第4話 都へ・魔術修行
かつて、ドルメア公国は大陸の北方を治める現アルスール王国、その国王が大公を兼ねる同君連合下にあり、当時のアルスルム連合王国を構成する州の一つであった。しかし、同じく連合王国の一部であり、ドルメア公国と運河を挟んで向かい合うマルトン王国が分離独立したことによって公国は地理的に分断され、また独立戦争により疲弊していたアルスルム連合王国は瓦解することとなる。以降、ドルメア公国は一つの独立国家として歩んできた。空白となった大公の座には、それまで事実上のドルメア州総督であった貴族、デルサイスト家の当主が即位し、以降代々この国はデルサイスト家によって治められている。
ロクドはこれらの知識をネルギの村にいた頃に得ていた。村から外に出たことは一度もなかったが、いずれ出なくてはならないことを知っていた。老ザハンは村の外にまで目を向け、視野を広く持つことが重要だと説き、家の裏手にある蔵の鍵をロクドに渡した。蔵の中には書物がぎっしりと詰まっており、ロクドは時間ある限りそれを読み耽った。だから、まだロクドの知識の殆どは老ザハンの語る言葉と、先人たちの綴る文字によって出来ていた。
ロクドたちの行き先、ドルメア公国の首都であるトラヴィアの都は、西側が海に面した大きな街で、なだらかな丘陵の上に位置していた。ドルメア公国の君主である大公の住む煌びやかな宮殿、そしてそのすぐ横に寄り添うように、八角錐の尖塔を有する大神殿が街の中心に築かれている。ドルメア公国の国教であり、光の神ルースを信仰するルーメス教の本拠地、メルパトス神殿だ。この神殿でまず目を惹くのは、尖塔の頂上に位置し、街のどこからでも見ることができるほど巨大な風車であろう――風車と呼ばれてはいるが、外観からしてそこらの村にあるようなそれとは別物である。規格外の大きさを誇る八枚の羽根は不思議な光沢を放つ鉱石のような素材で出来ており、その一枚一枚が優美な曲線を描いている。羽根は陽光を透かし、また反射させ、風車の中心から少しずつ傾きを変えながら伸びており、その様はまさに輝ける太陽である。この八枚の羽根が受けるのは、風ではなく何か別の大いなる力であるらしい。その証拠にこの街と神殿が出来て以来何百年もの間、風のある日もない日も、風車は一日も止まることなくゆっくりと回り続けている。メルパトス神殿は、この風車こそがルースの実在と加護のしるしであると告げ、ルーメス教の象徴であるとした。それら神殿と宮殿の二つを取り囲むように、トラヴィアの交通を担う幾本もの街道が放射線状に走っている。
書物で読んではいても、森を抜けてから半日歩いて漸くトラヴィアへと辿り着いたロクドは、初めて見る街の姿に胸を打たれた。行き交う人々でごった返す大通りの熱気、客を呼び込もうとする賑やかな声、ところ狭しと並んだ露店。その全てがロクドにとって新鮮であり、驚くべき体験であった。街の東に黒々と聳え立ち、大平原からの瘴気を阻む高い街壁はロクドの度肝を抜いたし、整然とした街並みの美しさもそうだった。統一された赤茶の屋根に、象牙色の石を組んだ壁が連なる石畳の街。似たような形、似たような大きさの家々は、真っ直ぐな通りと交差する同心円状の細い道に沿って並んでいる。窓や玄関先は思い思いの草花で華やかに飾られ、それぞれの個性を演出していた。また、トラヴィアは水路の多い街でもあった。同心円の通りに沿い、あるいは交差し、幾本もの水路が街を区切っている。水路の全ては、西の海に通じている。水路と通りの交差するところには緩やかなアーチを描く橋がかけられ、街の移動の複雑さを解消していた。
カレドアがまずロクドを連れて行ったのは、仕立屋のところだった。その格好では目立って仕方ないとカレドアは言う。確かに、体は川で洗っていたものの、森を彷徨ったロクドの服は泥に塗れ無残なものだ。ロクドは唐突に不安になった。喧騒に紛れそうな小声で金がないと伝えると、カレドアは笑った。
「わざわざ言わなくてもきみが無一文だなんてことは見れば分かる。これから居候する気でいるのに、妙なところを気にするな、きみは」
連れられて入った店は、トラヴィアに張り巡らされた細い通りの一本、奥まったところにあるこぢんまりした店だ。出迎えた店主は酷い格好のロクドと不気味な腕の痣を見てあからさまに顔を顰めたが、カレドアの金払いがいいと察すると俄然やる気を出した。
「この子に合うように、適当に見繕ってくれ。これだけあれば足りないことはないだろう」
「それは、勿論でございますよ」
無造作に重ねられたデルヘイム銀貨を数え、店主はにこにこしてみせた。カレドアは無関心に頷くと、ロクドに向き直り、
「私は少し用事がある。すぐに戻ってくるから、早く終わったらここで待っていてくれ」
と言い残して店を出て行った。店主は機嫌よさげにあれでもない、これでもないとロクドの服を選ぶ。この待遇を見ると、カレドアは相当の金を置いていったに違いない。されるがままのロクドを都風のゆったりしたブレーと立て襟の上衣に着替えさせ、膝を隠す程度の丈の上着を何種類か店の奥から引っ張りだしてきたところで、ふと店主はロクドの首飾りに気付いた。
「おや、あんた、魔術を習ってんですかい」
ロクドは問いかけの意味を捉え損ねて眉を寄せた。
「それ、心臓石でしょう」
首飾りを上衣の下に仕舞いながらロクドが首を傾げたところで、カレドアが戻ってきた。全身新品の服に包まれたロクドを上から下まで観察して、「いいんじゃないか」とざっくりした感想を述べる。
「上着は深緑と濃紺、どちらにしましょうかね、両方お似合いで」
「どちらでもいいよ。いや、濃紺かな」
「あの、ぼくのものだけでいいんですか」
袖口と裾に繊細な縫い取りのある上着を着せかけられながら、ロクドは居心地悪くもぞもぞとした。カレドアは心底興味なさそうに店の中をぐるりと見渡していた。
「ああ……。待ってくれ、これも貰おう」
思いついたように手に取ったのは、裏地のない、柔らかい羊革の薄い手袋だった。
「金を足した方がいいかな」
「いえ、十分でございますよ。お付けしましょ」
カレドアは手袋をロクドに渡しながら言った。
「その手を一応隠しておくといい。無用な注意を惹きたくなければね」
受け取った大人用の手袋はまだロクドには大きかったが、吸い付くような手触りと軽さから上等な品であることが分かった。こうして幾分か垢抜けて小綺麗になったロクドは、カレドアの家の前に立っていた。カレドアの家はその他多くのトラヴィアの家と同じ、石造りのシンプルな家屋だったが、他と違うところといえば窓や玄関先に全く飾り気がないところだった。カレドアが何も言わずに扉を開け、中に入っていくので、ロクドは慌ててそれに続いた。ひんやりとして、薄暗い。それから、古びた本の匂いと、仄かな香の匂いがした。家の外側のシンプルさとは対照的に、居間と作業室が融合したような部屋の中はひどく雑然としていた。使い込まれて飴色になった机の上ばかりでなく、埃っぽい絨毯の敷かれた床の上にまで本が積み上げられ、不安定な塔のようになっている。背凭れと肘掛の付いた長椅子の上も当然例外でなく、殆ど座れるところがない。壁に沿う大きな棚には、魔術に使うのであろう見たこともない奇妙な形の道具や乾燥させた植物、香辛料のような色とりどりの粉の瓶詰め、謎の液体に浸けられた生き物の体の一部などが並ぶ。天井から数珠状にぶら下げられた鬼灯の実が頰にぶつかり、後ずさったロクドの踵にも、また何かが当たった。とげとげと角のような結晶の張り出した、大きな鉱石の欠片だった。カレドアは外套を無造作に脱ぎ、椅子の背凭れに掛けた。
「客間が一つあるから、そこを使ってくれ。階段を上がってすぐ、右手にある部屋だよ。長いこと使っていない布団だから、きみがもし安眠したいなら日が落ちる前に虫干しをした方がいいな。生活上のルールは特にないが、廊下の突き当たりにある部屋――私の寝室だが、けして勝手に入らないこと。その隣の書斎の方は、きみもときどき入ることがあるだろう。最初は分からないこともあるだろうが、その都度聞いてくれればいい」
ロクドは神妙に頷いて、新しく自分のものになった部屋に上がっていき、湿っぽい布団に取り掛かった。
次の日の朝食のあとで、カレドアはまず立派な装丁の分厚い写本を三冊渡し、それを二日で読むよう命じた。本を抱えてよたよたと自分の部屋に持ち込んだロクドは、本の中程を開いてみて悪意さえ感じる文字の細かさに呻き声をあげそうになった。しかし、いざ読み始めてみるとその内の一冊は基礎的な内容で占められており、かつて老ザハンから学んだまじないの知識が本を読み解く助けとなった。ロクドは最初の一冊を丸一日かけて読み終えると、すぐに残りの二冊に取り組んだ。二冊目は応用を交えた実践的な内容、三冊目は一番厚く、他二冊を踏まえて魔術を発展的に考察したものだったが、ロクドは一日目よりも短い時間でなんなく読破した。ロクドには知識に対する貪欲なまでの熱意と、それを身のうちに蓄える豊かな吸収力があった。ロクドは何かを思い出そうとするとき、きまってひっそりとした小さな部屋をイメージした。壁が無数の引き出しによって埋め尽くされたその部屋はいつでも美しく整頓されており、好きなときに望む知識を取り出すことができた。この才能は、その後に続く魔術の修業において大いに役立った。
読み終えた本を返そうと話しかけると、カレドアはその内容について幾つかロクドに質問をした。ロクドの回答を聞いたカレドアは満足気に頷いて、
「それでは、今日から魔術を教えよう」
と言った。それからカレドアが教えはじめた内容は非常に平易な言葉で出来ていたが、その段になって、ロクドは何故彼があらかじめ与えた三冊を読ませたのかを理解した。単純な言葉にはその裏に隠された幾つもの意味があり、カレドアの言葉は独特の韻律と複数のルールに則った難解なメタファーに満ちていた。ロクドは頭の中に収納した三冊を時折参照しながら、確実にカレドアの教えを紐解いていった。この頃からロクドはカレドアを先生と呼びはじめたが、カレドアにそれを気にした風はなかった。
カレドアの家には時折客が訪れた。そうした客らは皆依頼人であり、カレドアは請負人であった。ロクドはカレドアがどうやって生活を繋いでいるのだろうと不思議に思っていたが、これがカレドアの仕事であるようだった。カレドアの噂を聞きつけてやってくるらしい依頼人たちはそれぞれ多種多様な悩みを抱えていて、それをカレドアに解決してもらいたがった。カレドアは彼らの話を聞くと、薬のように魔術を処方した。
「まあ、殆どは探しものと浮気調査だね」
とカレドアは言った。
「それと、家庭の悩み」
「さっきの女の人なんて、先生に向かって散々旦那さんの愚痴をこぼしただけで、何も受け取らずに帰っていったじゃないですか」
「ああいう種類の依頼人は、ただ話し相手がいないだけなんだ。自分の悩みを喋ってすっきりしてしまえば、それで解決するのさ。まあ、また来るだろうがね」
「折角ここに来るんだから、魔術でしか解決できないことを相談しにくればいいのに」
「真実深刻な問題を抱えた人は、こんなところには来ないさ」
ロクドの納得いかなげな顔を見て、カレドアは笑った。
「いずれわかる」
そのうちに、カレドアはロクドに自分の仕事を手伝わせるようになった。初めの方はマルバアサガオの種を煎じたりテッポウユリの根を刻むこと、砕いた鉱石を布袋の裏地に縫い込んだりすることを任された。これはネルギの村で学んだまじないに通じるところがあったが、ロクドが知るそれよりもずっと繊細なものだった。あるときカレドアは、乾燥させた月桂樹の葉と孔雀豆とを中綿と一緒に詰めた布製のお守りを見せ、これと全く同じものを十作るように指示した。ロクドは一日中作業台に向かい、夜までに言われただけのお守りを縫い上げたが、一日の終わりにその一つをあらためたカレドアはその日作った全てのお守りの縫い直しを命じた。
「どこが違うんですか」
ロクドはカレドアが作ったものと自分の作ったものを見比べた。全く違いが分からなかった。カレドアはお守りの端を指差した。
「終わりを縫い閉じるときに、糸を変えただろう。このお守りは病の回復を早めるためのものだが、外周を縫うときには一本の糸で仕上げなくては効果が逆転する。それに、縫い始めるときに返し縫いをしたな」
「その方がほつれ難いと思って」
「全く同じものを作るように言ったはずだ。これでは使い物にならない」
そのようなことを繰り返しながら、ロクドはどんどんこつを掴み、次第に手順の多い複雑な仕事も任されるようになった。作業の中には魔術の本質に迫るための多くの手掛かりが隠されていることに、ロクドは気付いていた。
カレドアは、魔術において重要なのはものの特質を見極めることであると言った。ものをものたらしめる力の流れを読みとくこと。魔術はその流れを意図して変える術だ。だが、それに逆らったり無理矢理堰き止めようとすることには大きな負担が伴う。力ずくで捻じ曲げるのではなく、利用するのだとカレドアは教えた。カレドアはこうも言った。
「忍耐強くなくてはならない。だが、同時に柔軟でなければならない。情緒を常に穏やかに保つこと」
瑞々しい葉をつけた若木のように、ロクドは知識と経験の水を吸い上げ、伸びやかに育っていった。カレドアは自分の所有する書物を自由に読むことを許したので、ロクドは魔術を学びながら地道に自分の呪いを解く糸口を探した。そのうちに、市場が秋の特産品である瑞々しい林檎の芳香に満ちて、街路樹が落とした葉が水路を真っ赤に染めた。さらさらした雪が石畳を覆い、街の子どもたちが歓声を上げながら足跡を付け、やがて春の風がそれをゆっくりと溶かした。幾つもの季節がロクドの周りを通り過ぎていく間に、ロクドは成長し、より思慮深くなっていった。背が伸びて、身体つきは少年から青年へと近づいた。大きかった手袋はぴったりになり、手によく馴染んだ。夜一人で眠るとき、父や母のことを思い出すと変わらず胸は痛んだが、もうけして涙が滲むことはなかった。ロクドは感情を抑えることを学んだ。ネルギの地から離れたせいか、呪いは腕のそれ以上の侵食を止め、穏やかに息を潜めていた。
カレドアの態度はその間変わらなかったが、時折彼は家から姿を消すことがあった。明け方、夕食のあと、夜遅くになってから。その時間には規則性が全く無いように思えた。ロクドが食料の買い出しから帰ってくるとカレドアは家のどこにもいなくなっていて、次の日の朝には何事も無かったように部屋から起き出してくる、ということもあった。初めのうちこそ気に掛けていたが、次第にロクドはそれに慣れていった。
トラヴィアには、カレドアの他にも多くの魔術師が住んでいた。街を歩く魔術師は、きまって大きな宝石を目立つところに一つ身に付けていることにロクドはすぐに気が付いた。考えてみれば、カレドアの黒曜石の指輪もそれであった。
魔術師ガーダルに師事する気のいい女魔術師、右の耳に柘榴石の耳飾りをつけたサリマトとは、市場で新鮮なニンジンを選んでいるときに知り合った。
「これは心臓石さ」
とサリマトは朗らかに言った。健康的に日焼けした肌が夏の陽射しにつやつやと輝く。
「この国で一人前の魔術師ならみんな持ってるよ。大事なものなんだ、多分、魔術師にとっては命の次にね」
「何のために? そんなものがなくても、魔術は使えるじゃないか」
「使えるは使えるけどね」
心臓石の話はロクドの好奇心を十二分に刺激したが、サリマトはいずれ師が話すだろうと言ってそれ以上教えてくれなかった。
「ま、じきにおまえも持つことになるんだから、そう焦りなさんな」
笑いながら言ったのはサリマトの弟弟子のラバロ、弟弟子とは言ってもサリマトとは同い年だ。ロクドより一回り歳上で、こちらはいつも電気石の腕環を嵌めていた。
「それより、聞いたかい、ガレの村に妙な病が流行って、酷い有り様だっていう話」
「またか? 去年の春にアルメナの井戸水が全部毒水になったって話を聞いたばかりだぜ」
「何かよくないものが蔓延ってるって感じはするね。ここ数年はどうもおかしい、〈大平原〉からの瘴気が流れてきてるのかね」
「ぞっとしない話だな」
二人は別の話を始めたが、ロクドは会話には混ざらなかった。除け者にされたようで業腹だったというのもあるが、初めてこの街に来たときに仕立屋が言った言葉を思い出して、漸く謎が解けたと納得していた。
サリマトとラバロの師であるところの魔術師ガーダルは、背筋のしゃんとした老魔術師だ。この会話から何ヶ月か経ったある日、ロクドはサリマトに誘われて、ガーダルとその弟子たちの住居に連れていってもらったのだ。周囲の家々に準じた象牙色の石造りのその家は、やや大きめに作られており、窓は満開のゼラニウムやアリッサムで華やかに飾られていた。家の中も、いつでも薄暗く埃っぽい印象のあるカレドアの家とは対照的に開放的な作りで、凹凸硝子の天窓が陽射しを柔らかく拡散している。
「大きな作業室が一つと、住み込みの魔術師のための部屋が四つ」
サリマトが見せて回りながら説明してくれた。矢羽根貼りされたクルミ材の床がぎしぎしと鳴る。作業室とやらを覗き込むと、他に三人の若い魔術師が何やら熱心に書き付けたり植物を刻んだりしていた。ラバロもそこに混じって、凄まじいペースで書物をめくっているようだった。
「おれのところとは全然雰囲気が違うんだな」
ロクドは躊躇いがちに言った。
「なんというか、明るい」
「ロクドはカレドアさんところの弟子だっけ。あたし、よく知らないんだけど、彼どんな人?」
「いい人だよ。丁寧に教えてくれるし……」
そこまで喋って、ロクドはふと考え込んでしまった。カレドアと出会ってもう三年が経っていたが、ロクドはカレドアという人間について殆ど知らないことに気付いた。片付けが苦手なこと。セージとカミツレを乾燥させて煮出した茶を好むこと。朝から雨が降っている日はなかなか起き出してこないこと。考えるときに頰を引っ掻く癖があること。そういった日常の中であらわれる細々としたことは知っていたが、それは何一つカレドア自身の本質に迫るようなことではなかった。彼はどんな人間なのだろう?
「ふうん」
黙り込んだロクドだったが、質問した当のサリマトはそれ以上興味がないようで、特には追求しなかった。
「ああ、あとは待合室と診察室もあるよ」
「診察室?」
「うち、病人が多く来るからさ。師匠の魔術は病を治すことに寄ってるんだ。そういう意味では、ここの魔術はまじないと言ったほうが近いかも……とはいえ、まじないほど胡散臭くも粗っぽくもないけどね。きちんと系統立って、立派な理論に裏打ちされた治癒魔術だよ。カレドアさんのところにも病を治してくれっていう客がときどき来るだろう? そういうのは大体、うちから流れてくる患者なのさ。勿論ここの治癒魔術は一流なんだけど、その、あたしの師匠はちょっと人を選ぶから……」
「こんな時間に遊んでおるとは、随分暇をしているようじゃな、サリマト」
サリマトが顔を引きつらせた。恐ろしげな顔をした老魔術師、ガーダルが立っていた。太い樫の杖を突いた今は小柄な老人だったが、かつては堂々たる体躯をしていたことを思わせる雰囲気があった。古い大木の木肌のような顔に二つ付いた小さな目、そこには若々しい知性のきらめきと油断のない鋭さがある。皺だらけだが骨太の右中指に、大きな翠玉の指輪を嵌めていた。ガーダルはぎろりとロクドを睨めつけた。手袋に覆われている筈の左手を射抜かれたような気がして、ロクドは無意識に手を後ろに回す。
「おまえは?」
「この子はあたしの友人で――」
「ロクドと言います」
ロクドはなるべく素直で真摯な印象を持ってもらえるようはきはきと喋った。
「カレドア師の元で魔術を学んでいるものです。他の魔術師がどんな仕事をしているのか気になって、サリマトに頼んで無理に上げてもらったんです。勝手に、すみません」
「カレドアの弟子か」
ガーダルが鼻を鳴らした。
「噂だけは聞いておったが、半年に一回の会合にも出席せんあやつが弟子を持つとはな。どういう風の吹きまわしか。ふん、あやつの気取った秘密主義は気に食わんが、わしは自分の仕事場を見られたところで一向に構わん。仕事の邪魔をしない限り、出て行けとは言うまい。勝手に見ていけ」
最後に、ロクドを上から下まで値踏みするようにじろじろと見つめると、ガーダルは立ち去った。サリマトがじっと詰めていたらしい息を吐き出す。
「助かったよ」
「おれは本当のことを言っただけだよ」
ロクドの言葉にサリマトはにっこりしてみせると、近くにもうガーダルがいないことを確認してから、
「師匠、あの元気で、今年もう百二十歳なんだ」
と耳打ちした。ロクドは目を丸くした。
「なんか魔術でも使ってると思うでしょ」
「そうじゃないの?」
「それが、使ってないみたいなんだ。人は生まれるときを選ぶことができないように、死ぬときも選ぶべきじゃないんだとか言って。とんでもないじいさんだよ」
サリマトが心底恐ろしげにそう言うので、ロクドは思わず声を上げて笑ってしまった。
とはいえ、サリマトがガーダルを師として心から信頼し、尊敬していることは彼女の仕事振りを見ていればわかった。ロクドが見ている間、サリマトは二人の病人を診た。一人は背中に広がって痛みを伴うできもの、一人は眩暈と耳の聞こえにくさを訴えていたが、サリマトはその両方に真摯に対応した。少しでも気になることがあれば叱責を恐れずに報告し、素直に師匠の意見を仰いだ。二人は師弟の固い絆で結ばれているように見えたし、その他の弟子についてもそれは同じことだった。
ロクドが帰る頃になって、突然一人の男が運ばれてきた。自分で駆け込んできたのではなく、数人の街の人間に運ばれてきたのだ。重傷に違いなかったが、見たところ目立った傷はなく、何か大怪我をしてここにきたというわけではないようだった。
「ガレの村の者のようだ」
運んできた若者の一人が説明した。
「ガレ?」
サリマトが眉を顰め、ガーダルが厳しい顔をした。黙って横たわっていた男が唐突に獣のような唸り声をあげ、ひきつけを起こしはじめた。それがあまりに激しいので男は寝台から落ちそうになり、周りにいたラバロと他の弟子たちが慌てて押さえつける。見ると、男の目を囲うように、さっきまでは確かに無かったどす黒い斑点が浮かびあがっていた。ロクドははっとした。
「ガレの者は奇病の蔓延で死に絶えたと」
「彼が最後の生き残りで、助けを求めてここまで来たようなんです。われわれが最初に見たときには一応まだ喋って歩いてはいたんですが、突然倒れて、もがき始めて」
それを聞いて、ガーダルはますます恐ろしい形相になった。ガーダルは運んできた若者たちに部屋を出て行くよう指示し、手の空いていたサリマトには鎮静作用のある香を焚くよう命じた。それから、成す術もなく呆然と突っ立っているロクドをひと睨みして、足早に隣の部屋に歩いていった。さっきよりは落ち着いたらしい男が、しかしまた苦痛の呻きをあげて身を捩った。硬く閉じた瞼の隙間から、血の涙が流れている。顔の斑点はどんどん広がっていた。ロクドは心臓をぎゅっと圧迫されたような感触を覚えて、息を詰まらせた。
「この人……助かる?」
ロクドは香を用意し終えたサリマトに小声で尋ねた。日焼けした肌でも分かるほどに蒼ざめていたサリマトは答えずに、ただ唇を噛んで、ガーダルの歩いていった部屋に入っていく。入れ違いに、年季の入った魔術書を片手に掴んだガーダルが出てきた。
「ガーダルさん、その、彼は」
ガーダルは険しい顔で、黙って首を振った。
「見ていたくないなら、出ておれ」
同じように部屋から現れたサリマトが、残りの道具を持って此方に歩いてくる。この頃にはひきつけは止んでいたので、男の体を押さえつけていた弟子たちは寝台から離れた。サリマトは部屋の四隅に魔を払う漆の蝋燭を置き、魔術で小さな火を灯した。寝台の周りに紫水晶を砕いて粉末にしたものを少しずつ撒きながら、一周する。次に、ルースの祝福を受けた塩を使って同じようにもう一周。それから、サリマトは瓶につめた植物の汁に人差し指を浸すと、紫水晶と塩の線を踏まないようにして寝台に近づき、男の額に印を描いた。額の上で印はすぐに乾いて、見えなくなる。遠目にも、男の呼吸が微かに和らいだのが分かった。最後に、そっと男の手を取り上げ、瑪瑙の欠片を握らせた。男は上手く握れない様子だったので、サリマトは自分の手ごと握らせることにしたようだった。準備が整うと、ガーダルは静かに魔術書を開き、厳かに長い呪文を唱えはじめた。男を永遠に苦痛から解き放つための呪文だった。低くしゃがれたその声には控えめな抑揚がつき、言葉の波紋は薄いベールのように幾重にも重なって、苦しむ男をそっと包んでいった。その間、サリマトは黙って男の手を握っていた。全ては淡々と執り行われた。絶え間ない呻き声が止んだのは、ガーダルが呪文を唱え始めてから一時間余りが経ったあとだった。男の死体は引き取り手がいないので、神殿に引き取られていった。郊外の、身寄りのない者たちのための墓におさめられるのだろう。
ロクドがガーダルの家を出る頃には、もう随分と日が傾いていた。
「あんなことがあったあとだけど、ラバロもいるし、一緒に夕飯を食べていけばいいじゃないか」
とありがたい誘いを受けたが、それは謹んで辞退した。カレドアが何も食べずに待っているだろう。特に取り決めをしたわけではないが、この三年間夕食はロクドの分担になっていた。
路地を抜け、橋を渡り、緩やかな坂を下ってロクドは黄昏に染まった街を足早に歩く。西陽が地平線ぎりぎりに引っかかって、神殿の尖塔とゆっくりと回る風車、家々の屋根とを橙に縁取っていた。先ほどまで明るかった夕暮れの空が、ベールを下ろすように滑らかに濃紺に変わっていく。街行く人の足取りも、迫り来る夜に追い立てられて、家族の待つ暖かい家に帰ろうとするそれだった。ロクドの頭の中には、死んだ男のことが渦巻いていた。壊滅した故郷から命からがら逃げ出してきたという男。目の周りに浮かび上がったまだら模様の黒々とした不吉さに、否が応でも思い起こすものがあった。手袋の中の左手をぎゅっと握りしめる。あれは自分のこの呪いと同じものだと、ロクドは確信していた。ロクドはかつて老ザハンに見せられた〈瘴気の大平原〉の絵を思い出した。ガレの村は、同じように呪いと瘴気の病に侵されてしまったのだろう。ロクドは唇を噛み締めた。もしかしたらあれは父であり、母であったかもしれなかったのだ。自分がこの呪いを背負わなければ。ロクドは気を落ち着かせようと、努めて深い呼吸をした。早く帰ろう。帰って、このばらばらになりそうな気持ちをどこかに追いやってしまいたかった。ロクドは近道をするために、もう一本狭い路地に入った。この通りには、表に面している家々よりも少し小さい家が密集している。一見他の家と同じ作りのようだが、装飾のない窓や玄関は殺風景で、象牙色の壁は薄汚れて黒ずんでいた。人気がなく、道の脇にはごみが落ちている。治安がよくないのだ。トラヴィアは大きさの割によく管理された街ではあるが、大通りから何本か入るとこういった通りにぶつかることがままあった。もしロクドが女性であったなら、この時間にこの道を歩くことは躊躇われただろう。似たような家のうちの一軒の前を早足で通り過ぎようとして、ロクドはふと足を止めた。
窓から少女が顔を覗かせていた。この暗く狭い路地に似つかわしくない、亜麻色の髪と抜けるように白い肌の少女だ。格別に美しい顔をしているわけではなかったが、どこか目が離せない輝くものがあった。少女がこちらに顔を向ける。視線が交錯した瞬間、ロクドは心臓が震えるような感覚を覚えた。もう長いこと大人しくしていたはずの左腕の呪いが皮膚の下でびくりと泡立ち、怯えたように揺らいだ気配がして、ロクドは目を瞠る。少女が軽い驚きの色を浮かべて、何か言いかけようとした。そのとき家の中から男が何事か呼びかける声がして、体を強張らせた少女は躊躇いながら窓から離れていった。少女が姿を消してからも、ロクドは少しの間そこに立ち竦んでいた。