洋上の小鳥 09
フィズラース群島を出港し、今日で七日目。
流石にここまでくれば、船内もくまなく歩き回り終え、他に見る物も無くなってしまう。
僕ですら乗船から二日目には退屈の凌ぎ方を考え始めていたというのに、幾度となく長い航海に出る船乗りたちは、いったいどうやって時間を潰しているというのか。
そんな夕食も追えて暇を持て余していた僕は、健康状態のチェックという名目の下、言語翻訳に必要なデータを集めるべく少年と会話を試み続けていた。
「それじゃあ……、次はコレだ。コレはなんだい?」
「……〝ИДх◇d?」
「なるほど、なら次はコレだ」
少年が腰を落とすベッドの横へと椅子を置き、そこに座る僕は適当に袋から取り出した物体の名を、少年へと問い続ける。
最初はハンカチ、次に木製のカップ。次いで金槌といった具合に、関連性のない物を次々とだ。
「うん。ならもう一度、これがなにか教えてくれないかな」
「……ホネ?」
「そうだね、さっきの夕食で食べたハムに付いていた骨だ」
食堂で船員にもらってきた、使い道がなく海へ捨てるだけであった骨を見せると、少年はコレが骨であると告げる。
つい先ほどは聞き取るのすら難しかった単語だが、今回はしっかりと自身に理解が出来る言葉として聞こえた。
少年を救助してから今日で四日目。
徐々にではあるが、収集した単語を元にエイダがデータベースを作成。更新と修正を繰り返し、意思の疎通が図れるようになってきていた。
「食事、●sΛ5Эおいしかったよ」
「本当にね、特にサンドイッチがとても良かった。ちょっと塩辛かったけれど」
ようやく僅かでも言葉が通じる相手に会えた安堵感からか、おかげで少年の表情も明るくなりつつある。
まだ言葉の随所に翻訳が済んでいない箇所はあるが、それも追々エイダが何とかしてくれるはずだ。
結局この少年の話す言語は、船に乗る誰もが知らぬものだった。
表立っては海運商という肩書を持っているせいだろうか、ここの船員の内何人かは、他大陸の言語を介する人間が居る。
その彼ら全員に確認してみたところ、誰しもが口々に聞いた事のない言語であると断言。
結果として、やはり言語データを収集し、翻訳機能を有効にする必要性に迫られたのだ。
「イレーニス、部屋に閉じ込めて悪いな。ずっと一人で寂しくないか?」
「だいじょうぶ。アルとヴィオレッタがいるから、さみしくないよ」
「そっか……。でももう少し来る回数を増やそうかな」
名前に関しては、聞き出すのは比較的容易だった。
だがそのイレーニスと名乗った少年へ、漂流していた事情を身振り手振りで問うてみたのだが、やはりどうにも表情が芳しくない。
普通に話している分には変わりないのだが、事この質問ばかりはそうもいかないようだ。
問うている内容は察しているはず。それでも口をつぐんでしまうのは、あまり思い出したくない内容だからなのだろう。
あまり突っ込んで聞かない方が、無難であるのかもしれない。
『ともあれこれで、最低限の話を聞き出せそうだ。今後どう対処するかは決めかねているけど……』
<ジョルダーノはこちらに丸投げしていますから、頼りにはなりません。私たちでなんとかせねば>
エイダはやけに気合の入った調子で、電子的に作られた音声によって保護の必要性を強調する。
彼女はどうにも、ここ数日イレーニスに対してえらくご執心で、離れている時でも頻繁に心配するような言葉を吐いていた。
僕がこうやって熱心にイレーニスと会話するのは、言語データの収集という目的もあるが、エイダによって相手をするよう促されているというものある。
勿論、船に乗っている間は他にやることがないというのも、理由の一端だけれど。
『流石に船室に延々と独りで閉じ込めておくのも気が引けるしな。でもここの副長とやらは、あまりいい顔をしていないようだ』
<彼は船内へ、異分子が入り込むのを良しとしていないのでしょう。こちらが乗船すると聞いた時点から不機嫌であったと、ジョルダーノも言っていましたし>
僕が言及したのは、イレーニスを助けた時に、この船室でクレイグと共にいた海賊船の副船長についてだ。
彼は船内ですれ違う時や、食事の際などことある毎に、嫌味ったらしい言葉を向けてくる。
やれ無意味に歩き回られては邪魔だ。余計な輩が乗っていなければ食料が多く詰めたのに、と。イレーニスに対しても、それは同様の態度であった。
<客を敬えなどとは言いません。ですが報酬を支払おうとする相手に対し、していい態度ではないでしょうに>
『立場上気苦労が絶えなくて、ストレスが溜まってるんじゃないか? 船長がかなり適当だからな』
<だとしても、決して愉快な存在ではありません>
エイダはどうやらあの副船長とやらが気に食わないようだ。それは多分に、イレーニスを邪魔者扱いしているというのが、原因としてありそうだが。
理由の如何はともかくとして、人を選り好みまでし始めるとは。
その後もいくつかの問いと簡単な会話を繰り返し、少しずつイレーニスから話を聞き出そうと試みた。
しかし食後であることもあってか、次第にイレーニスは徐々にうつらうつらとし始め、瞼が重く落ちていく。
「もう眠いかな。いいんだよ、好きな時に寝てしまって」
「……うん」
「さあ、それを飲んだらもう横になるんだ。明日になったらまた会いに来るから」
「ほんとう?」
「本当だよ、約束する。だから安心して」
手にしたカップに満たされた、水を飲み干したイレーニスへと睡眠を促す。
上目づかいで見上げる彼にゆっくりと頷くと、簡素なベッドへ横たわらせ、上から毛布を一枚かけてやった。
獣脂を燃やす洋灯の明りを吹き消し、薄灰色の頭を優しく撫でてやる。
そこからしばらくして寝息を立てはじめたイレーニスを置いて、僕も自身の部屋へと戻るために退出しソッと扉を閉めた。
僕は隣に在る自身の部屋へと向かい、自身もすることがないため眠ろうかと考える。
しかし部屋へと入ると、そこにはいつの間にやら、勝手に部屋へと上がりこんでいた人物の姿があった。
「ヴィオレッタ?」
「……!? も、戻ったか!」
「ああ。もう夜も遅いし、イレーニスが眠ったからね。そっちはここで何を?」
「いや……、実は私もイレーニスの様子が気になってな。状況を聞きに来た次第だ」
部屋へと入った僕の目に映ったヴィオレッタは、僕のベッドへと腰かけるような体勢から寝転び天井を見上げていた。
その彼女は僕の姿を視認すると、勢いよく身体を起こして縁へと座り、目元を引き攣らせながらしどろもどろとなりつつ返す。
「気になるなら直接会いに来ればいいのに」
「それはまぁ、そうなのだが。……で、どうなのだ?」
「とりあえず、今のところ身体の方に特別異常はないよ。今朝までは風邪気味だったけど、今じゃすっかり熱も下がった。身体の線は細いけれど、案外丈夫みたいだ」
先ほど見てきたイレーニスの状態を教えると、ヴィオレッタはベッドから起ち上がり隅に置かれた椅子へと腰かけた。
そこからも彼女はしばし視線を泳がせていたが、次第に落ち着かせると小さく咳払いをする。
「そいつは何よりだ。……ところで随分とイレーニスを気に掛けてやっているようだな」
「そりゃあね。こんな得体の知れない船に拾われて、子供一人で寂しい想いをしているだろうし」
「普段と違ってあまりにも優しくしているせいで、てっきりそういった趣味なのかと疑いそうになったぞ。見た目は少女と見紛うばかりであるしな」
言い放ち肩を竦め、呆れたように苦笑するヴィオレッタ。
彼女は僕がイレーニスに付きっきりであることに対し、なにやら善からぬ想像を巡らせてしまっていたと見える。
だがいくらなんでもありえない話だ。
「冗談。確かにイレーニスの見た目は、女の子の格好をしていても違和感はなさそうだけれど。もし仮に僕がそういった趣味だったとしても、いくらなんでも幼すぎる」
「そ、そうか。ならいいのだが。いくら女に見境のないアルでも、流石にそこまで守備範囲を広げていないようで安心したぞ」
「……僕をなんだと思っているんだ」
勘弁してくれとは思いつつも、勤めて平静に否定の言葉を吐く。
するとヴィオレッタはホッとしたような様子を浮かべ、普段通りに軽口を叩き始めた。
困った表情を浮かべる僕へ、ヴィオレッタは声に出さず笑う。
そうしてしばし息を漏らしていたのだが、彼女は笑いが納まった頃になってようやく、落ち着いて質問をぶつけてきた。
「それで、無事同盟領に辿り着いてからはどうするつもりなのだ?」
「どうするもなにも、ラトリッジに戻ってまた本来の役割に戻るだけさ。その前に少しくらいはゆっくりさせてもらうけれど」
「そういう話ではない。イレーニスの扱いについてだ」
これまでしていた砕けた表情は一変。突然として真剣な様相を浮かべ、こちらをジッと見据えた。
追及するとまでは言わないが、彼女は僕の考えをしっかりと把握したがっているようにも見える。
「驚くべきことだが、アルはイレーニスの話す言葉を早々に習得しつつある。そして現状では他に話せる相手が居ない以上、あちらに着いたからといって別れるのは難しいと思うぞ」
「言わんとすることはわかるけど、本来帰るべき場所に戻してあげる方が優先じゃないのか?」
「イレーニスの両親について言っているのか? だがこのような海上で一人漂っていたのだ、只ならぬ事情があると考えるのが当然だろう。場合によっては、既に帰る場所が存在せぬのやもしれん。だとすればこちらに着いて来たがるのは、当然ではないだろうか」
こんこんと諭すように、ヴィオレッタは自身の考えを述べる。
彼女のしたこの意見は、最初にイレーニスと会った時にエイダがした懸念と同じものであった。
イレーニスを拾った海域には、近場に人が居住可能と思われる島などは存在しない。
であれば彼は船から落ちたと考えるのが自然。
それに助けた時にイレーニスが抱えていたのは、倒木が流れたような物ではなく、人の手で切り出された板であったのだ。
<推測しうるモノとしては、乗っていた船が座礁、あるいは沈没したという可能性でしょうか>
補足するように告げるエイダの言葉に、内心で頷く。
広い洋上で流されている時に、偶然板を拾ったというのはなかなかに考え辛いとは思う。
ならばその板は、イレーニス自身が乗っていた船の一部ではないだろうか。
『この歳の子供が一人で船に乗っていたってことはないだろうな。もし船が座礁したか沈んだのだとすれば……』
<同じ目に遭っている両親か、それに準ずる保護者が同乗していたはずです。ですがその場合、助かっている可能性は限りなく低いでしょう>
『ああ、まず生きてはいないだろうな。偶然通りがかって助けられただけでも、奇跡的と言っていい』
これはあくまでも、勝手な憶測でしかない。
ただその考えはあながち外れたモノでもないと思え、であればイレーニスに帰る家がないことを示している。
ここまで片言で話してきた限りでは、当人はあまりこの辺りの経緯を話したくはなさそうだった。
つまりは思い出したくもない出来事があった証左であるとも言える。
「だけど、そう簡単に責任を負うわけにはいかないよ。それにこのまま船に乗っていれば同盟領に着くとはいえ、まだ帰り着いてはいないんだ」
「確かに、まだ安心しきっていい状態ではない。それにイレーニスの面倒を、こちらが見る益はないやもしれん」
「だろう?」
「かと言って放っておけもせん。何せあんなにも幼いのだ」
僕はエイダとのやり取りをしつつも、自身の考えを述べるヴィオレッタをジッと見やる。
彼女は不幸にも過酷な目に遭っているイレーニスを憎からず思っているのか、説得をするように話し続けていた。
しかしいくら熱心であっても、そう簡単に折れてやれはしない。
「……おまけに僕等は傭兵だ、ずっと側に居てやるなんて出来やしない」
「ではどうするのだ? ここの連中は親切だが、結局海賊であるのに変わりはない。そこに子供を置いて行くとでも言うのか」
彼女は徐々に責めるように、目へと力を強めていく。
決してイレーニスの存在を、迷惑そうに思っているようには見えないヴィオレッタの意志をくみ取るとすれば、おそらくはこう言っているのだろう。
観念してお前が面倒を見ろ、と。
「それに、あの子はもうアルに懐き始めているようであるしな」
「否定はしないけど……」
止めとばかりに、クスリと笑んで告げるヴィオレッタの表情は、拒否を許さないと言わんばかり。
彼女は遂に、情へと訴え始めたようだ。
この要求を突き放すのは容易だが、後々で何を吹聴されるとも知れず、帰った後で傭兵団の皆から外道と言われるのが目に見えている。
真剣に向ける彼女の視線を浴び、僕は次第に逃げ場をなくしていくのを感じる。
ここまでくればヴィオレッタの提言を拒否するのも憚られ、不承不承ではあるが、首を縦に振るしかなくなってしまう。
「……どちらにせよ僕の一存では決められない。助けたのはここの人たちだから、彼らの意見も聞いてからだ。それにもし仮にそこが通って僕等が面倒を見るにしても、帰ってから団長にも伺いを立てる」
「それでいい! ではようやく石頭を納得させたことだし、私はイレーニスの様子でも見てくるとしよう」
「起こさないようにしてくれよ……」
僕の注意を聞くのが早いか、すぐさま部屋を出てイレーニスの下へと向かうヴィオレッタ。
彼を拾ってからの数日、ヴィオレッタは僕に次ぐ頻度でイレーニスに会いに行き、甲斐甲斐しく世話を焼いていた。
その様はエイダがする反応とよく似たものだが、ヴィオレッタの性格を思えば、実に似合わない行動だとは思う。
どうしてそのような真似をと考えはしたが、実のところ彼女は、単に弟分を欲しがっているだけなのではないだろうか。
「そういや今のところ団内でも一番年下だったな」
<やはり多少なりと、面倒を見る相手が欲しくなるのでしょうか。イレーニスを別に団に入れようという訳ではなさそうですが>
「一番下っ端てのも、気楽なものだと思うんだけどな」
今にして思えば、下っ端というのも良い立場であったのだろう。
だが今のところ団内で最も低い立場である彼女にとってみれば、エイダの言う通り思う所でもあるのかもしれない。
とはいえ流石にイレーニスは幼すぎるので、傭兵団の団員と考えるのは難しいとおもうけれど。
「帰ってからいきなり相談って訳にもいかないな。とりあえず、帰り着く前に団長と連絡だけは取っておくか」
<了解。今すぐ衛星の通信機能を使用しますか?>
「いや、明日でいいだろう。もう眠い……」
嘆息すると、自身のベッドへと横になって薄い毛布を被る。
先ほどまでは然程でもなかったのだが、今のやり取りでドッと疲れが押し寄せた気がする。
ついさっきまでヴィオレッタが横になっていたベッドの上で身体を伸ばし、身体の力を抜いて深く深呼吸をする。
すると微かに、甘い香りが鼻先をくすぐった。
毛布へと浸みたその匂いに脳が侵食されるような感覚を受けつつ、僕は疲労感からすぐさま眠りへと落ちそうになっていった。




