1章ー1
修士論文の完成の目途の立った翌日、地元に帰る電車の中で、小中学校を通じて9年間、ずっとクラスメートだった北島夕夏からメールが来た。
ぼんやりと、送信先である4文字の漢字を見ていると、一瞬だけ、中学校の教室の匂いが鼻先をくすぐった気がした。名前というのは不思議で、今まで思い出さなかったような顔や、その人物に付随する出来事や場所の記憶まで、いっぺんに脳裏によみがえってくる。
『久しぶり。中学のときに同級生だった北島です。風間が明日の忘年会に来るって、勅使河原から聞いてメールしました。元気?』
絵文字のない、どこかぎこちない文面。考えてみれば、こうして北島夕夏とコンタクトするのは、高校1年の夏、通学電車の中で偶然会って以来だった。なんと返信すればいいか考えあぐねて、ぼくは車窓を足早に通り過ぎていく山々に目をやった。……北島も、およそ8年ぶりのメールをどう打てばいいか、少し悩んだのだろうか。
『お久しぶりです。俺も明日の忘年会は楽しみにしてます。北島さんは元気にしていますか?』
なんともいえない。自分の返信の才能のなさに絶望する。絵文字を使うような関係性でもなく、いきなり常体のメールにしてしまうのも違和感があって、しかも北島のことを、敬称をつけて呼んだことなんて、今まで一度もない。これじゃダメだ。
『お久しぶりです。俺は明日行くつもりだよ。北島は?』
何度か、打っては消して、消しては打ってを繰り返してできた文面は、それなりに、中学時代の風間継らしいものになった。送信すると同時に、トンネルの中に電車が入った。窓の外が暗転し、途端にこもったような駆動音に変化する。窓ガラスが車内の光を反射して、シートに座った僕を鏡のように映し出す。
今の僕に、北島夕夏の知っている僕の面影はあるのだろうか。自分ではよくわからない。
高校を卒業してすぐ、地元から住民票を移し、大学のあるY県の学生アパートで一人暮らしを始めた。盆暮れ正月は規制しているとはいえ、思えば、もう六年近く実家から離れているのだ。気づけばもう24歳になっていて、――そういえば、いつだったか、北島夕夏は高校で英語の教師をしていると、勅使河原が言っていた。
「今年もやるぞ、忘年会」
勅使河原から、12月になったばかりの日曜日、電話を受けた。忘年会とは言っても、それは結局、中学時代の同窓会なのだ。4年前、成人式の行われた年の冬から連続して開かれており、また幹事も全回、勅使河原が務めている。
「そろそろ連絡の来るころだろうとは思ってたよ」
「それならたまにはおまえのほうから連絡してこい」
勅使河原とは小学校から高校まで同じ学校に通っていて、今でも何かあったときも、何もないときも連絡を取っている。社交的とは言いがたい僕にとっては、ほとんど唯一の、気の置けない友人だ。
「場所はいつもの『おおくら』で、今月30日、夜7時からな。来るよな?」
「今年は修論があるし行けたら行く」
「そしたらおまえ絶対来ないから却下。強制参加。来なかったらキャンセル料とる。決まり。決定。異議なし。満場一致」
勅使河原に強引に押し切られ、早3週間。勅使河原いわく、今年は女子も多く参加し、学年の半分近くが参加するという。もっとも、それでも20人ほどだ。、本人が希望したり引っ越したりでもしない限り、小学校から中学校へ持ち上がりで顔ぶれは変わらないのだ。少人数だから結びつきが強かったのか、それぞれ社会人になったり、浪人や留年をして大学在籍中だったり、大学院に進んだりした今でも、兄弟姉妹というには薄く、親戚というには濃いような、どこかあやふやな縁で、なんとなくつながってしまっている。
トンネルを抜けると同時に、スマートフォンが振動した。北島からの返信だ。
『私も行くよ。今年はじめて行くんだけど、みんなけっこう酒飲む?』
どうだったかな、と記憶を掘り返してみるも、なかなか一年前、しかもアルコールの入った視界を再生することは難しい。たしか、最終的に男連中みんなでピッチャーのまま、ビールを飲みまわしていたような覚えがある。
『男子はけっこうみんな飲んでたよ。女子はよくわからなかったけど、あんまりひどく酔っぱらってるのはいなかったと思う』
送信してから、ふと「男子」「女子」というワードの違和感に気づく。もう成人式からだいぶ過ぎているのに、子も何もないだろうに、とおかしくなる。ただ、なんとなく学生時代をお互いに知っている間柄だと、どこかその当時の言葉づかいに近いものになるような気がする。
北島夕夏という中学時代の同級生についての印象を一言で表せば、「まじめで人当たりの良い女子」だ。色の白い細面に、薄い肩。声はいつもどことなく遠慮がちで優しく、聞くたびになぜか胸を締めつけられるような気がした。
今でも覚えている出来事がある。北島にとってはなんでもないようなことだろうし、ぼくにとってもそれほど重要な意味を持たないイベントだが、そういった日常のワンシーンほど、人間は不思議と覚えているものだ。
「また風間と同じクラスだね」
中学校での最終学年になった4月、始業式の日の朝、教室に入ってきた北島は、すでに廊下側の一番後ろの席に陣取っていた僕の目をまっすぐ見て、そう言ってはにかんだ。ぼくたちの学年は2クラスしかなかったため、小学校から中学校卒業までの9年間、連続して、同じクラスになる生徒もいた。北島は、僕にとってそういうクラスメートだった。
「うん、ああ」
ぼくは曖昧にうなずいて、彼女から視線を逸らした。人にまっすぐ見られるのは苦手だった。思春期のころは、本当に。
ゆうかー、と窓際から呼ぶ女子の声に、北島はそちらに向き直り、歩いていく。黒いポニーテールが揺れる。
その途中、彼女はふと振り返り、
「あ、そうだ。風間君、学ランのボタン取れかかってるよ?」
そんなことを言った。
初日から生活指導の教師に小言をもらってはたまらない。あわてて自分の胸元を見下ろすも、そんな緊急事態は発生していなかった。
「ウソだよ」
顔を上げた僕に、そう言って、北島は楽しそうに笑った。北島夕夏も冗談を言うんだな、とぼんやりと思った。
『そうなんだ。友里絵や朱美たちにも様子を聞きたくて連絡してみたんだけど、みんな1回しか参加してないけど楽しいよって。でも、友里絵は今おなかに赤ちゃんがいるから行けなくて、朱美も今年は海外に旅行に行くから参加しないらしくて……』
北島の文面を目で追いながら、高井友里絵、宮下朱美、と連想ゲームのように脳裏にフルネームと顔が思い浮かんだ。どちらも中学時代、北島と仲の良かった女子たちだ。
ふたりには、去年の忘年会で、成人式以来、久々に再会した。高井友里絵はもう結婚していて、苗字が「川上」に変わっていた。それでも僕たちにとっては、相変わらずあのふっくらとした丸顔の高井友里絵だったが、『おおくら』のオレンジがかった照明を受けて、きらきらと輝いていた結婚指輪よりもむしろ、ニコニコと幸せそうにビールをぐいぐい飲んでいたのに驚いた。「おとなしかった高井がイける口だとは思わなかった」と勅使河原が言い、僕もうなずいた。そうか、あの高井がお母さんになるのか、と少し感慨深くなる。
一方の宮下朱美は、昔はかけていなかった眼鏡越しにこの場を観察しながら世話役になっていて、具合の悪そうな女子に真っ先に声をかけて洗面所に連れて行ったり、空になった皿やグラスをお好み焼き台の端に寄せ、てきぱきと注文をまとめたりしながらも、それなりにこの場を楽しんでいるようだった。
「風間、ぜんぜん飲んでいないでしょ。何か頼む?」
みんな酔いが回り、席順などすでに忘却の彼方に去っていったころ、隣に座った宮下が声をかけてきた。
「ああ、ありがとう。でも、俺もけっこう飲んだし、いいかな」
「そう? じゃメニュー貸して」
気づけばドリンクのメニューが広げられたまま、ぼくの膝の上にあった。渡すと、さんきゅ、と宮下が答え、そのまま言った。
「今年も、夕夏は来られないんだって」
「ん?」
「だから、今年も夕夏は来られないんだって」
宮下は、メニューに目を落としながら、もごもごと繰り返した。次に何を頼もうか真剣に考えているようにも見えたし、何か言いにくいことを口に出すのをためらっているようにも見えた。
「ゆうか……ああ、北島か。そういえば来てないね」
「気になる?」
宮下が眼鏡越しに、僕の表情に視線を固定したのを感じた。
「そうだね」
無難に答えて、ぼくは手もとにあっただれのものかわからないグラスに残っていたビールをあおった。すっかりぬるくなってしまっていた。
『あのふたりは今年は来られないんだ。でも、勅使河原が言ってたけど、他にもいっぱい女子は来るらしいから、心配ないと思う』
メールを返信して、ぼくはホーム画面に切り替えた。時刻は16時11分。車窓の外はすでに薄暗くなり始めている。山ばかりだった風景はすでに乱立するビルの群れへと変わっていて、乗り換えの駅に、もうそろそろ到着することを知らせてくる。
12月29日。走り続ける師の背中もそろそろ見えなくなりそうだ。
そう。ちょうど今頃だった。
――北島夕夏とキスをしたのは。