忘れ物の家
ミナミは、公園のベンチに身を横たえ、朝まで眠れない時間を過ごした。
ミナミは44歳の中年女。しかも太っているし、きれいでもない。いかにもお金を持っていなさそうでもある。
だから、金品を狙われたり、男性に襲われたりする確率もゼロである。
しいていうと、警察官による職務質問だけだ、心配なのは。
それも、ウォーキングの途中です、とでもいえば済む。
ミナミは何度か居候中の姉のトクコの家に帰ろうとした。
しかしそのたびに、過呼吸の発作がでて帰れなくなった。
夜は白々しくもあけようとしている。
公園の時計をみると4時55分だ。
もうすぐ長女ヒカルが目を覚ます。次女のユウカはまだ5歳だし、いつも7時過ぎまで眠っている。
でも、2人を心配させないように、そろそろ帰らなければ。
ミナミは、自律神経訓練のために何度も自宅で行った呼吸法を試してみた。
公園のベンチであぐらを組んで座り、目を閉じた。
深く息を吐いていく。
できるだけゆっくりと。
それから、ゆっくりと息を吸った。
「一、二、三、四、五」
呼吸と呼吸を数えることだけに意識を集中した。
それから、心の中で何度も唱えた。
「私は、ゆっくりと息を吸って、ゆっくりと息を吐く」
「私は、呼吸を自分で早くすることもできれば、ゆっくりとすることもできる」
そして、頭の中で、ゆっくりと呼吸を完全にコントロールしながら笑っている自分を想像する。
どんどんと、落ち着いてくるのが分かった。
過呼吸で、はあはあいっていた息は、ゆっくりと落ち着き、心臓はもうドキドキとしていなかった。
目を開けると、ベンチを離れた。
そしてゆっくりと歩き始めた。ぎっくり腰を何度もしたことのあるオシリが痛かった。
トクコの家にそっと滑り込むように入る。
娘たちはまだ眠っていた。
トクコは、買ってから10年も使っていなかった手帳を出してきた。中古で買ったルイヴィトンの小さなマスタード色の手帳である。
たしか、千円くらいだったと思う。皮で、とても美しいロゴが小さく隅に入れられていた。
とても上品な手帳を開くと、内側は紫色になっている。紫はミナミの一番好きな色で、幸先が良かった。
無地の手帳に、今日やらなければならないことを書いてみる。
ミナミはもともとメモをとらない主義である。夫のカズキはしょっちゅうメモを書いていて、一日の中でやらなければならないことを小さなメモにまとめて、実行するたびに消していく習慣があった。
ミナミは、それを今日はじめて、自分も見習ってみよう、そう考えたのだ。
そして、落ち着いて頭を巡らせた。
「ええと、服は片付いた」
「そうだ、島に買うといった家はどうなったかしら、あの30万円をまずは用意しておこう」
手帳に
「1.家のことを母に確認」
と書いた。
それからは、家具をどうするかを考える、とか、住所変更に必要な手続きは?とか、一部屋だけ全ての家具を出して掃除する、と書きこんだ。
ふと思いついて、手帳の2枚目を開き、姉のトクコへ手紙を書いてみた。
「トクちゃん、勝手なことばっかりして、ごめんね。どうぞこれからもよろしく」
そして、銀行でもらったお金を入れる封筒から生活費を取り出して数えた。
「全部で3万円か」
ちょっと乏しいな。
でもそれは相変わらずだ。
封筒に一万円を戻し、2万円を財布に入れた。
財布はレシートでパンパンである。お金は小銭だけしかないのに。
ミナミは手帳に
「家計簿を買って、今日からつける」
と、書いた。
銀行の封筒にトクコへの手紙を入れると、表に
「トクちゃんへ 水道光熱費1万円」
と書いた。
トクコは、家賃はいらないけれども水道光熱費を払ってほしいと言ってきていたのだ。
ミナミは封筒を台所のダイニングテーブルの上に置いた。
トクコは朝の6時45分には家を出ていくのだ。
ミナミはもう一度手帳に向かい、今度は娘たちにメモを書いた。
「お母さん、ちょっと出かけてきます。ヒカルちゃんが出かける、7時10分頃にもどるので、ユウカちゃんと二人でテレビでも見ていてね、朝ごはん好きに食べて」
メモを二人が眠っている枕元におくと、ミナミは、車に飛び乗った。そして自宅に向かって急いで車を走らせた。
家はぐちゃぐちゃだった。
洋服を持って行ったのでクローゼットの上の部分だけはスッキリしているけれども、それだけに、他のものが目についた。
何もかもが、多すぎた。
買い置きのトイレットペーパーは、10以上ある。
ナイロンのボストンバックは5つ。使わなかった巨大ゴムプール。
食器だって、全然使っていない食器が9割だ。
ミナミはまず、二階の寝室にしている和室にある布団を押し入れから出した。ついでに、他の部屋や納戸にあった布団やシーツや座布団たちを、二階の和室のリビングに持って行った。
二階のリビングは、8畳あるが、布団と座布団などでいっぱいになった。
二階の六畳の和室を今日の一部屋の掃除にするつもりだった。
まず、物はすべて出た。
布団とシーツだけなので、たやすかった。後は掃除だ。
まずは網戸を外す。ついでに、二階のすべての網戸を取り外して、玄関の前のアプローチに出した。
明日あたり、雨が降りそうである。
網戸を掃除するときは、今までもそうしていたのだが、一階ならばホースの水をじゃぶじゃぶかけて洗い流した。二階ならば網戸をはずして外に出す。
そして、雨の時に洗うのだ。すると余計な水がいらないのだ。何度かスポンジに洗剤さえつければ、初期の水分はたっぷりだし、次々に水がかかってくるので、スポンジを何度もバケツに入れる手間も省けるし、洗い流す必要もない。洗った後は、晴れるまでほって置けばよいだけだ。。
網戸をアプローチにすべて並べ終えると、台所に行った。
流しに入れ居ていた買い置きの炭酸水を出す。それから、今まで使っていた歯ブラシと空のペットボトル。それにスポンジとバケツを持って二階にあがる。
炭酸水をつけると窓ガラスはキレイに掃除できるらしい。でも一度も試したことはない。ミナミは無精者だったのだ。
炭酸水をゾウキンに直接つけて拭いてみる。
窓ガラスの汚れが激しくて、ぞうきんはすぐに真っ黒になった。予備に持ってきていたゾウキンに炭酸水をつけて二度吹きした。大分、ましになった。
ミナミは一階におりて山のようなタオルを持ってきた。もらいものもあるが、バスタオルもフェイスタオルも山のようにあった。どれも、洗濯石鹸で洗っているせいか、黒ずんでいて汚かった。
ミナミはその中から、上等な国産の今治タオルを3枚とキャラもんの次女のユウカのためのタオルだけを抜き出して、他の物はすべて2階に持って行った。
そして、窓ガラスを、まずは炭酸水をつけずに汚いタオルで拭いていった。2枚のフェイスタオルを使う。そして、使ったはしからゴミ袋にいれた。
なんといってもゾウキン一歩手前のタオルたちがいっぱいあるのだから。
居候中の姉の家の棚にもタオルは山ほどあったしね。
それから、きれいなフェイスタオルに炭酸水をつけて拭いていくと、見事に窓ガラスは美しく光った。
6畳の和室は窓は2つしかないけど、充実感でいっぱいだった。
もっとやりたい気持ちもあったけど、ここで止めた。
やりすぎてしまうと、明日から、すっかり疲れ果てて作業が進まなくなる恐れがある。
次に、サンの掃除だ。ペットボトルにバケツから水をいれ、ペットボトルでサンに水を流した。そして歯ブラシでゴシゴシやる。それから、また、水を流す。それを繰り返し、最後に、水をつけたスポンジで吹き上げる。
サンはものの5分ほどでピカピカになった。
最近は、黄砂なのか花粉なのか、ざらざらとした砂の汚れで、すぐにサンは汚くなる。
まあ、ミナミは滅多にサンを掃除しなかったが、こうして掃除してみると、いとも簡単なことに驚いた。もっと日頃からこまめにやっておけばよかった。
そう考えたとき、ふとミナミは思った。
「これで本当に良かったのかな?」
家を手放して、それを売ったお金で、娘たちを育てる。
それとも、もう一度、この美しくなった家で、娘たち2人と暮らす?
週末は帰ってくる夫に、うんざりしながらも、この家の掃除をしたり、テレビをみたり、仕事に追われたりして、今までの生活の延長を続ける?
または、まったく新しい可能性を考えてみるか。
今まで、ミナミはなんの疑問も持たなかった。
結婚して、子どもを育てて、家を買い、そこをきれいに毎日掃除して、子どもの手が離れたら仕事をして家計を助けて、年老いた姑をみる。
でも、それって、本当?
本当に、それでみんな幸せ?
第一、その計画の中には、現実として目の前に見えている、実の両親の老いが入っていない。
老いたうちの両親は、一体どうする?誰が面倒をみる?
いや、そもそも、面倒をみる必要なんてあるのか?
両親が老いて誰かの世話になるのではなく、互いが助け合って最後まで楽しく過ごせる方法だって、あるのではないだろうか?
そういう第三の道、第四の道、それでダメならば第五、第六、第百、第千。




