介護ホームは夢の城
「契約、どうだった?」
両親や姉に夕飯の後きかれ、ミナミは自慢げに介護ホームでもらったばかりの契約書や健康診断書をみせた。
ミナミは44歳だし、これといった資格も才能もない。もちろん、若さも美貌もコネもない。
介護の職とはいえ、正職員のそれもボーナス付きの仕事があったなんて、我ながら誇らしい。
夫のカズキにも急いでラインで連絡しておいた。
夫のカズキからは、
「厚生年金に加入しているところじゃないと、何があっても離婚はしないよ」
と、メッセージがはいっていた。
「もちろん加入するよ健康保険も、雇用保険も」
「でも年末までは扶養内だから籍を抜く気はないから」
夫のカズキはもはや、用件しか書かなくなっている。
ミナミは誰にも愚痴をこぼす人もいなくて、なんだか寂しい。
さらに言うと、ミナミは介護ホームの人から渡された健診の内容に体重欄があったのをみて、昨夜お風呂の時に体重をはかってみたのだ。2年ぶりだろうか。
体重は67キロになっていた。
妊娠時よりも多い。
身長152センチしかないのに、67キロ。
どうりでⅬサイズの服すら試着しても入らないはずだ。
ミナミは内心落ち込んでいた。このままでは成人病に引っかかるかもしれない。
そう思いながらも、それでも就職できたことで、夕食をいつも以上に口にはこんでは飲み下していた。
両親や姉のトクコが、次女のユウカがまとわりつくのを適当にあしらいながら、契約書を見ていく。
その間、ミナミはぼんやりと夫からのラインの返事を待っていた。
「これ、この誓約書だけど」
母が言っている。
「ん?誓約書?」
そう、実はミナミも気になっていたのだ。
「誓約書に・・・・・・過失または故意により、会社に損害を与えた場合、当社の判断にすべてゆだね、本人と保証人のいずれかが全額支払います・・・・・・」
「ちょっと、これはすごいね」
姉のトクコもいう。
父親はア法科を出たので、こちらも口を出してきた。
「この前テレビでみた引っ越し業者の人が、会社に損害賠償をおわされて会社に借金をすることになって辞められなくなったって話きいたぞ」
「ええ?!」
ミナミもそう言われると心配になってきた。
介護ホームは病院が母体だし、面接してくれた施設長も経営者の奥様も、とても悪い人には見えなかった。
けれども、ミナミが以前勤めていた介護施設は障害を持った人専門であったが、そんなことはなかった。
というのも、介護において怪我ってある程度つきものだからだ。
どんなに気を付けていても、麻痺した体をささえてトイレに移動とかしたさいに、麻痺しているがゆえに足がベッドのところにあたっていただけで骨折してしまった例もあると聞かされた。
それでやはり損害賠償になったときく。
が、そのときは会社が損害をおったときいたことがある。
しかし、それがもし個人の責任と判定されたなら、賠償金を払えそうにはなかった。
「あの、そんなひどいことにはならないとは思うけど」
そう言ったものの、自信がみるみるなくなっていった。
「健康診断書に一万一千円?」
「あら、みせて」
母とトクコがわいわいと言っている。
「こんなにかかる?」
「介護だから検査項目が多いらしいのよ」
父が
「待てよ、確か」
といってインターネットで調べ始めた。
「やっぱりだ、健康診断書は自費じゃなくて、雇った会社が労働者に対して、検診する義務があるんだ」
「あ、これ、この市役所、入所前に健康診断書の提出を義務付けて訴訟に負けてる」
姉のトクコもスマホで調べながらいう。
「ちょっと、あなたどうして受けたのよ」
皆の声に、ミナミはオロオロと下を向いた。
しばらく頭は真っ白になったけれども、一息吸うと怒鳴った。
「仕方ないでしょ!子どものためよ!」
ミナミはそれだけいうと、契約書をにぎりつぶし
「明日、やめてくる」
そういった。
両親もトクコも、ミナミの剣幕にややひるみながら頷いた。
ミナミは滅多に声を荒げないのだ。
一人きりでいるときのみ、心の中で悪態をついたり泣いたりして鬱憤をはらすのが常だった。
ミナミは翌日、土曜日であったが、介護ホームに断った。
中年女の、しかも専業主婦の期間の長いミナミは、本当に就職できるのだろうかと、不安でいっぱいになった。
夫のカズキが、家に戻っているとラインに入ってきても、ため息と胃の痛みしかなかった。
就職も夫も、そして自分自身の健康も難題だらけだった。