深層の異形 02
昼夜の感覚などまるでない、太陽光の一切が遮断された地下空間。
厳密には都市の中央に、上空からの光が差し込む大きな縦穴が存在するのだが、各階層の端ともなればその光は届くこともない。
だからという訳ではないだろうが、まだ太陽も完全には落ちていない夕刻、聖都カンドローナの二層に在る一角は、大勢の人間によってごった返していた。
『国全体があんな状況だってのに、ここだけは随分と活気がある』
そんな大勢の人に押される通りを窺いつつ、僕は一人嘆息し歩く。
聖都カンドローナへ到着してから多少の仮眠を摂り、食事を済ました僕は都市の第二層へ移動。
案内板に従って真っ直ぐ向かった先が、この人の波が途切れぬ区画であった。
ただ周囲を見渡せば、歩いているほぼ全てが男であるのに気付く。
陽射しの無い地下であるにも関わらず多くが外套を被っているが、覗く口元はだらしなく綻んでおり、浮足立った気配からそうであると一目でわかる。
それも当然か、ここは都市第二層の外れに在る、多くの娼婦たちが客引きをするのを許された区画なのだから。
<仕方がありません。アルも男なのですから、そういう欲求を持つのは理解できるのでは?>
『わからないでもないけど、そんな金があれば食事でもすればいいだろうに』
<他に娯楽がないためですね。だからこそたまの息抜きとして必要なのでしょう>
人の波に身体を攫われる僕へと、エイダはさも当然とばかりに断言した。
聖堂国は神殿というただ一つの宗教が支配する国であり、その神殿は基本的に質素倹約を是としている。
実際には神殿の司祭たちは富を溜め込み豪遊を繰り返しているのだが、そういった思考を常とする教義のためか、この土地は娯楽という物が非常に乏しい。
ただ鬱憤が溜まり続ければいつかは爆発するため、その捌け口として男たちに用意されたのが、娼婦の集まるこの区画だ。
いかな信仰に篤い宗教国家の民と言えど、こういった欲望ばかりは誤魔化しようがないらしい。
<ともあれどこかの店に客として入っては。情報を集めるにはまず娼婦と接触しなくては>
『……気乗りはしないけどね』
<こればかりは仕方がありません。ヴィオレッタも内心では苛立っているようですが、理解しているからこそ我を押し殺し見送ったのでしょうから>
娼婦が集まるここへ来るのに、僕はレオとヴィオレッタを連れてきていない。
レオは単純に芝居の類が不得手であり、情報収集などの役割に向かないため。
そしてヴィオレッタの場合は女性であるがため、このような場所へ連れてきては、娼婦に間違えられてしまうせいだ。
だからこそ彼女は留守番を受け入れてくれたのだが、エイダの言う通り密かに不機嫌であったのは手に取るようにわかった。
「とりあえずここでいいか……」
エイダと思考の中でやり取りを続け通りを歩いていく。
そうしてしばし人混みに揉まれ進んでいった先で止まると、小さく声を出し手近な一軒の宿へ視線を向けた。
そこは一見すれば何の変哲もない宿だが、このような区画で店を構えている以上、ただ客に食事をだし寝床を提供するだけの役割ではない。
娼婦を連れ込む、あるいは宿へ娼婦を呼ぶことが前提の場所だ。
そんな場所で娼婦から情報を探ろうというのだが、僕はこれまでにない程重く肩を落とす。
僕だって一端の男だ、周囲を歩く他の男たちと同様に、そういった欲求は当然のように存在する。
しかし連れ添った相手がなかなかに恐ろしい人物であるだけに、こういった場所へ入るのが恐ろしくて仕方がない。
これがいわゆる尻に敷かれるという現象なのかと、僕は入口の扉を引きつつ苦笑する。
「お兄さん、あたしを買わないかい」
その宿へ足を踏み入れるなり、僕はすぐさま声を掛けられる。
振り向いてみればそこに立っていたのは一人の女。
肌も露わな薄い衣で、目のやり場に困る箇所だけを扇情的に隠した姿。見るからに娼婦だ。
どうやら宿の人間よりも先に、ここで待機していた彼女に発見されたらしい。
「安くは出来ないけど、その代わり目一杯オマケさせてもらうよ。……もしかして他に先約があるなら、遠慮しておくけど」
「今のところそういった約束はないな。丁度相手を探していたところだ」
「今夜は客足が多い、これから探すのも一苦労だと思う。だから今回は大人しくあたしで手を打っときなよ」
「そうだな……。悪くない、君となら楽しめそうだ」
快活な様子で笑顔を向ける女は、自信満々に己の胸を軽く叩く。
その様子を見て宿の中に居た他の娼婦たちは、一瞬こちらへ向けかけた足を止め、やれやれとばかりに手近な椅子へ腰を降ろしていく。
こういった職に就く者は、大抵がそれなりの縄張りというものを持っている。
そこを侵すことは許されず、他の娼婦と先約がある客を横取りするのも許されない。それは大抵の土地で定められた不文律だ。
目の前の女が僕に狙いを定め、こちらが乗り気である態度を示したことで、手出し厳禁という暗黙の了承が交わされたのだろう。
「なら決まりだね、とりあえず部屋へ行こ」
「そんなに急がなくても……、ってあまり引っ付かないでくれ」
「こんな人目がある場所に長居するもんじゃないよ。もっとも二人以上を同時に相手したいってんなら、そういうのが大丈夫な子を呼んでくるけど」
なかなかに苛烈と言われる娼婦の世界だ、客が決まってそれを見せつけるようにこの場へ居続けるのは、彼女の立場として好ましくないのかもしれない。
黒い薄布を腰と胸へ緩く巻き付けただけな、裸同然の格好で腕へしがみ付く彼女は、少しでも早くと宿の奥へ引っ張っていく。
思いのほか強引な彼女に大人しく倣い、ごく小さな明りだけが灯された廊下を進む。
すれ違わねば人の顔も見れぬ暗い中を歩き、幾つめかの扉を過ぎた所でそこが彼女のよく使う部屋なのだろうか、奥まった場所に在る扉を開いた。
「さ、座って。なにかお酒でも飲む?」
「いや、結構だ。それよりも少し話でもしないか」
「料金のこと? それならならこのくらいでいいよ、あんまり高い値を付けられないからさ」
僕を適当に置かれた椅子へ座らせ、娼婦の娘は棚にある小壷のうち一つを手にする。
ただ僕はここへ酒を飲みに来た訳でも、彼女と遊ぶために来たわけでもない。
あくまでも目的は一つ、聖都カンドローナに詳しい情報屋を探し、都市深層への侵入方法を入手するため。
とはいえ娼婦と部屋に入って、ただ話だけをするというのもおかしな話。
そこで指を使い金額を示す彼女の申し出に乗り、酒だけは頂くことにした。
「それじゃ早速……」
「いや、ちょっと待ってくれないか」
「どうしたのさ。あ、もしかして初めて?」
「そういう訳じゃないけど……、少し聞きたい事があってね」
早々に済ませてしまおうということか、自身の胸に巻いた薄布を解きベッドの上に放る娘。
だがここで一線を越えては、後でヴィオレッタになにをされるかわかったものではない。案外女性はそういう事に気付くとも聞くし。
なので更に布を剥ごうとする娘を制すると、僕はベッドに放り投げられた布を拾い渡した。
「聞きたいこと? もしかしてあんた、ここに遊びに来たんじゃないとか?」
「実はね。ちょっと探し物があって、娼婦に話を聞く必要があったんだ」
「なんだ、それじゃあたしただの脱ぎ損じゃない。そういうのは早く言ってよ」
眉を顰める娘であるが、気難しそうな表情をしつつも受け取った布を乱雑に巻きつける。
彼女は酒壷の中身を自ら一口煽ると、酒の分もしっかり代金は貰うと強く言い放った。
案外娼婦としての彼女の自尊心を、多少なりと傷つけてしまったのかもしれないが、こればかりは勘弁してもらいたい。
なので僕がその言葉に頷くと、多少は溜飲が下がったのか、壷を置いてベッドの端へ腰かけこちらへ向き直る。
「んで、何が聞きたいのさ。答えられる範疇なら何でも話すよ」
「もし知っていたらでいいんだけど、紹介して貰いたい人が居てね」
「誰をだい?」
脚を組み面倒そうに問う娘に、僕はそれとなく情報屋の存在を尋ねる。
もし彼女が知らないのであれば、このまま金だけ置いて他の娼婦を探し、見つかるまで繰り返すだけだ。
だが情報屋の所在を尋ねるなり、娼婦の娘は軽く息を吐き、壷の中にある酒をカップに移して僕へ手渡し告げる。
「なら問題ないよ。あたしもその端くれだからさ」
「そいつは助かる。いったい何十人の娼婦に金を払わなきゃならないかと思ったよ」
「なんだ、あたしで一人目かい。つっても情報屋を兼ねてる娼婦なんて、全体の二割くらいに及ぶからね、たぶんすぐに見つかってたよ。当然知っている内容は、個人個人でかなり違うけどさ」
まさか初っ端から当たるとは思っていなかったが、目の前でダルそうに座る彼女もまた、娼婦を兼ねた情報屋であったようだ。
そこで早速階下へ降りる手段を問う。もちろん具体的な目的ははぐらかし、神殿中枢への礼拝が目的であると言っておく。
彼女は更に別料金を要求してきたため、大人しく財布を開いて幾ばくかの額を渡すと、満足そうな笑みを薄く浮かべた。
「方法は単純。閉鎖区画を通ればいい」
「閉鎖区画……?」
至極簡単なことだとばかりに、娘は小声だが揚々と断言する。
この聖都カンドローナは巨大な露天掘りの鉱山跡を利用し、幾本もの巨大な柱を残して階層ごとに壁をぶち抜き造られている。
ただ無数の鉱山跡となる横穴が残っているらしく、それらは入り組み階層間を繋いでいると言う。
つまり危険であるという理由で閉鎖されたそこを通れば、本来身分の確かな者以外は入れぬ階層にも移動できる。
「と言っても、実際にはそう簡単な話じゃない。閉鎖区画の地図なんて残ってないし、百年以上前に掘られた物だから、もちろん当時の人間も生きちゃいないね。行くなら虱潰しにする必要がある」
「どれだけ入り口があるかもわからないんだろう? それに本当に繋がっているか」
「以前に物好きが試したそうだけど、幾つかは別階層に繋がる道を見つけたらしい。でも兵士や司祭に見つかったら、すぐ牢に放り込まれちまうよ」
現実としては可能だが、相応にリスクの高い行為なのだろう。
下層へ繋がるルートは存在すれど、選んだそこが正解であるかはわからないし、なによりも見つかればすぐ牢屋行き。
ただ捕まったのはおそらく、閉鎖されたそこを通ったからというよりも、許可なく階層を移動したためであるようだ。
ともあれこれで希望は繋がった。
娼婦の娘に礼を告げると、少しばかり多めの礼金を手渡す。
「今日のあたしは運がいい。こんな子供でも知ってる話で金が手に入るんだから。あんたら、よっぽど田舎から出て来たんだね」
「なかなか来れる場所じゃないものでね。奮発してでも礼拝をしたかったんだ」
「そういうもんかい? あたしはそこまで信心深い方じゃないからさ、よくわかんないや」
肩を竦める娘は、理解が出来ないという表情のまま手にした貨幣を数えていく。
どうやら娼婦となっている以上、それなりに理由があるようで、だからこそか祈れど救いを与えてはくれぬ神を信じてはいないらしい。
ただそうなった理由の一端が、すぐさま呟いた彼女の言葉によってわかった。
「なんだか悪いね、たったこれだけの情報でもらっちゃってさ。でも要り様だから助かるよ」
「一応は口止めの分も込みだからね。ところでそんなに金が必要な理由があるのかい?」
「別に大した話じゃないよ。あたしの両親はもう居ないし、残った弟たちの面倒を見なきゃいけないんだ。遠方から仕送りしてくれてた姉ちゃんが事故で死んだらしくてさ、ちょっと最近苦しんだよね」
少しばかり寂しそうな表情を浮かべる娘は、ずっと遠方に居たという姉についてを口にした。
聖堂国北方の保養地で割の良い仕事を見つけたらしいのだが、ある時突然に死亡の知らせが届いたのだと言う。
「司祭のおっさんたちが身体に触れてくるから、毎日鳥肌が立って仕方がないって手紙に書いてあったよ。司祭連中相手にするなんて、いったいどんな仕事だったんだか」
「……そうか。きっと気苦労が多かったんだろうね」
部屋の天井を見上げしんみりと語る娘の言葉に、僕は僅かに口籠りつつも相槌を打つ。
保養地、というとこの国を脱出した時に経由した国境近くあそこか。
とはいえあそこにおいて司祭たちは普通に振る舞っていたため、女性の身体に触ろうとしていたということは、おそらく聖域内での出来事だ。
となれば事故で死亡したとは言うが、きっと僕とレオが脱出時に起こした戦闘に巻き込まれたのだろう。
見れば彼女のそれとない仕草や笑った表情などが、あの時に聖域内を案内してくれるも、戦闘で命を落としていた給仕の娘に似ている気がする。
気のせいであるかもしれない。だが見れば見るほどあの娘の縁者に思え、僕は懐に入れていた小さな袋を追加で彼女へ渡した。
「こんなに貰っていいの?」
「ああ、また困ったら君を頼るかもしれない、前払い分と思って受け取ってくれ」
これまで聖堂国の兵士を何十人と仕留めてきたが、こうしてその身内に会うというのは、なかなかにキツイものがあった。
こんな事で償えるとは思わないが、自身の心苦しさを誤魔化すくらいにはなってくれる。
すると根が優しいと言って良いのかは知らないが、彼女は再び自身の纏う薄布へ手をかけ、それをスルリと外して問う。
「でも貰うばっかりじゃ悪いよ。ついでだしシテく?」
「いや、折角だけど止めておく。実は嫁さんが居てさ、これがなかなかに勘が鋭いんだ。たぶん事に及んだらバレて後が怖い」
「ならしょうがないね。もしその人と別れたらおいでよ」
そう言って彼女は冗談めかしてニカリと笑う。
僕もそれに対し愛想笑いだけ浮かべると、そのまま軽く手を振って部屋を跡にした。
薄暗い廊下を出口へ向け歩くと、そこかしこの部屋から人の声がうっすらと聞こえる。
中には嬌声が混じり、そこから漏れるのか強い香の匂いが漂っていた。
まさかこの匂いで色々と勘繰られやしないだろうかと、僕は戻る前に纏う外套の表面を軽く払うのであった。




