働くということ
ミナミは、働くということに、憧れをもってきた。
とくに、ずっと、なりたかったNPO関連の相談窓口という職業は、ミナミの背筋をすっと伸ばすに十分なステータスをもっていた。
友達がその職にあるのではない。
いま、ミナミが、その職にあるのだ。
とはいっても、ミナミの職も風前の灯だった。
週に3日、働いている池井戸さんは、美人できさく、それに人当たりがとてもよくて優しかった。
彼女と働けてうれしいなと感じていたのだが、彼女と働きたがっているのはミナミだけではなかった。
相談所内で、センター長と次長の男性がいるのだが、次長の男性職員のご指名で、池井戸さんは次長補佐につくことになってしまった。
なんだが、ミナミはがっくりときてしまった。
池井戸さんが、次長について、いろいろな仕事をするとなると、ミナミは一人事務所にとりのこされる。
センター長はなにかと忙しいだろうから、ミナミは補助には入れない。
相談所内には、パート勤務が3人いる。
週三日の池井戸さん。それに、週一日の渡部さん。日曜日だけやってくる三枝君。
池井戸さん以外の二人は、ほかに職業をもっている。ダブルワークってやつだ。
渡部さんは高校生のお子さんがおられる女性で、ものやわらかでテキパキしている。これまた美人である。
三枝君は、まだ30代のはじめか、税理士試験の勉強をしながら、平日は作業所で働き、日曜日は相談所内で働いている。
話によると、学生時代からずっとNPO関連の活動をやってきた人だという。
二人とも、パート勤務とはいえ、NPOの知識にも、パソコン仕事にも、通じているといえる。
フルタイムの職員は、ミナミをのぞいて3人。
ミナミはフルタイムとはいえ、14日の試用期間。
しかも半年ごとの契約社員である。
立場は不安定といわねばならない。
いつ、首になってもおかしくない立場にいる。
この職を失いたくないだけに、気持ちとは裏腹に、頑張ろうとすれば頑張ろうとするほど、緊張で体も心もうまく働かなくなってしまっていた。
フルタイムのうちの、トップはセンター長。
もちろん、この相談窓口は、市の受託事業で、受託したのはそもそも、母体となる病院が経営するグループ企業で、本当のトップはそこの会長ということになる。
さらにいうと、そのグループ企業の一NPO組織がミナミの属する場所で、そこでのトップは野中理事長、専務理事が、大学での講師もつとめている田中さんである。
まあとはいえ、目に見える職場としての相談所では、30代後半とおぼしきセンター長の佐川さんがトップで、次長は、30代前半くらいの白井さん。
そして、30になったばかりくらいの女性職員、山田さんである。
センター長は新婚で、奥様もNPO法人を立ち上げたばかりである。
行政書士の資格も持っていて、なにかと忙しいようだ。
山田さんは、昨年の10月に入社したというから、10か月くらいしか相談所に勤めていないけれども、今までもNPO関連の仕事をしていたということで、NPOの知識も豊富で、さらにいうと、パソコンにも通じている。
いつもバリバリ仕事をしていて、ちょっと話しかけにくい。
でも、だ。
池井戸さんが白井さんの補佐となると、ミナミは、山田さんの補佐ということに必然的になる。
覚悟を決めなくてはならなかった。
のんびりと、池井戸さんのお仕事を回してもらったり、仕事になれるのをじんわり待ってもらうといった姿勢から脱却しなければならないときが迫っていると感じていた。
池井戸さんと過ごす仕事の時間は、なんだか昼下がりの井戸端会議のようで、毎日が楽しく新鮮だったが仕方がない。
若い山田さんは、勉強熱心で、常に何かを勉強しているのだけど、勉強嫌いのミナミにはついていけないでいた。
もちろん、尊敬はしていた。
だけど、それとこれとは別なのだ。
なにも、そんなに勉強しなくってもいいじゃない、と感じることさえあった。
山田さんは、自分から何か指示をだすわけではないので、正直、ミナミはどうしてよいのかわからないでいた。
白井さんは親切で、何かと指示を出してくれる。積極的に指導もしてくれる。
でも山田さんは、なんというか、やはり若い女性なのである、そこは。
年上のミナミに戸惑うであろうし、ミナミもまた、年下で仕事のよくできる山田さんと、どう付き合っていって、そしてどう仕事を教えてもらえばよいのか、戸惑っていた。
ミナミは、山田さんと仲良くやりたかったけれども、山田さんは、そうではないらしく、途方に暮れていたのだ。
山田さんは若い女性にありがちな浮ついたりちゃらついたりといった傾向は一切なかった。
堅実そのもの。
いつもきれい目カジュアルな服装のパンツルックで、彼女に似合ってはいたけれども、決して流行をおっているタイプではなかった。
スカートもはかなかった。
どこか、自分が女性であるというアピールを徹底的にそいだ服装をしていたが、顔はとても可愛らしく、いつもピンクのルージュをしているのが際立っていた。
肌も美しくて、ミナミはいらないことながら、磨けばすごい美人になるんだなぁとほれぼれみていた。
山田さんは、補佐なんて必要としていないようだった。
どうしたもんかなぁ。
ミナミは、朝、手帳の空いたスペースに、なんとなく愚痴と不安を書き散らしながら、ぶつぶつと独り言をいった。
でも今日から、気分は山田さん補佐ということで、いってみよう。そう決心してはいた。
山田さんからいろいろと教えてもらおうと。
しかし、相談所内でずっといるという山田さんの補佐は、外に出て動きたいな、と感じるミナミには少々、退屈ではあった。
とはいえ、山田さんも外回りで、さまざまなNPO関連の相談をしてきたということなので、いつかその補佐に連れて行ってもらえたらなぁと待ち遠しく思っているのも事実だ。
ミナミは、NPOやNGOという世界で働く魅力的な人たちに、会いたくてたまらないのだった。
とはいうものの、ミナミは、センター長から、相談をきくようにと言われていたものの、どの相談に入っていいのかわからずに、戸惑うばかりで、うろたえているだけだった。
働くって、こんなに大変だったんだ。
そして年を取ると、こういうときに素早く慣れて素早く覚えようという意欲が低下していて、なんか自分がスローモーションで動いているように感じることさえあるほど、ずんぐりとしか動けないのに、我ながら驚いていた。
若いころのミナミだったら、素早く覚えてこの場に適応しようとしただろう。
勉強もしようとしたかもしれない。
でも今のミナミには、相談所と家との往復だけで疲れていた。
休みには泥のように眠り、不満だらけの子供たち二人と向き合い、遊びにでかけ、自分の着るものの心配をし、お金の先行きに不安を覚え
そんなこんなで、仕事に対して、十分に注意をさける余裕もなかった。
それでも、年を取ったミナミは、若いころとは違った、落ち着きがあった。
どこか、悠久の時の流れの中に身を置いて、流れるまま、着の身着のまま、ありのままの自分、過去の経験や知識といったものが、その流れの中で、流れるままになるといった自然体の姿勢が、あった。
なんというか、つまり、ぶっちゃけ精神。当たって砕けろ。
おばちゃんの、厚かましさ、ってやつかもしれない。
これが山田さんから嫌われる理由かもしれなくて、そして、ミナミがなんだか、いろいろありながらも焦ることなく仕事へと通い続けられている理由なのかもしれない。
そんなことをふと書き留めるうちに、スケジュール帳の余分なノートは、残すところあと、2枚になっていた。
「ああ、また新しいのをかわなきゃ」
家計簿にのる新しい200円の数字が、ミナミの肩をがっくりと落とさせるのであった。ふう。