疲れという名のサーファー
「お母さん」
胸が苦しくて目が覚めると、次女のユウカがお腹の上に乗って座ってる。
きゅきゅきゅっと、くすくすの、中間のような笑いでミナミの上を転がるようにまとわりつくので、ミナミは危うく椅子から転げ落ちそうになってしまった。
「やめて、重い」
実際、次女のユウカは5歳で身長116.4センチにして体重は27キロだ。
これは、少々、重めだ。
ユウカは一歳半健診のときからずっと栄養指導を受けてきた。
でも、本当のところ、一歳半のとき、ユウカはまだ本格的な離乳食をはじめていなかった。
ユウカの主食は母乳だけ。生まれた時からだ。ユウカは母乳を4歳になるまでずっと飲んでいた。
長女のヒカルも3歳まで飲んでいたのだが、ヒカルは自分のことを棚に上げて、ユウカが 3歳にもなって母乳を飲んでいるのはおかしいと言い続けたものだ。
長女ヒカルは華奢で小柄。14歳だが150センチちょっとしかない。
次女のユウカは骨ががっしり太くて胸板も厚く、夫のカズキに似ていて、背が高い。生まれてから5歳になるまで、大体、一年に10センチ伸び続けている。
そして二人とも、とてもかわいらしくミナミにはみえた。
ヒカルは14歳ということもあり、何かとミナミにいちゃもんをつけてくる。
「ダサイ」
とか、日常茶飯事である。
実際、ミナミも自分の洋服に自信がない。ヒカルやユウカには新品を買ってやっても、自分のものとなると躊躇してしまう。
下着ですら、ミナミはもう何年も2枚以上を持ったことがなかった。
それも、薄汚れて破れたりしてしまっていた。
ヒカルとミナミのものが美しければそれで良かった。
それに、ミナミはヒカルを産んで以来、太り続けていた。ある意味、進化しつづけてると言える。退化という人もいると思うけどね。
ヒカルから外見のことであれこれ指摘されると、ミナミは一呼吸おいてから、ヒカルのもとに行って話をするようにしている。
「今の、とっても傷ついたんだけど」
事実、ミナミはとても傷つきやすいので、ヒカルをはじめ、ユウカや、他の人たちに言われたちょっとしたことに一日中、傷ついてばかりである。
そのストレスから、さらに食べてしまうという悪循環を何年も何年も続けて、気が付けば15年たっていたというわけだ。
しっかりと抱きついているユウカをお腹にのせたまま、ミナミは海をみた。海の自分の家。買いたて、ほやほやの家。リクライニングチェアに座っている、くつろいだ自分。
そしてきっと母のミナミを愛しているだろう娘が今、お腹にくっついていて、うれしくて、ほほえましくて。
ヒカルだって、なんだかんだいいながら、まだまだ、母のミナミを必要としているのだろう。だから、ダサイとか言って挑発しながらも、ミナミのまわりをウロウロして話を聴いてもらいたがっている。
ミナミは、ヒカルもユウカも、いつか離れて好きな人を作って、そお人と会話するまでの、ほんのひと時の関係と割り切っているところがある。
そして、ヒカルのもユウカのも、会話の意味自体には深い意味などないと。
働かないアリと同じなのだ。
すべては全体の中のバランスなのであって、全人生の中のほんの一コマいるなかで感じた、様々なことを、きっと共有したくて、今ここにいるんだなって。
そういう、なんだかふんわりした気持ちがある。
だからか、いつも会話のこまごました内容は聞き逃してしまう。それで、娘2人からは
「聴いてない!」
と、叱られている。
でもまあ、それもそれで良いのだ。
話をロクに聴いていないくせに、自分のことを批判された時だけ、怒る、そういう母であるが、それでも良いのだ。
ミナミは、全体のところで、ふぅわりと、どの瞬間も、とても可愛いと感じ愛しているからなのである。
「お母さん、ここ楽しいね」
ユウカは少し眠っていたようで、目をこすりながら言った。
こんなとき、世界中の古今東西の母親のハートが、喜びにふくれあがり、あたたかい何かが、拡散していく。そんな風に感じるのだ。
「私も、なんだか、好きだな、ここ」
いつものセカセカした早口で、ちょっぴり嫌味な口調をまぜながらも、世界中のことは私が決めると言わんばかりに、きっぱりと言い放つヒカルがいた。
「お母さんも、ここ、なんか落ち着くね」
ミナミの母の作った、心づくしのお昼ご飯は、サンマの焼き魚に、父が作ったキュウリだの、かぼちゃだのが、並んでいた。
どれも、おいしくておいしくて、頭のてっぺんから、足のつま先に至るまで、元気が満ちてくるのがわかるのだった。
「ねえ、おばあちゃん」
ミナミは、ずっと考えてきたことを言ってみようと口に出した。
「わたし、仕事をしようと思うんだけど」
「そうよねぇ、ユウカちゃんも大きくなったし」
母親はキュウリをバリボリかみくだいて、ビールを一口飲んだ。
「うん、それもあるんだけど、トクちゃんちに移ったのも、実はお金がないからなのよ」
「お金?」
「そう、トクちゃんから聴いたかも知れないけど、田中さんは来月から給料が16万円に下がるんだ」
ミナミは結婚して16年だけど、ずっと夫のことを、両親の前では「田中さん」と呼んだ。
最初は照れ臭かったのもあるけど、なんだか、自分という人間と、夫が同化したのではないと主張するために、一線をひきたかったのかもしれない。
「うん、聴いたわ。私たちも、援助するつもりがあるから、いつでも言ってね」
「そう、それで相談なんだけど、働きだしたらユウカを幼稚園に送り迎えしたり出来ないって思うのよね」
「そりゃそうよ、あんた一人で大変やろ」
両親は二人ともビールで出来上がってるらしく調子が良い。
「おう、俺にも任せとけ」
と、普段からあまりアテに出来ない父までが、そう言っている。
「で、この家に一緒に住むのは、ダメかな?」
ミナミが言った後、父も母もしばらく顔を見合わせていたけれども、ちょっと困った感じで母が口を切った。
「だけど、ここ田舎だから、どうだろ?」
「うん、でも確か、この島の学校、市内のどの地区からも登校できる指定校になってるのよ、小学校も中学校も」
「ああ、知ってる知ってる。船着き場からバスが出てるのよね」
母も何度か見たことがあるらしい。島の子どもが少ないので、小中学校は特区になっていて、市内の子どもならどの子も通うことができる制度になっているのだ。
船の代金はタダで無料のバスが船着き場から学校まで送迎してくれる。
人気らしく、かなりの人数が、船にのって登校してきているという。
「でも、ヒカルちゃんも中学校やし転校よりも今のままの方がいいやろ?」
母にそう言われてハッとなった。
確かに、今、思春期ということもあり、こういった時期に引っ越しをすることは、どうなんだろうとヒカルを見た。
「ああ、わたし、絶対、中学変わりたくない。私、私だけでもトクコオバチャンとこにいる」
ヒカルは考えるまでもないというように、きっぱり言い捨てた。いつも怒ったように話すので、聴いているとこっちまでイラつくと同時に、思い出したときは、時にそんな去勢をはった姿がかわいく思える。
「ほらね、ヒカルちゃんもそうだし、ユウカちゃんだって、あと半年で幼稚園卒園でしょ」
そう言われるとぐうの音も出なかった。
「うん、そうだよねぇ」
ミナミはガックリときた。
「あ、ねえ、それならわたしたちがトクちゃんちに移ったらどう?」
母は無邪気に、だけど絶対的な権限を持って、自分の言ったことがすべて常識になるとでも言わんばかりの口調でさらりと言ってのけた。
「そ、そうしてくれたら助かるけど」
正直、トクコとの同居に気を使っていたミナミは、気疲れでへとへとだったのだ。
少しでもトクコがミナミと同居して楽しかったと思ってもらおうと必死に努力してみるものの、トクコはむべもなくミナミのありとあらゆることを気に入らないらしく叱った。
ミナミは長く専業主婦で、誰からも評価されたり褒められたりすることもなく、金銭的報酬も得たことはない。だから、トクコにそう言われると、本当に自分が無能でみじめに思えるのだった。
事実、そう役に立つことはなかったけれども、迷惑をかけることはあっても。
「そうしよや、トクちゃんにはわたしが言っとくから」
母が、そういうセリフを聴きながら、ふと時計を見ると午後3時前だ。
「大変、帰らなくちゃ」
急いで時刻表を確認してもらうと、3時20分発の船が出るという。お礼もそうそうに、荷物をもって、眠そうなユウカをせかしながら、船に乗り込み、電車に乗って姉のトクコの家に帰った。
帰ったらすぐにフロをわかして、順番に入り、お風呂のお湯をバケツで洗濯機にいれてから洗濯機をまわした。
トクコが、いつもそうしているからだ。
ミナミはいつも洗濯機の取水ホースをつかってお風呂のお湯を自動でうつしていたし、洗濯するために朝までお風呂のお湯をのこしておいて、そのお湯を使って朝、洗濯をしていた。
でもトクコは、一人ということもあって、お風呂を入ったらすぐに、お風呂のお湯をバケツでとってから洗濯し、風呂場の掃除をした。
そして毎晩、お風呂のバケツも洗面器も、椅子も、排水溝のフタにいたるまで、外に出して干した。
専業主婦のミナミよりもこまめで、本当に、見習うところが多い。ミナミも、なんとかかんとか慣れない習慣をみにつけようと、奮闘しているが、疲れていると、新しい習慣にイライラしてくるのだ。
それでも、トクコの帰ってくる7時までに、いつも子供たちをフロにいれ、洗濯をすませ、お風呂のお湯も抜いてある程度掃除しておくことを、なんとかかんとか続けていた。
ミナミは久しぶりに、大好きなハイボールを島の帰りのコンビニで、ヒカルとユウカに夕飯のオニギリを買うときに自分用に買っていた。
今日は、姉のトクコが帰る7時よりも、1時間も前に、こどもたち全員をお風呂にいれ、洗濯もすませた。その安心感の中、ハイボールでいっぱいやっていた。
「ただいま」
トクコの声だ。
ミナミも娘たちも、トクコの入ってくる裏口に出向くのではなく、自室でもある応接間の座敷でだらんとリラックスしながら
「おかえりなさい」
と声をかけた。
「ねえ、お母さん、今日、中学校休んだから、課題とか書いた計画表、向こうの家に届いてると思うの。行ってくれない?」
せっかくいい気分になっていたが、暑い中、自転車で往復しなければならない。
「うーん」
と言ったものの、夜7時に中学生を一人で行かせるわけにもいかず、ミナミは飲みかけのハイボールを後にして、立ち上がった。
台所を通ると、姉のトクコが夕飯のお盆を前にものすごい形相でこちらをにらみつけている。
「ちょっと話があるんですが」
姉はいつも他人行儀だったが、その日も電気もつけない中じっと暗いところで座った姉の顔は、さらにギスギスと冷たく感じられた。
「あ、っと、今から私、ヒカルの計画表をとりに家に帰るんだけど」
そう言うと、姉のトクコは、まだ冷たそうなパスタを一口ずずっとすすりながら、言った。
「時間のあるときでいいですから」
帰ってからだと、下の娘のユウカを寝かせなければならない時間だ。今すぐ以外に時間なんてありそうにない。
ミナミは、トクコの対面に座った。
「何?」
こちらをしばらく睨んだ後、トクコはバンとダイニングテーブルをたたくといった。
「この家、誰の家だと思ってんのよ!」
ミナミはびっくりした。
それに腹もたった。
ミナミが逆の立場だったら絶対に言わないセリフだ。
「仕事中にメールがきて、母親が一緒に住むからって。これ、どういうことですか」
「あ、だからそれは・・・・・・」
説明しようとするミナミに、トクコは聞く耳を持たない。
「誰に相談するのが先?」
姉のトクコの言い分は一理も二理もある。
でも、姉のトクコのところが気まずいことを、姉のトクコに相談するわけにはいかない。
それに、相談もなにも、ちょっと島に住んでみたいと、自分の名義の家であるという厚かましさで口に出してしまったミナミの提案から、両親がトクコの家に来るという話になってしまっただけで、ミナミにはなんとも言えなかった。
でも、どうしたのだろう。お酒を飲んでいたからだろうか。
いつものミナミなら、ただ謝るだけで終わっただろう。
でもこの日は違った。理不尽さ、そして、トクコのところにいたことによる気疲れ、言いたい放題のトクコに対しての怒り、それに引っ越しの整理の疲れもあったのだろう、ぷちっと切れた。
「私のいうこともきいて!」
いつになくビシッと言ってのけている自分がいた。
「確かに相談しなかったのは悪いけど、順序的に、島に行って、島で一緒に暮らしたいって提案したら、そう言われたんであって、順序も何もない!」
「だけど、それでもね」
まだ何かガアガアいうトクコにかぶせるようにミナミもまくしたてた。
「トクちゃんに相談しなかったのは、悪かった。謝る。ごめんなさい。でもね、トクちゃん、お母さんはトクちゃんのためにも、一緒に住んであげたほうがいいって、そう言ってたんよ」
そう、実のところそうなのだ。両親は小さい頃からめっぽう、姉のトクコを可愛がっていた。
トクコの家に住むのも、トクコに家賃を払ってあげることで、トクコの家のローンを皆でかえしてあげて楽にしてあげようとしう提案のもとでだったのだ。
「トクちゃん、トクちゃんが中年になって両親と住むのがいやなのはよくわかる。私たちがいるのも、いやなのもよくわかる。だけど、それは私だって一緒よ。なんのプライバシーも自由もないし、いやに決まってる」
ミナミは怒りと悔しさで、涙が出ていた。
ミナミだって、静かに過ごしたかったし、自分の裁量で自由にやれる居場所が欲しかった。
「あのね、わたしは相談するのが先だっていうの、誰の家よ!」
「トクちゃん、トクちゃん悪いけど、わたしも急いで家に帰らなければならないの!」
「トクちゃん、トクちゃんが考えて。私はトクちゃんが出て行けと言えば出ていくし、トクちゃんが両親と住みたくないていうんなら、わたしが自分の責任で、お父さんとお母さんに断る。一緒にすんで家賃補助が欲しいんなら、それでよし、トクちゃんが一人で考えて。トクちゃんの家なんだから」
それだけいうと、ミナミはトクコの家を飛び出した。
もう限界だった。疲れていた、自分でもすごく疲れているのがわかる。
疲れがまるでとれない中、毎日毎分毎秒、疲れが覆いかぶさっていく。
ミナミはとっぷり暮れた街並を自転車で走った。わかってくれる人もいない。
それどころか、娘のヒカルは、お母さんが悪いというにきまっている。姉のトクコに相談しないミナミが悪いと。
相談できやしない。いつも仏頂面してイライラと叱ってくる人に。
それも、引っ越しや、就職問題、当面のお金のこと、落ち着かない、眠れない。疲れの取れない毎日の中、ミナミの方が誰かにいたわってもらいたいものだった。
でも、誰一人、ミナミをいたわる人はいない。
つかれてため息をついたミナミをみてヒカルは
「お疲れ様とでも、言ってほしいわけ!」
と、居丈高に言ってくることもある。
ミナミは悲しかった。本当に、一言、お疲れ様すら言ってもらえない。それがミナミの立場なのだった。そういう娘に育てたのも、ミナミの責任なら、姉のトクコと関係をもてないのもミナミの責任。
押し付けすぎだった。いつもいつも、多くのことを、ミナミに押し付けすぎだったのだ、周囲は。
ミナミに期待しているわけではない。ただ、当然のこととして奴隷のようにミナミがすべてのことに従うのが当たり前、そう言わんばかりの皆の態度に、ミナミはうんざりしていたのだった。
引っ越しっていうのは、引っ越しセンターにすべてを任せれば何十万円もいる仕事だ。
でもミナミは無給だった。
パンツ一枚、まともに買えなかった。新品の洋服を一枚買うのだってめったにないことだった。
自転車をガシガシこぎながら、夜の道をまた、誰にもお礼など言われもしないのに、ただ娘のためをおもいペダルをこぎ続ける自分がいる。
涙が出た。
何もかもが嫌になった。
給料が低くて悩む人もいる。
でも、無給でしかも、報酬を渡してもよさそうな相手からは、文句や罵倒、嫌味ばかり。これが主婦だろうか?
主婦って、なんのために誰のために生きているんだろうか?
教師という職をもつ、姉が偉くて、主婦のミナミがダメな理由ってなんだろうか?
どこにも行きたくなくて、でもどこにも行く当てもなくて。
そういう日々を、一体、どのくらい過ごせば、良いのか、わからなくて。
ミナミは、しんとした前の家に入って、一人泣いた。
わあわあ泣いた。
世界で自分はたった一人である、そんな気がしていた。
疲れと希望が見えないまま、ミナミはただ、手探りで幸せという、つかめない何かにむかってあがいていた。