洋上の小鳥 13
突入した海域の荒れようは、僕が想像していたそれを遥かに超えるものだった。
天候は然程荒れてもいないというのに波は高く、巨大であるはずの船が幾度となく跳ね、叩きつけられるような衝撃が襲う。
時折斜めに四〇度近く傾き、置かれた寝具がひっくり返りそうになるが、こちらは床へと固定されていたようだ。
「まったく、冗談じゃないっ! よくこんな場所を通ろうと思うもんだ」
<これでも他所よりは多少マシというのですから、船旅が如何に危険か知れるというものです>
壁に手を付き身体を支え続けている僕の悪態に、エイダは微妙にノンビリとした反応を返す。
彼女は本体が余所にあるので他人事だろうが、実際に身体を支え続けているこちらとしては、かなりの重労働だ。
隣の部屋に居るイレーニスは大丈夫だろうか。ヴィオレッタは身が軽いので何とかするだろうが、幼い子にはかなり過酷な状況に違いない。
「こんな中を甲板で操船してるってんだから、本当に大したもんだよ」
<ここまで来ると職人芸と言えるでしょう。陸に慣れた人間には、到底真似できません>
過酷であると聞いてはいたが、実際その状態に遭遇すると、船員たちには感嘆の言葉しか出て来ない。
エイダが言ったように、専門の技術と経験を持った人間でなければ、容易に船外へと放り出されてしまうはずだ。
確かにジョルダーノが言っていた通り、この海域を抜けねば謀反を起こすのも儘なるまい。
今頃はそのジョルダーノも、甲板で指揮を執っているはず。そう考えれば彼もまた、熟達した船乗りである証拠と言えた。
軽薄さのせいで、あまりそうは見えないけれども。
その後この激しい揺れは、数時間に渡って続いた。
終わった頃には息も絶え絶えで、部屋で揺れに耐えていただけだというのに、一日中走り回っていたような疲労感に襲われる。
最初ジョルダーノは、一割程度の可能性で大きな損傷を受けると言っていたが、これはそんなものではないように思えてならない。
揺れが治まり、ようやく一息つく。
だが緊張感のおかげかなんとか船酔いはせずに済んだものの、それを安堵している暇はない。
「……とりあえず、皆の様子を見て来るとしようか」
<それがいいでしょう。イレーニスもですが、おそらくはビルトーリオも酷い目に遭っているでしょうから>
彼は元々が学者畑の人間であるせいか、あまり体力に自身のある方ではない。
それでも僕等に同行するようになって、幾分かは動けるようになったが、それでも精々が人並み程度。
この揺れで酷く消耗していることは想像に難くなく、下手をすれば倒れている可能性すらある。
ようやく揺れの納まり始めた船内を、若干フラつく足取りで歩く。
まずは隣の部屋へ。そこは本来イレーニスが一人で使う部屋であるのだが、今はヴィオレッタが着いて面倒を見ているはずであった。
その部屋をノックしてしばし待つと、ゲッソリとした様子のヴィオレッタが扉の向こうから姿を現した。
「イレーニスは大丈夫か?」
「ああ、少々泣いてはいたが無事だ。……だが開口一番聞くのがそれか? 私は心配すらしてくれぬのか」
彼女は僕が最初に発した言葉に対し、若干の不満を抱いたようだ。
目を半開きとし、不服を満面に現したような表情で抗議の声を上げる。
「ヴィオレッタがこの程度で音を上げる訳がないだろう。信用の結果だと思って欲しいものだよ」
「口の減らない奴だ。まぁいい、とりあえずこっちは問題ないから安心しておけ」
彼女はそう言って部屋の中へと視線を向ける。そこにはイレーニスがベッドへと座っており、不安気な様子でオドオドとしつつ毛布を被っていた。
確かに言う通り怪我はないようだが、この揺れでかなり不安定な状態となっているのだろう。
僕は部屋に頭だけで入ると、イレーニスは若干ホッとしたような表情を浮かべる。
「怪我はないみたいだね。僕等はこれから少し忙しくなるから、まだ少し部屋から出れないけど大丈夫か?」
「……うん。でもはやく帰ってきてね」
「わかった、約束するよ。終わったら一緒に食事にしよう」
短いやり取りを行うと、イレーニスは頭にかぶっていた毛布を払い、僅かではあるが目元から緊張が緩むのが見て取れる。
その様子を後ろから眺めていたヴィオレッタは、若干寂しそうな声でため息を衝く。
「やはり言葉が通じるというのは強いな、アルの声を聞くだけで落ち着くようだ」
それなりに懐かれ始めているとはいえ、彼女はイレーニスと言葉が通じないことで壁を感じているようだった。
しかしこればかりはどうしようもない。イレーニスが僕等の介する言語を習得するまでは、避けようのない障害だ。
「大変だろうけど、もう少しの間だけ頼むよ」
「わかっている。……ところでビルトーリオはどうした? 向こうはかなり酷い有様であろうに」
「今から様子を見てくるつもりだ、おそらく死にそうな顔をしているだろうからね」
「アレも散々な目に遭っているな。ともあれここを乗り切った以上、これから先は仕掛けてくる可能性がある。もう少しイレーニスが落ち着いたら、私たちはビルトーリオと合流するとしよう」
安堵の表情を浮かべ始めたイレーニスの姿を確認したヴィオレッタは、もう一人心配となるビルトーリオについて言及する。
やはりそちらも心配の種であり、護衛を担当することとなる彼女には気にかかる存在であったようだ。
「そうだね。まだ可能性の段階だけど、一応警戒を続け――」
襲撃が迫っている可能性を示唆するヴィオレッタへと、再度警戒を促すための言葉をかける。
しかしそれを言い終えようとした瞬間、僕には不意に船内へと漂う気配が一変したのが感じられた。
気配だけではない、音もだ。
先ほどまでは、揺れによって荒れた船内を片付けるための指示であったり、緊張が解けたことで船員たちがする雑談の声が漂っていた。
だが今この時それは聞こえず、再び緊張で張りつめたような、静寂という音が響いているようだ。
「アル、どう思う」
「たぶん……、始まったんだろうね」
「やはりか。ついさっき揺れが治まったばかりだというのに、気の早いものだ」
ヴィオレッタもまたその不穏な気配を感じ取り、引き締まった表情で静かに告げた。
あまりにも静かすぎる船内の様子から、ジョルダーノが言っていた謀反とやらが開始されたと考えるのは、決しておかしな発想ではないはず。
僕等は互いに武器を腰へ下げているのを視認すると、各々の行動を簡潔に確認する。
「予定通り頼んだ。僕は二人に声をかけてくる」
「了解だ。では私はイレーニスと一緒に、ビルトーリオが来るまでここで待機しているぞ」
すぐさま扉を閉め、内側から鍵をかけるヴィオレッタ。
僕はその音を耳にするなり、まずはもう一つ隣の部屋に居るビルトーリオの下へと向かう。
扉を開けると案の定彼はグッタリとした様子で、前後不覚に近い状態であった。
当然船内の異変になど気付きようもなく、僕が簡潔な説明をすることで、事態の変化を悟ったようだ。
その彼にヴィオレッタの部屋へと向かうよう告げると、僕は次いでレオを呼びに向かった。
静かなノックを一度二度と鳴らすと、間髪入れず出てくるレオ。
レオはこちらが呼びに来るのを今か今かと待っていたようで、すぐ出られるよう扉の前で待機しているようだった。
彼は僕の姿を見るなり、変わらぬ涼しげな顔で短く問うてくる。
「始まったか?」
「おそらくね。すぐ行けるか?」
「当然」
レオもまた、その手には少しだけ大き目な短剣が握られ、既に戦いを行う準備は整っているようだ。
僕等は短い言葉のみで状況と用意の程を確認し合うと、揃って部屋を出て船内の通路を進んでいく。
僕とレオはジョルダーノの下へ行くが、ヴィオレッタは戦えぬ二人を部屋で護衛。戦力としては大きな減退ではあるが、船員たちを見る限り戦うには十分足りているはずだ。
人の喧騒もなく静まり返った船内は酷く不気味で、波によって揺れ軋む船体の音だけが響き、やけに耳へ障る。
そんな中を、僕等二人は足音を忍ばせながら甲板へ向け進んでいった。
古くなりつつあるせいで鳴り易い木板を踏み、柱の影や置かれた備品に隠れながら進む。
レオと二人でこういった行動をするのも、随分と久しぶりだ。
おそらく共和国の都市で、兵舎に忍び込んで破壊工作を行った時以来ではないだろうか。
久しくしていなかった同じ隊の仲間との戦闘行動に、僕は密かに内から沸き立つものを感じた。
「敵はどのくらい居る?」
「さあ……、まだ何とも言えない。だけど流石に一人や二人で事を起こしはしないはず。行動を起こした以上、一定数の船員が裏切りに加担したはず」
慎重に進む最中、横へと並んだレオは小さく問う。
普段あまり敵の戦力などを気にせず、ひたすら猪突猛進するのが流儀な彼にしては、意外な内容ではある。
だがやはり戦いに慣れた僕等とて、それは安定した地面の上での話。足場の不安定な揺れる船の上とあっては、勝手が違うのだろうかもしれない。
「ただ誰がそうなのか、こっちにはなかなか見分けがつかない。逆に謀反へ加担していない船員が、僕等を敵と間違えて斬りかかってくる可能性もある」
「その場合はどうするんだ?」
「とりあえずは無力化するに留めておいてくれ。謀反に加担した輩かどうかは、後でジョルダーノに確認を取る」
ただ実際もし副長の側に加担していたとしても、演技の一つでもすればなかなか見破るのは難しい。
心拍などをチェックすれば多少なりと推測もできるが、それだって確実であるとは言い難いのだ。
ならばとりあえず牙を向けてきた輩は全員捕らえ、後でどうするか判断する以外にない。
それにジョルダーノからは、例え反乱に加わった連中であっても、極力生かして捕らえるよう頼まれていた。
どうやら彼らには彼らなりの、ケジメの付け方というものがあるらしい。
「待った。食堂の奥に二人だ」
上へと向け進む僕等は、狭い通路を通り食堂室の横へと差し掛かった。
そこで人の気配を感じたため、レオの歩みを制しこっそりと中を窺う。
食堂室兼休憩所となる部屋の奥には、二人の船員が椅子へと腰かけ、ボソボソと何かを喋りながら酒を煽っている姿が。
普段であれば何でもない光景だが、何がしかの異常が起きている状況で、普通そのような真似をしてようはずもない。
「武器を持ってるな……。本来は倉庫に納めているはずなのに」
見れば二人の船員は、その腰に一本ずつのナイフを下げている。
揺れる船の上ということもあり、通常であれば安全上の理由で船員たちは武器を携行しない。使うのは海賊征伐など、戦闘になった時だけであるとのことだ。
であるにもかかわらず武器を手にしているというのは、やはり船内が非常事態である表れであり、連中がその事態を引き起こした側である証明か。
呟く言葉を受けたレオは自身の武器を手にし、柱の陰に隠れつつ僕と船員たちを交互に見る。
「あれが反乱を起こした連中か。制圧するか?」
「ああ。どれだけの数が居るかわからない以上、少しでも数を減らしておきたい。もしも勘違いだったら……、後で一緒に謝るとしようか」
僕はレオの提案に対し、それ以外ないだろうと肯定をする。
ただ実際彼らが反旗を翻した側ではなく、それを制圧した側である可能性は若干ながら残ってはいる。
早く船内で起きている状況や、どういった連中が行動を起こしているかなど、正確な情報が欲しいところではあった。
「僕は左だ、レオは右を頼むよ」
「わかった。一発でも殴って気絶してくれるといいが」
言うが早いか、僕等は打ち合わせとすら言えないであろう、簡単な指示によって影から飛び出す。
そこそこ距離は離れているのだが、数歩ほどの助走を経て飛びつくように武器を持つ船員たちへ一気に接近。
こちらに気付くこともなく談笑を続けていた船員の鳩尾へと、膝による一撃食らわせた。
短い嗚咽を漏らし、前のめりとなって倒れゆく男。
目線だけで横を見れば、レオもまた同様に接近し船員へ拳を見舞っている。
「急ごう。辿り着いた時には終わってたなんて、洒落にならないからね」
「そうだな。倒す相手が残ってればいいが」
「いや、そういう意味では……」
ほぼ同時に倒れたそいつ等から、手にしていた武器を奪い取り腰へと差しつつ、僕等は妙に噛み合わぬ会話を交わす。
非常時にもかかわらず緊張感のない会話に苦笑すると、僕とレオは急ぎ食堂室の外へと出て甲板へ向け駆けた。




