦しい黒の礼服を着たネグローニ侯爵に出迎えられたアイラは、その気の毒な姿に苦笑いを浮かべる。
滝の様に額から汗を流し、具合の悪そうなネグローニ侯爵を姿を見て、礼儀作法や仕来りに五月蠅くない平民へ嫁げた事を幸いに思うアイラであった。
「突然の呼び出しで済まないね、アイラ・ウィリアムズ夫人。」
「ご無沙汰いたしておりますネグローニ侯爵様。汗だくで……大変ですね。」
「辛いがこれも貴族の務めだからね、仕方が無いさ。それで何処から案内しようか?」
「そうですね……先ずは遺体発見現場へ案内頂いても宜しいでしょうか?」
「分かった、ではこちらへ。」
手短に挨拶を済ませたアイラは、ネグローニ侯爵に案内され、玄関ホールから遺体発見現場へと向かった。
▼
二階の客室へと案内されたアイラ。
「これは………酷い。」
客室の扉を開くと、美しいレースを施された天蓋付きベッドの上に、全裸の老婆が大の字で倒れていた。
アイラはハンカチで鼻と口元を覆い、僅かな死臭をも吸わない様にしながら老婆の遺体へと近づいた。
「まだ御遺体が……侯爵様、こちらの女性は?」
「彼女はジョセフィーヌ・クラレット。原史・民族考古学の世界的権威であり、ハイネ王国では千年ぶりの快挙となる、騎士号を近々賜る事になっていた偉大な女性で……私と、君の父であるルドラの恩師だよ。」
「………御父様の。」
「クラレット先生は私達が院生時代、大変御世話になった方だよ。だから年に一度は我が家に先生を御招きして、同窓生との食事会を催している。」
「では、その食事会が……昨日?」
「そうだね。夕方の6時頃からだよ。」
「当時クラレットさんに異変や異常は見受けられましたか?」
「そんな様子は……無かったな。先生は今年で95才になるが、嘘か真か母方の先祖が獅子人族だったそうでね、御若い頃から非常に健啖家だったよ。実際に昨晩も1kgの牛リブステーキをペロリと完食していたから。」
「……そうですか。では、こちらに御泊りになられるのは決めて居られたのですか?」
「先生はお酒も好きでね。夜道は危険だから、ここ数年は御泊り頂いている。昨夜は10時頃に御休みになると言って宴の場から引き揚げられたよ。」
「そうですか。第一発見者は侯爵様ですか?」
「いや、私では無く―――――
「あっ、わたしです!」
メイド服を着た兎人族の女性が、客室の入り口ドア付近からアイラの問いに返事をした。
「メイドの方ですね。」
「はい。こちらでメイドとしてお世話になっています、ラパンです。」
「ラパンさん。クラレットさんが亡くなられているのを発見したのは何時頃でしょうか?」
「今朝の8時頃です。毎年御泊りになられるクラレット様は朝が御早くて御早くて。ですからいつもの様に朝7時には朝食の準備をしていたのですが、7時を過ぎても起きて来られなかったので、御高齢でしたから、もしやと思い……御声掛けに来た時にはこの様なお姿に………。」
「その時に何か気になる様な事はありませんでしたか?」
「見つけた時は慌ててしまって……急いで旦那様の元に駆けたものですから、その様な事に気付く余裕はありませんでした。すみません。」
「そうですか、有難う御座いました。」
ネグローニ侯爵とメイドのラパンから遺体発見当時の様子を一通り聞き終えると、アイラは騎士団所属の監察医と共にクラレットの遺体を観察し始めた。
死亡推定時刻は遺体の硬直具合と証言から昨夜の23時前後。
死因は鋭利な刃物で腹部を刺された事による失血死。
躊躇い傷も無い事から他殺の可能性が高いと、アイラは監察医から報告を受けた。
観察を続けると、腹部から流れ出た血液が既に黒く凝固しているが、下腹から下肢にかけて流れており、それが踝にまで至っている。
口元にも微量の血痕が残っており、吐血を伴う程の深い刺し傷だったと考えられ、ベッドの上に残る血痕の少なさから推測しても、別の場所で殺害し、犯人が偽装したという事はアイラも直ぐに理解した。
念の為、ジョセフィーヌ・クラレットの遺体はそのまま氷で冷やして保存する様に監察医に指示を出し、アイラは室内の観察を始める。
「侯爵様、シャワー室はどちらにありますか?」
「全ての客室に設置しているよ。この部屋ならそこの扉だが、騎士団の捜査でも何も出なかったよ。」
アイラも一応はシャワー室を確認したが、血痕や争った形跡等、殺害場所と断定出来る様な証拠は見つからない。
シャワー室から出て、事件の内容を整理する為にメモを取っていると、ネグローニ侯爵から徐に一枚のクシャクシャになった紙を渡された。
「これが先生の遺体の横に落ちていた。騎士団が一度持ち帰ったんだが、ウィリアムズ夫人にも見て貰いたいからと言ったら返してくれた。読んでみなさい。」
紙には血文字で『ボンベイ 死の告げ人 聖母 13』と、書かれている。
「これは………。」
「王国騎士団は、この紙に掛かれた文字を見て、ルドラを拘束した。」
「………それは、どういう?!」
「君の父である、ルドラ・ボンベイ子爵が、殺人の容疑で逮捕されたという事だ。」
汗の滴る眉間に深い皺を刻み、俯き加減でルドラ・ボンベイの状況をアイラに伝えるネグローニ侯爵。
それを聞いてハトに豆鉄砲も斯くや、アイラは大きな目を更に見開き、漸くここに至って自分が探偵役に選ばれた理由に気付いた。
「………それで私を。」
「そうだ。ルドラはクラレット先生を学生時代からとても敬愛していたし、先生から息子の様に可愛がられていた。とてもじゃないがルドラが犯人だなんて、同窓生の誰もが信じはしないだろう。それに貴族が自らの手を汚してまで人を殺めるなど、戦や決闘でもない限りは有り得ない。だが……証拠も無いのにルドラの解放を、高位貴族である私が騎士団に訴え出る事は……民意に晒された時、逆にルドラの立場を悪くする可能性もある。」
「ネグローニ侯爵様の御心遣い、ボンベイ家に代わり感謝致します。」
「何としても犯人を見つけ出し、我が親友ルドラ・ボンベイ子爵の潔白を証明してやって欲しい。頼めるかね、アイラ・ウィリアムズ夫人。」
アイラはネグローニ侯爵の言葉に目を瞑り深く頷く。
「必ずや父の潔白を証明し、ネグローニ侯爵様の御期待にお答え致します。」
▼
ネグローニ侯爵邸からの帰り、アイラは馬車の窓に流れ行く景色を眺めていた。
クラレット女史の遺体。
容疑者にされた父ルドラの逮捕。
それらが頭の中でグルグルと廻って思考は停止する。
上位貴族からの御指名で仕方なく受けた探偵役ではあったが、事の重大さと結論を導く自信の無さから、アイラは大きな溜息を吐いた。
ラッセルとヘラに出会ってからというもの、毎日が薔薇色で桃色な日々を送っていたアイラ。
それが数刻前に父親絡みの案件で崩された事への怒りから、小さな拳を客車の座席に軽く叩き付けた。
「……一体。御父様は何をしているのですか。」
父親への不満や心配、その他の様々な感情が混ざり合い、アイラは自分以外には誰も居ない馬車の中で独り言ちた。
もっと父を罵る様な言葉が出てくれば、少しはこの気持ちも思考もスッキリするのにと、アイラは大きく息を吸う。
その息を勢い良く吐き出すと、誰も居ない向かいの座席に置いていた、事件の概要を書き留めた紙が、少しだけふわりと浮いた。
アイラはそれを見て、クラレットが残したという血文字が書かれた紙を思い出し、ネグローニ侯爵邸では感じなかった違和感と齟齬に気付く。
「ベッドに残る血痕の量から考えても殺害現場で絶命していた筈……もし仮に息があったとして、血文字で暗号めいた物を紙に書き残す意味は?……でもそれが犯人の偽装工作だと言い切るのも現状難しい……獅子人族の末裔は生命力が凄い?もしジョセフィーヌさんが書いたとしたら……あの文字には何の意味があるのでしょうか……。」
揺れる馬車の中、再び瞼を閉じたアイラ。
「ただの殺人事件では無いのでしょうね……。」
そう小さく呟くとアイラは瞼を開き、馭者席の後ろにある小窓から、馭者に行先の変更を告げた。
――――ハイネ王都/住居区画/ボンベイ子爵邸
アイラがボンベイ家に到着すると、邸宅には煌々と明かりが焚かれ、日付も変わりそうな深夜であるにも拘らず、多くの騎士や使用人が行き交っていた。
馬車を下りたアイラが玄関に向かって歩き出すと、執事のシモンが玄関前に現われる。
「お帰りなさいませアイラ様。奥様が御待ちで御座います。」
「ただいまシモン。お母様は御家に居られたのね。」
「奥様は一時間程前に王城より御戻りになられ、今は軽食を摂られていらっしゃいます。」
「王城に?」
「はい。王家から奥様への召喚が御座いました。」
「御父様の事ね。」
「ともかく御屋敷の中へ、詳しくは奥様から御聞き下さい。」
シモンの先導で屋敷の中に入ったアイラは、そのまま応接間へと向かった。
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アイラが応接間に入ると、思考を巡らせているのか、カイラ・ボンベイが厳しい表情で紅茶のカップを持ったまま固まっていた。
「お母様。」
アイラの呼びかけに、カイラは少し驚いた様な表情で反応し、視線を合わせると軽く頷いた。
「お帰りなさいアイラ。御父様の事で心配を掛けていますね。」
「私は大丈夫ですが、お母様は御無理をされていませんか?」
アイラの気遣いに、少し表情を和らげたカイラは、カップを持つ反対の手で自分の前の席を勧める。
アイラが向かいのソファに腰を降ろすと、カイラはシモンに向かって指示を出す。
「シモン、人払いをお願い。」
「畏まりました、奥様。」
アイラに紅茶を出していたシモンは、二人に一礼をするとカイラの指示通りに部屋を後にした。
それを確認したカイラは、飲み終えた紅茶のカップをテーブルに置くとアイラへ視線を向ける。
「では、ボンベイ家の現状について説明します。」
紅茶のカップに口を付けようとしていたアイラは、慌ててカップをテーブルに戻す。
「あの人は今、王城の尖塔に幽閉されています。これは殺人事件の容疑者や犯人としてでは無く、王家がルドラ・ボンベイ子爵の生命に危機が及ぶ可能性があると判断したからです。要は収監では無く、手厚く保護されているといった感じですね。」
「保護?では容疑者として捕らえられた訳では無いのですね。」
「当たり前です。」
父の身の安全を知り、安堵から頬が緩むアイラ。
しかしカイラは相好を崩すことなく話を続ける。
「さて、ジョセフィーヌ様がお亡くなりなられたのは非常に残念ですが、あの人が容疑者として偽装され、王家に保護されたのには他に理由があるのです。」
「それは……一体?」
母カイラの言葉には抑揚が無く、アイラは嫌な予感がして全身を悪寒に包まれた。
「ハイネ王国、第三王女であらせられるオリヴィア・シャルトリューズ姫殿下、並びに婚約者であられたルイ・クラレット氏が、ジョセフィーヌ・クラレット女史の死亡推定時刻とほぼ同時刻帯に、何者かの手によって城下で殺害されました。」
「………オリヴィア様が……クラレット?!」
母から発せられた言葉に衝撃を受けるアイラ。
幼少期から社交の場が苦手だったアイラに、唯一優しく接してくれていたオリヴィア王女。
更には、初めて聞かされたオリヴィア王女の婚約者の名は、アイラが調べている事件の被害者と同じラストネーム。
アイラは額に手を当て、頭の中を整理しようとするが、カイラは御構い無しに話を続ける。
「………ルドラはジョセフィーヌ様から頼まれて、孫であるルイ・クラレット氏の後見人を任されていたのです。」
深夜2時を過ぎ、精神的にも肉体的にも限界を迎えたアイラは、ソファーに倒れ込むと同時にその意識を手放した。
お正月にお暇な方が居られましたら、御読み頂けると幸いです。
十戒とか守れて無くてもお許しください……(笑)




