ノーラウザ・タイム 01
コルナローツァを発ってから、およそ二〇日近くが経過。
現在僕等は北部を経由する形で共和国を横断し、東部のスタウラス国との国境にほど近い、小都市へと辿り着いていた。
経過した日数だけを考えれば、とっくにスタウラス国へと入っていてもおかしくはない。
それでもまだようやく国境付近に辿り着いた程度であるのは、様々な要因が絡み合った結果によるものだ。
『本当に……、随分と時間がかかったもんだな』
<仕方ありません。途中で何度となく足止めを食らったのですから>
『旅費も心許なくなってきた。せめて早く国境を越えないと干上がってしまう』
僕は外套を捲り、服の上から懐に入れてある財布を撫でる。
最初こそそれなりの額が入っていたことで膨らんでいた財布だが、今では随分と軽くなっていた。
共和国内での移動のほとんどがそうであるのだが、コルナローツァからここまでその全行程が徒歩。
当然移動には時間がかかる上、共和国特有の山岳地系の多さに加え、首都近辺の警戒態勢などもあって移動は困難を極めた。
おまけに長期間に及ぶ移動も相まって、僕等の体力は限界が近づきつつある。
「ビルトーリオさん、もう少し歩けますか?」
辿り着いた街の通りを歩く最中、僕は後ろを着くビルトーリオへ振り返る。
彼は若干俯き加減であり、歩く足にも力が見られない。
ここ数日は眠れてこそいるものの、食欲もかなり落ちてきているようだ。
「え……? ああ、はい。なんとか」
「もう少しの辛抱です。とりあえず今日のところは、ここで休みますので」
僕はそう言って彼を励まし、通りに面した数軒の宿を見渡した。
急勾配の山地での長距離移動に、いつ背後から追手が迫るとも知れぬ恐怖。これらと戦い続け、彼の精神は悲鳴を上げている。
今のビルトーリオは、僕等に協力したことを激しく後悔しているかもしれない。
あるいはもう既に、そういった考えは通り過ぎてしまったのだろうか。
そんな彼を早く休ませるべく、僕は通りの宿の中でも、比較的安価と思われる一件へと踏み入れた。
宿の主人と話して値段を問うと、思いのほか安い宿代に安堵する。
やはりスタウラスとの国境が近いせいだろうか、あまり遠方から旅人も来ないようで、安くすることで少ない客を奪い合っているようだった。
「私ももう限界だ。食事だけして早く眠りたい……」
「そうだね。主人、夜の食事は外で摂らなければならないだろうか?」
ヴィオレッタまでもが上げ始めた悲鳴に、少しでも動けるうちにと宿の主人へ尋ねる。
すると彼は簡単な物で良ければ、ここで出してくれると告げた。
割安で出してくれると言うので、ありがたくその申し出を受けるとしよう。
僕等は部屋を二つ取り、二階の客室へと上がって荷物を置く。
その後一人部屋であるヴィオレッタも合流し、宿の主人が食事を用意するまでの間、今後の予定について話し合うことにした。
皆は早く休みたいだろうが、もうしばらく我慢してもらいたい。
「地図の上では早朝にここを出たとして、国境に辿り着くのはたぶん夕方くらいになる」
「……つまり明日も移動ということなのだな。いったい何時になったら休めることやら」
「もうしばらく我慢してくれ。国境さえ越えれば、少なくとも共和国の警戒に怯える必要はなくなるんだから」
僕はヴィオレッタのウンザリとした物言いに、苦笑しつつも宥める。
正直なところ、レオはともかく僕も少々疲労しているのは否定できない。
数日の間この街へと逗留し、体調の回復に努めるというのも、決して悪くない考えに思える。
この街は旅人が少ないが故に、店は利用してもらおうと値段を張り合い、結果こちらは比較的安価に済ませられるだろう。
しかし逆に言えば、この地で旅人の姿は酷く目立つということでもある。
「前線の後退で緊張状態が解けたとは言え、ここは長年睨み合っている国同士の最前線に近い土地だからね。出来るだけ早く抜けたい」
「わかっている。ここまで来れば、引き返すよりは先に進む方がずっと楽だからな。ビルトーリオ、耐えられるか?」
肩を竦めるヴィオレッタは、もう観念したとばかりに了承を示す。
その彼女もまたビルトーリオが気になっているのか、彼へと静かに問いかけた。
「大丈夫です。身体は辛いですが……」
宿に入ったことによって、若干ながら落ち着いたせいか。
ビルトーリオもまた頷き、未だに生きた眼光で大きく頷いた。
彼にとってみれば、憎い共和国に打撃を与え、自身の研究を行える環境を得られると考えれば、ある程度の苦難も許容の範囲といったところか。
「たぶん国境越えの時に、兵士へ多少なりと袖の下を渡す必要があるはず。悪いけどまだしばらく贅沢は出来ないから、そこだけは我慢してくれよ」
僕がそう軽く言い放つと、二人は宿の中に響かぬ程度の軽い笑いを浮かべる。
この様子であれば、もう少しの間は大丈夫だろう。
共和国に入って以降、ずっと潜伏と戦いの渦中に置かれているが、なんとかまだ耐えられそうだ。
二人の思いのほか元気な様子に安堵していたが、唐突に肩へと何かが触れる感触が。
そちらを振り返ってみると、そこには僕の肩へ指先を叩くレオの姿があった。
「どうしたんだ?」
「いや、何故俺に聞かないんだ」
彼はジッとこちらを見やり、不満気な眼差しをこちらに向ける。
ここまで見た限りでは、僕にはこれといって彼が疲労しているようには見えなかったのだ。
弱音を吐かないのはいつものことだが、そもそも誰よりも体力が有り余っているので、そういった発想すら無い。
「聞いて欲しかったのか?」
「……別に」
こちらの問いに対し彼はそう答えると、余所を向いて自身の背嚢に納められた荷物を整理し始めた。
おそらくは途中で気恥ずかしくなり、言葉を引っ込めたのだろう。
そんな彼の様子を可笑しく思い、ヴィオレッタとビルトーリオは密かに、疲れを感じさせぬ笑いを上げ始めていた。
▽
夕刻、ワディンガム共和国とスタウラス国の間に伸びる国境付近。
その国境線の共和国側。共和国にしては珍しい森林地帯で、僕等は一人の男と向き合っていた。
「悪いな。辺境の警備だけじゃ、なかなか懐も厳しくってよ」
僕等の眼前へと立ちはだかった、一人の軽装鎧を纏う男。
共和国の兵士であるその男は、彼は僕が差し出した幾枚かの高額硬貨を受け取り、満足気な表情を浮かべていた。
ただ一人だけで見張りをしている兵士に渡したのは、言うまでもなくこの場を通り抜けるための袖の下。
「流石にこれ以上は無理ですよ。通ってもよろしいですか?」
「ああ、サッサと行きな。バレたら困るから、もう戻ってくんなよ」
早く立ち去れと言い、男は邪魔そうに軽く手を振り先へ行くよう促す。
僕等は男へと会釈し、そそくさとその場を足早に立ち去った。
その兵士へと背を向け、しばし街道と言うのも憚られる狭い小道を進み、森の中へと進んでいく。
そうして後方に男の姿が完全に見えなくなった頃、後ろを歩くヴィオレッタは被っていた外套のフードを脱ぎ、暑苦しそうに息を吐いた。
「いい加減もう良いだろう。……なぜ私だけがこのような格好を」
「しょうがないだろう? もしさっきの兵士が善からぬ考えを抱いて、通す代わりに妙な要求を突き付けても困る」
「それはそうなのだが……」
背筋へと悪寒でも奔ったのか、ヴィオレッタは僅かに身体を震わせ口ごもる。
おそらく兵士は彼女のことを、子供か何かだと思ったはずだ。
それはそれで危険とも思えるのだが、女性であることを表に出すよりは多少マシというものだろう。
まぁ……、女性だとわかっていたとしても、彼女の体形では食指が動かなかった可能性はあるかもしれないが。
ヴィオレッタは気を取り直し、小さく咳払い。
こちらへと向き直ると、今度は一転して若干心配そうな口調となる。
「先ほどの兵士に随分と多く払っていたようだが、大丈夫なのか?」
「ああ、問題はないよ。最初に少なめの額を提示していたからね」
彼女は兵士に渡した袖の下が、かなり多いと感じていたようだ。
途中から値を釣り上げた兵士に対し、僕が少しずつ渡す額を増やしたため、そう感じているに違いない。
ただ最初に見せた額はあまり多くなく、最終的には予想の範疇内に収められた。
これは賄賂の渡し方と言うよりも、金銭交渉における基本の一部というのが正解だろうか。
共和国に潜入している隊の隊長も、こう言った手段は十分有用だと教えてくれたことでもあるし。
「別に手持ちの全部を渡してもよかったんだけどね。スタウラスに入ってしまえば、共和国の通貨は使えなくなるから。持っていてもしょうがない」
「言われてみればそれもそうか」
軽く言い放つ僕の言葉に、ヴィオレッタのみならずレオとビルトーリオもまた頷く。
スタウラス国はかつて共和国の支配下であったため、共和国の通貨が普通に流通していたと聞く。
だが再度独立を果たしたのを機に、使用を強制させられていた共和国通貨を廃止。
独立国であった頃の貨幣制度を復活させていた。
これはきっとスタウラスの民にとって、帰属意識の再確立とも言える行為だったのだろう。
ただそのために、僕等がここまで節約に節約を重ねてきた大事にしてきた金銭が、国境の向こうでは無用の長物となってしまう。
「では、向こうに着いたらこの荷物を売り払う訳だな」
彼女はそう言って、自身の背負う重そうな背嚢の位置を直す。
中には朝に出立した小都市で買い込んだ、食糧や調度品の類が詰め込まれている。
食料は移動の最中に食べてしまうためだが、調度品などは向こうで現金化し、旅費とするためだった。
その後の船賃などを確保する手段に関しては、また何か手を考えねばならないのだが。
「ともあれまずは、あちら側の兵をどう騙すかだな……」
「何か手はあるのか?」
共和国側の兵に関しては、上手くやり込めることが出来た。
だがスタウラス側の兵に関しては、そう簡単には行かないかもしれない。
ヴィオレッタの、何がしかの手はあるのだろうとなと言わんばかりな問いに、僕は大仰な身振りで諸手を上げ、冗談めかして告げる。
「さあね、当たって砕けるしかないな」
発したその言葉に、彼女のみならず他の二人からも同様な溜息が聞こえるかのようであった。




