第10話 忍び寄る影
その日は、いくら待ってもいつもの場所にサリマトは姿を現さなかった。
別に勝手に昼食を摂っていてもよかったのだが、なんとなくそんな気分でもなくて、ロクドは空きっ腹を抱えたままサリマトを待った。サリマトは、簡単に約束を反故にするような女ではない。どうしたのだろうかと幾ばくかの不安を覚えながら、俯いて爪先で石畳を擦っていると、ロクドの視線の先に草臥れた革の半長靴が飛び込んできた。視線を上げると、サリマトの弟弟子のラバロだ。急いでここまで来たらしく、ほんのり息を弾ませている。
「悪いな、サリマトと約束してただろ? お前、待ちぼうけ食らってるだろうと思って」
「別に約束ってほどのものでもないけど」
ロクドは戸惑いながら答えた。
「サリマトは、どうかしたの? もしかして、病気とか」
ラバロはその問いに答えるまでに、僅か逡巡したように見えた。
「病気じゃあない。ただ、なんというか今朝――あいつにとってひどく辛い知らせがあって」
「元気じゃない?」
ラバロが頷く。
「お前との待ち合わせに来られなかったことからも分かるだろ。それくらいに」
「何があったか、おれが聞いてもいいのかな」
ラバロが唇をぐっと引き結んだ。サリマトと同じ、いつも飄々として陽気な気性を持った彼がそんな顔をするのはとても珍しいことだった。ひどく苦い粉薬を無理矢理に飲み込もうとするような表情をする。重々しく息を吐き出して、ラバロがつらそうに言った。
「シーラ村が――シーラ村の民が」
「サリマトの故郷が?」
「全滅した」
ガーダルの家に着くと、サリマトは彼女の自室でぼんやりとしていた。涙を流してこそいなかったが、サリマトからは平素の彼女が髪の毛の一本一本、爪の隅々まで満たしている生命力といったものが、おおよそ感じられなかった。彼女の座る寝台の上に、封蝋を丁寧に剥がされた手紙が丸まっていた。読むときに手に力が篭ったのか、端の方にきつく皺が寄っている。部屋の中には、午後の日差しが帯のように射し込んで、ちらちらと浮遊する埃を黄金色に浮かび上がらせていた。サリマトはラバロの背後にロクドの姿を認めると、「ああ」と言った。のろのろと謝罪する。
「今日は、そうか、土の日か。ごめん」
「いいよ、そんなこと」
ロクドがそう答えると、サリマトは爪先に目を落とした。ロクドは何か声を掛けようとして、結局何の言葉も発することができなかった。こんなことばかりだと思う。この前も、ヨグナのときも。ロクドは嫌になるほど未熟だったし、無力だった。ただ一人前の魔術師の証である心臓石ばかりが、胸元で輝いている。
サリマトはけしてこの間のようには微笑まなかったが、その口調は淡々としていた。
「あたしは何のために治癒魔術を身に付けたんだと思う?」
それは質問の形をとってはいたが、その実彼女が答えを求めていないことは明白だった。もとより、その問いに答えなどあるはずもない。ラバロが敢えて平坦に言った。
「お前にはどうすることもできなかったことだ。お前自身、分かってることなんだろ」
サリマトはそれを聞いて、
「そうかも」
と言った。
「でも、そうじゃなかったかも。そういう思いが、どうしても拭い去れないんだ。村のみんなはもう死んでしまったから、私がその答えを得ることは二度とできない」
ロクドはつめたい氷の針で胸を刺し貫かれたような気がした。ロクドは呪いを解かない限り――その方法が実際に存在するかどうかは別として――二度と村に帰ることはできないが、けして父や母が死んでしまったわけではない。少なくとも自分の故郷は禍を免れているだろうということ、それだけは分かっている。姿を見ることは叶わずとも、それはロクドの救いであり慰めであった。しかし、サリマトにとって故郷を失ってしまったことは、もう取り返しのつかないことなのだ。
ロクドと共にサリマトの部屋を出てから、ラバロは、呟いた。
「早すぎる」
ロクドはラバロの顔を見る。ラバロは苦々しげな顔をして、考え込んでいるようだった。
「まだ半年も経たないのに。普通、病がこのような広がり方をするだろうか? ガレにしろ、アルメナにしろ、何かがおかしい。そうは思わないか……。いや」
ラバロが自分の頰に爪を立て、溜息を吐いた。
「お前にそんなことを言ったってどうしようもないよな。気にしないでくれ」
ラバロと別れたロクドがカレドアの家に帰ってくると、意外な客人が長椅子の中央を陣取っていた。脇に立てかけられた太い樫の杖。
「ロクド、ガーダル殿がお帰りだ」
「それがたった今来たばかりの客人に対する態度か」
「呼んでいない」
カレドアがガーダルの来訪を歓迎していないのは明らかだった。首を傾け、揃えた指先でこれ見よがしに出口を示してみせる。
「客がいつも呼ばれて来るものだと思うのか?」
一向に気にした様子のないガーダルが、懐からパイプと何やら包みを取り出した。薄い石蝋紙に包まれていたのは、何枚かの上等な水晶煙草の葉だ。年配の魔術師が街角で吸っているのを時々見かけるが、ガーダルが取り出した葉はロクドの知るそれよりも格段に透明度が高く、高価なものであることが窺えた。ガーダルの節くれだった指がその一枚を摘み上げ、ぱりぱりと砕いてパイプに詰める。魔法で火をつけたそれを、ガーダルはうまそうに吸い込み、長々と吐き出した。靄のような薄紫の煙は、ロクドの見ている前で美しい一匹の魚に変わり、長い尾鰭をひらつかせた。魚はすいすいと鼻先を泳いで通りすぎ、ロクドは思わず咳き込んでしまう。カレドアは、次いで彼の襟元に纏わりついた煙の魚を嫌そうに手で払った。ガーダルがにんまりと笑い、開いた包みをカレドアに差し出す。
「おぬしも吸え」
「水晶煙草は好かない」
ガーダルが手を引っ込めないので、カレドアは溜息を吐いて立ち上がり、棚の引き出しから古びたパイプを取り出した。透き通って青みがかった葉の一枚を選んでパイプに詰め、顔を顰めながら同じように煙を吸い込む。カレドアが吐き出した煙は淡い水色で、これは優雅な蝶の姿に変わった。暫くその蝶が羽搏くのを追いかけていたガーダルの目が、カレドアを向いて細められる。
「何故会合に出ない」
「私など居ても変わらん」
カレドアはにべもなく言った。
「他の魔術師は何と言っている?特別取り柄もない、役にも立たない私のような魔術師の話など出てやしないだろう」
「ふん、わしは騙されんぞ。何故そうまでして昼行灯を装う」
「ガーダル」
呆れたように片眉を上げて、溜息でも吐きたげにカレドアは首を振った。
「君は私を買いかぶりすぎだ。君ほどの名の知れた大魔術師殿にそこまで評価していただけるのは光栄なことだが――」
「カレドア、ふざけておる場合じゃあない」
煙の蝶がきらきらとした鱗粉を撒き散らしながら、カレドア自身の肩に止まった。
「ここ十年ほどに頻発する奇病、土地の荒廃。全身に痣ができる、身体が石になっていく、川が毒に変わり、指が腐り、髪や歯が抜け落ちる……」
「恐ろしい話だな」
「トラヴィアに結界を貼り直そうということになっておる」
「そしてこの街だけ守ろうと?」
パイプから煙を吸い込み、蝶をもう一匹生み出したカレドアが皮肉げに口元を歪めた。伸ばした人差し指をぐるりと動かしてみせる。
「第一、瘴気を阻もうというならご立派な壁がもうあるじゃないか」
「あれでは不十分だ」
ガーダルが厳しく言った。煙の魚が膨らんで、生まれたばかりの蝶を飲み込む。
「原因は〈瘴気の大平原〉ではない、分かっておるだろうに」
「では何だと?」
目を眇めて薄く笑い、カレドアが挑戦的に問い掛けた。ロクドも思わずガーダルに注目する。ガーダルはカレドアを睨んで一瞬口を噤み、それから重々しく述べた。
「外から来たものではない、とわしは思う。病はうつらない。わしのところにも何人か患者が運ばれてきたにもかかわらず……この街ではまったく新しい患者は出なかったのだ。あまりにも妙だと思わんか? 町や村を一年も経たずに滅ぼすような病であれば、相当感染力が強いと考えるのが妥当ではないか? カレドア、わしにはこれが流行り病だとは思えんのだ。しかし、実際には町や村の単位で、次々に侵されておる――冬の間土の中で眠っていた種が、春になって芽を出しはじめたように」
その例えを聞いて、ロクドは目を見開いた。反対に腕組みをして目を瞑り、背凭れに寄りかかったカレドアを見て、ガーダルは僅か身を乗り出した。
「わしらに加われ、カレドア。これは簡単に解決できる問題じゃない」
カレドアは苦々しげに顔を横向け、人差し指と中指とで眉間を抑えた。
「悪いが……ガーダル、私はこの一件に関わる気がない」
「おぬしとてこの街に住む以上無関係とは言わせんぞ」
「私には関係ない」
カレドアは頑なだった。声を荒げもせず、冷淡な否定ばかりを紡ぐ。ガーダルがパイプを卓上に叩きつけた。火の付いたままの水晶煙草の欠片が飛び散り、マホガニーのテーブルに点々と焦げ跡を作る。ガーダルの小さな目が吊りあがり、ごつごつした岩石に出来たひび割れのような口は裂け、鬼の形相になった。低い声で唸るように言う。
「サリマト――わしの弟子の故郷が一つ消えた。最初に病があらわれてから半年も経たないうちに、だ。今にここも同じになるぞ。二つ目の〈大平原〉だ」
カレドアは微動だにせず、黙っていた。背の低いテーブルを挟んで、痺れるような緊張感が走る。カレドアのパイプから立ち上る細く薄青い煙だけが、睨み合う二人の間で揺らめいていた。ロクドは暫く逡巡したのち、声を発した。
「あの」
ガーダルとカレドアの二つの視線に同時に射抜かれ、ロクドはたじろぐ。
「おれの、この手を見てくれませんか」
意を決して、手袋を外した。ガーダルに歩み寄ってよく見えるようにする。ロクドのどす黒くひび割れた左腕を目の当たりにして、ガーダルが目を瞠った。
「これは」
「ネルギの村の呪いです。長老は、村に留まれば必ず災厄を齎すと。シーラやガレを滅ぼしたのは、これと同じものだとおれは思うんです」
「ネルギの長老といえば……ザハンか」
ロクドが不思議そうな顔をしたのを察して、
「昔にちょっとな」
とガーダルは右手をひらひらと左右に振った。その手を伸ばし、断りもなくロクドの痣に触れる。暫く皮膚の性状や関節の可動範囲、痣の広がりを観察し、矯めつ眇めつしたあと、ガーダルはロクドの左手を解放した。
「確かに、これは村や町を滅ぼしているものの一部だと思う。ネルギから病が出たという話も未だ聞かぬ。カレドア、何故黙っておった」
ロクドはカレドアが何か答える前に、口を挟んだ。
「おれは、この呪いを解きたい。方法を探しているんです。ガーダルさんは治癒魔術の専門家ですから――何か手掛かりだけでも」
ガーダルが顔を歪ませ、難しい表情になった。
「その呪いはおぬしと離れがたく結びついて、一つになっておる。そう簡単に引き剥がすことはできまいて」
なんとなく予想していた答えだったが、それでもやはり落胆は隠し切れなかった。ロクドの表情に失望を見てとって、ガーダルは諭すように付け加えた。
「しかし、解けぬ呪いなど存在しない……そのためには、呪いの根源を知らなくてはならぬ。呪いには理由がある。呪いの始まりとなった何か、その鍵を手にすることができればおぬしのそれを解く糸口も見つかるじゃろうな」
「理由……」
考え込むロクドから視線を外し、ガーダルは樫の杖を引き寄せた。テーブルに手を付いて立ち上がろうとして、カレドアをきつく睨みつける。
「今日のところはここで帰る。いいか、次の会合には必ず参加しろ」
ガーダルは指でテーブルをひと撫でし、見送ろうとするロクドも待たずに玄関から出て行った。テーブルの上のさっきの焦げ跡は、そのときには綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
ガーダルが帰ったあとも、カレドアは腕組みをしたまま貝のように口を閉ざし、身動き一つせず肘掛椅子に座っていた。ロクドはかつて父親が機嫌を損ねたときに、同じようにいつまでも腕組みをして黙りこくっていたことを思い出した。今度はロクドが長椅子に腰掛けて、カレドアに話しかけることにした。
「どうして手伝わないんですか」
「私が手伝ったところで――」
「先生が役に立たないだなんて」
ロクドは仏頂面のカレドアに向かってかぶりを振る。
「おれはそうは思いません。何か理由があるんじゃないんですか?」
「言っただろう、私はそもそも関わりたくないんだ」
「でも……」
そこで、カレドアは肘掛を掴み、やおら立ち上がった。未だ座ったままで、唐突なカレドアの挙動に戸惑っているロクドを見下ろす。そのまま黙って何も言わないので、ロクドはおずおずと尋ねた。
「ど、どうしたんですか」
「ロクド、夜は空いているな」
「夜?」
「外で酒でも飲もう。あと四……いや、三時間で今日の仕事を片付けるように。この後依頼人が来ても追い返せ」
そう言い残すと、カレドアは自分の仕事を片付けるべく、足早に書斎へと歩いていった。後には呆気に取られたロクドが残された。
薄手の外套の裾をはためかせ、カレドアは通りを歩いていく。ロクドはその後を半歩遅れてついていった。この四年間、酒を飲みに行くことはおろか、カレドアと二人で外出したこと自体殆どなかった。カレドアは何も説明しようとしない。一軒の店の前でカレドアが突然立ち止まったので、ロクドは彼の肩にぶつかりそうになった。小さな酒場だ。「いとしの白猫亭」と書かれた看板は、風雨に曝されて色褪せ、やや傾きかけている。
「……白猫亭?」
「どう見ても白猫って感じのみてくれの主人じゃあないが。彼、昔猫を飼っていてね。綺麗な白い猫で、溺愛していた」
カレドアはロクドを一瞬振り返り、外套を脱ぐと、軋む扉を押し開けた。白猫亭の中は、むっとする熱気と酒の臭いに満ちていた。まだ早い時間だが、幾つかのグループが麦酒を飲み交わしている。カウンターの向こうで新しい麦酒を注いでいた大柄な男が、カレドアを見るや否や、こちらに歩いてきた。骨太でがっしりとした、如何にも腕っ節が強そうな体格をしている。腕には濃い毛がもじゃもじゃと生えていた。
「カレドア! 久し振りだな」
「どうも」
カレドアが愛想笑いをして、短く答えた。
「元気そうだ」
「おかげさんで。今日の酒はいいのが入ったんだ、安くしとくからたっぷり飲んでいってくれよ。そっちは?」
「私の弟子の、ロクド」
ロクドは慌てて軽く頭を下げた。
「弟子? あんたが弟子を持つとは。一人で仕事をする主義だと思ってたが」
「ガーダルにも言われたよ」
主人は豪快に笑った。
「まあ、座ってくれ。どこでも好きなところに」
奥まった席を選んで腰掛けると、カレドアは物問いたげな顔をしたロクドに小声で説明した。
「前に彼の抱えてた問題を解決したことがある」
「どんな問題を?」
「とってもかわいい……ちっちゃくてふわふわないとしのミーヤ……ああ、かわいそうに……」
「先生?」
突然芝居がかった口調でそう言い出したカレドアに、ロクドはぎょっとした。カレドアは溜息を吐いて頬杖を突いた。
「飼ってた猫が死んで、ひどい鬱になったんだ。治すまで半年かかった」
「魔術関係ないじゃないですか」
「精神安定のためのまじないを少しね。ガゼラの実とノロジカの角の。厄介だった」
万感の思いを込めて、うんざりしたようにそう吐き出したカレドアに、ロクドは少し同情した。
「でも、それってどちらかといえばガーダルさんの領域じゃ? 心の病でしょう」
「その、ガーダルから紹介状が来たんだ」
顔を歪めたカレドアがそう言ったところで、給仕が注文を取りにきた。カレドアは麦酒を二杯と羊肉の煮込みを注文した。
「麦酒でよかったかい?」
ロクドは頷いた。本当は麦酒はあまり好きではなかった。ラバロやサリマトに連れられて飲んだことがあるが、あの独特の苦味と香りが苦手だ。とはいえ、飲めないと言うほどではない。カウンターを眺めて麦酒を待つカレドアの横顔を見ながら、ふと浮かび上がった疑問をぶつけた。
「そういえば、結局先生っていくつなんですか」
「ん?」
「ガーダルさんに向かって君って」
ガーダルは百二十歳と聞いたが、カレドアはどう見ても三十前後に見える。しかし、普通これほど歳上の人間に君、などと呼びかけるだろうか? それに、カレドアの口調や雰囲気からは、見た目よりもかなり老成したものが感じられる。ロクドは不意に浮上したある思いつきを口にした。
「もしかして、魔術で若さを保っているだけで、実は先生とガーダルさんは同じくらいの歳だったりして」
カレドアはそれを聞いて目を丸くした。口に手を遣って少し堪えるような素振りがあり、すぐに声を上げて笑い出す。
「私とガーダルが?」
可笑しそうに身体を折り曲げ、肩を揺らす。まだ酒は運ばれてきてさえいないのに、もう酔っているかのようだった。笑いの発作の合間から、カレドアは苦しげに言った。
「全然違う。とても離れているよ、彼と私の年齢は。私とガーダルがね……はあ、可笑しい。まあ、この街で一人で仕事をする魔術師は皆対等だから。そんなことを気にする人はいないよ」
どことなく納得いかない気持ちを抱えながらロクドが頷いたところで、麦酒と煮込みとが運ばれてきた。ジョッキを軽く打ち合わせて、酒を呷る。羊肉の煮込みは絶品だった。一緒に煮込まれたコーレの実のお蔭か嫌な臭みもなく、口に入れたとたんにほろほろと崩れるほどに柔らかい。まったりとした風味は、麦酒と良く合っていた。ロクドが苦手としていた苦味が、寧ろよい方向に働いている。ロクドは思わずにっこりした。
「ここの名物なんだ」
肉の一切れを摘み上げながら、カレドアが説明する。
「その他のことはともかく、酒と食べ物に関してはここの主人は信用できる」
カレドアは顔に似合わぬ景気のよい飲みっぷりで、ぐいぐいと麦酒を傾ける。早くもカレドアのジョッキが空になりそうなのを見て、ロクドは慌てて自分の麦酒を空けるべくペースを上げた。カレドアが給仕を呼び、注文を追加する。塩漬けにした豚の肋を焼いたもの、パン、豆のスープ、蒸かしたジャガイモ。カレドアがリエール酒を頼むのを見て、ロクドは横から口を挟み、蜂蜜酒を注文した。リエール酒は、蒸留酒にコエンドロの実やメリッサ、茴香などの香りの良い薬草の類を漬け込んだものだ。甘苦く舌にぴりりと来るかなり強い酒で、トラヴィアの酒場では麦酒や蜂蜜酒に次いで人気がある。ロクドは新しく運ばれてきたジャガイモを頬張りながら、カレドアに尋ねた。
「どうして、急に飲みに行こうだなんて」
「別に、理由なんてないさ。きみももう一人前だからな。師弟で飲み交わすのもいいかと思って」
ロクドは顔を顰めた。的を射た説明とは言えない。
「おい、顔に出ているぞ。たった今一人前だと言ってやったのに、それでも魔術師かい」
「先生、今日はなんだか変ですよ」
あまり酒に強くないロクドは、既に酔い始めている。とろりとした琥珀色の液面を見つめ、あまり急がずちびちびと舐めるように味わうことにした。まろやかな甘みと強い蜂蜜の香り。生姜も入っているらしい。頭にふわふわと霞がかかったようになり、耳が遠くなる。カレドアも麦酒のときとはうってかわってゆっくりと杯を傾けていた。ロクドには、カレドアと二人で外で酒を飲んでいるという現状がひどく奇妙に思えた。
「四年か」
グラスを握りしめたまま、カレドアがぽつりと呟いた。
「きみはよくここまで頑張ったと思う」
突然のカレドアの言葉に、ロクドは狼狽えた。
「本当にどうしたんですか。普段、そんなにおれのことを褒めたりなんかしないじゃないですか」
「そんなことはないだろう。前だって才能があると褒めた」
「そうですけど」
「なんだか、感慨深くなってね」
カレドアが溜息を吐いた。
「ロクド、この四年は長かったかい?」
ロクドは蜂蜜酒をまた一口舐め、卓に両肘を突いて考えた。ネルギの村を出て、棘の森で生死の境を彷徨い、偶然にも魔術師に助けられた。魔術を学び、ガーダルやサリマトと出会い、今こうして一人前になって、カレドアと酒を飲んでいる。ロクドは菫青石の上から胸に手を当てて、答えた。
「長かったような短かったような、そんな気がします。呪いについては結局何も進んでいないけど、それでも価値のある四年間だった。おれにとっては」
それを聞いたカレドアは、目を瞑って沈黙した。次に目を開いたとき、カレドアの瞳からは微笑みのニュアンスは拭い取られていた。眼差しはロクドの方には向けられなかった。
「正直なところ、きみを弟子にしてから、何度も悩んだ。後悔もした。それはきみのせいじゃない。本来、私自身が弟子を持つべき男ではないからだ」
意図せず零れ落ちたような独白だった。ロクドは初めてカレドアという人間の内側に爪先を踏み入れたような気がした。そこはひどく冷え冷えとしていた。ロクドは知らず息をひそめる。カレドアは続けた。
「それでもこんな私が弟子を持つとしたら、やはりきみでなくてはならなかったんだろう。きみが最初で最後の弟子だ。たった四年の間だったが、私はきみに出来る限りのことを教えた気でいるんだ」
どうしてかそれが別れの言葉のように聞こえて、ロクドの胸の内にひんやりとした風が吹き抜けた。得体の知れない焦燥感に駆られて、ロクドは言った。
「おれ、まだまだ分からないことだらけですよ。もっと先生に色々教えてもらわないと」
テーブルの角を見つめていたカレドアが、緩やかな動作でロクドの方に顔を向けた。漸くロクドと視線が交錯する。夢から醒めたような顔をしたカレドアはいつものように微笑んでみせ、
「そうだな」
と言った。居たたまれなくなって、ロクドは蜂蜜酒を呷った。
「分からないことといえば、不思議なことがあったんですけど」
「不思議なこと?」
ロクドは話すのを少し躊躇った。ヨグナのことを話したかったのだが、何と説明すべきか分からなかった。前回の逢瀬でヨグナを傷つけてしまったという悔恨、更にその理由が全く分からないという困惑がロクドを苛み、胸中を複雑にしていた。いっそ全部カレドアに吐き出して、何か適切な助言を貰いたい。その反面、言いかけたはいいものの、ヨグナのことを自分だけの秘密にしておきたいような気持ちもまだあった。グラスの中身をまた一口喉に流し込んだカレドアは、興味を惹かれたように身を軽く乗り出した。
「なんだい、そこまで言ったなら……」
「夢で女の子に会うんですよ」
ロクドは神妙な表情で告げた。呆気に取られた顔をしたあとで、案の定カレドアは笑い出した。
「笑い事じゃないんです」
「おいおい、恋愛相談は、私の、領分じゃあないぞ」
「そういう依頼人だってよく来るじゃないですか。いや、そういう話でもなくて」
「へえ、成る程、夢にね。私もそういう経験があったような気もするが、何せ相当昔のことだから上手く助言できるかどうか――」
「先生」
おかしそうにまたリエール酒を傾けるカレドアからはもうさっきの虚ろなつめたさは溶け去っていた。ロクドはひっそりと安堵した。
「どんな子なんだい? いや、別に言わなくてもいいが」
「亜麻色の髪に白い肌をした女の子ですよ」
「美人?」
悪戯めいた表情のカレドアに溜息を吐いて、ロクドは答える。
「顔自体は美人っていうほどでもないです。けして醜くはないですけど」
「へえ。その子が夢に出てくるのか? 何度も?」
「まだ二回ですよ。だけど、どうしても夢だと思えなくて」
「それで、きみはそれに何らかの魔術の類が関わっていると思っている」
「そうです」
「ううん」
カレドアはここで漸く笑うのをやめた。顔にはまだ笑みの余韻を残したまま顎に手を当て、考える素振りをする。
「話を聞く限りでは、私にはただのきみの夢じゃないかという風に思えるよ。でも、きみがそうではないと思う以上、それなりの理由があるんだろうな」
頷いて、酒壺から新しい蜂蜜酒を注ぐ。今度はカレドアも自分のグラスを差し出したので、それにもなみなみと満たす。
「二回とも同じ場所で、同じ時間なんです。誰もいない、夜のトラヴィアの路地。おれと女の子だけがいて、女の子はぼんやり光っている。それでおれと彼女は少し話をして、暫くすると目が覚める。おれは今し方起きたことのように、夢の内容をはっきりと覚えている」
「光っている?」
ロクドは首肯した。口に出すとあまりに荒唐無稽な感じがして、ロクドはうんざりした。でも、やはり夢だとは思えないのだ。
「しかも、おれ、その女の子に一回実際に会ったことがあるんです。言葉は交わしてないんですけど」
「実在するのか」
グラスをいっぺんに空にしたカレドアが、鈍い動作で首の後ろに手を遣り、呟いた。
「確かに、他の国には人の夢に干渉する魔術というのもなくはないが……」
「あるんですか?」
「そもそも、動機がない。喋ったこともない相手の夢に干渉して何の意味がある? 複雑な手順が必要な魔術だ。素人がおいそれと出来るようなものじゃあないぞ」
ロクドは大きく息を吐いて背凭れに寄り掛かった。
「相手もどうしてそこにいるか分からないみたいだった。でも、仮に向こうが魔術を使って意図的に干渉していたんだとしたら、もうこれから会うことはないのかも」
「どうして」
「なんかよく分からないけど、おれ、彼女の気に触ることしちゃったみたいで」
「なんだ、やっぱり恋愛相談じゃないか」
否定する気力も湧かず、ロクドは仏頂面で頬杖を突いた。
会話が途切れる。
不意に訪れた沈黙に、しかしロクドは気まずさを感じなかった。酔っている、と思った。蜂蜜酒が効いている。視野が狭まって、地面がゆらゆらと揺れている気がする。あまりに視界がぐらつくので、何回か瞬きをしてみたが、テーブルの上のジャガイモは相変わらず奇妙な踊りを踊っていた。カレドアはというと、首に手を当ててぼんやりしていた。中盤から強いリエール酒を結構なペースで空けていたので、彼も流石に酔ってきたらしい。平然としているかと思っていたが、よく見れば目元が僅かに赤らんでいる。帰りが不安になってきたロクドは、一旦夜風に当たりに行くことにした。
「済みません、ちょっと酔いを醒ましてきます」
一言断って、立ち上がる。ふらつきながら、ロクドは店の扉を開けた。夜の外気は平素であれば少し肌寒いほどだが、火照った身体にはひんやりとして丁度よかった。ロクドは何度か深呼吸をして、酒臭い空気を肺から追い出そうとした。身体が浄化されていくようで、気持ちがいい。暫く微風にあたり、ゆっくりと頭を冷やしていると、ロクドは不意に店の裏から話し声が聞こえるのに気付いた。
細い路地裏で、誰かが口論している。
聞き耳を立てると、声の主は男と少女のようで、言い争っているというには一方的な様子だった。どうやら、少女が男に金を貸してくれるように懇願し、男がそれをはねつけているようである。普段ロクドはこういった揉めごとに不用意に首を突っ込むような男ではない。しかし、このときには酒のせいで少し気が大きくなっていた。むくむくと頭を擡げた好奇心を制御しきれず、ゆっくりと歩みより、そっと路地を覗き込む。冴え冴えとした満月が、不意に雲の合間から顔を出し、路地裏の二人を浮かび上がらせた。次の瞬間、心臓が飛び跳ねたような感覚に襲われ、ロクドは反射的に身を隠した。全身の血液が音を立てて逆流し始めたように感じた。
ヨグナと店の主人だった。
確かにヨグナは光ってはいなかった。
しかし、ヨグナの体は明らかに痛々しい傷や打撲だらけだった。剥き出しの脛には握り拳よりも大きな痣が幾つもあり、腕には新旧さまざまな無数の火傷の跡がある。服は同じものをずっと着ているのか、擦り切れていた。記憶の中の彼女とかけ離れた姿にロクドはひどく混乱したが、頭はすぐに解答を弾き出していた。初めて見たあのときには顔に傷がなかったし、見えたのは顔と右手だけだった。だから、気づかなかったのだ。ヨグナの身体は、彼女が言う通り、醜かった。
そのとき、店の扉からカレドアが出てきた。
「大丈夫かい」
ロクドは全身を硬直させ、視線だけをカレドアに向けた。カレドアは首を傾げた。固まったままロクドが何も言わないので、カレドアが訝しげな顔をする。
「何かあったのか」
カレドアが路地裏の話し声に気付き、ひょいと覗き込む。ロクドは慌ててカレドアの服を引っ張ったが、その物音で此方に気付いたヨグナは、猫のように素早く此方を振り向いた。
顔の左半分は、真新しく毒々しい紫色の痣になって腫れ上がっていた。
ヨグナとロクドの視線が交錯し、ロクドは息を飲んだ。ロクドが何か声を掛ける間もなく、ヨグナは逃げるようにそこを立ち去った。店主はやれやれというように首を振り、店内に引っ込む。
ロクドはひどいショックを受けていたが、カレドアの顔を見て更なる衝撃にうたれた。
カレドアは凍りついていた。
顔を真っ青にして、雷に打たれたかのように全身を強張らせている。普段動揺を表に出すことのないカレドアが、ロクドの前でこのような反応を見せるのは初めてのことだった。
二人は店に戻って支払いを済ませ、帰途についたが、酔いはすっかり醒めていた。家に帰り着くまで、二人とも一言も口をきくことはなかった。特にカレドアの狼狽はひどいもので、なかなかおさまる様子が見えなかった。うろうろと部屋を歩き回っていたかと思うと、肘掛椅子にどさりと腰を下ろす。そして、カレドアは指を組み、テーブルを睨みつけたままぴくりとも動かなくなった。元々白い顔は血の気が引いて蒼白で、一気に十も老け込んだような疲れた顔をしていた。そのくせ、黒曜石の瞳だけは爛々と輝いている。
「ヨグナが、どうかしたんですか」
ロクドが思わず問いかけるとカレドアは、
「ヨグナと言うのか」
と掠れてざらついた声で言った。いつもの穏やかな、耳触りのいい声色ではなかった。カレドアの隠された一面を突きつけられて、ロクドは動揺した。
「あの娘は見た目通りの娘じゃない」
カレドアの語調は強い拒絶をはらんでいた。ぎらつく黒曜石色の双眸が、ロクドめがけて鋭利に突き刺さる。ロクドは今カレドアの瞳に潜む感情の本質に気付いた。それは怯えだった。カレドアは絞り出すように言った。
「魅入られるな、ロクド。危険だ」
魅入られるな、と言ったカレドアの姿が、ヨグナによって語られた、遠い日に彼女を恐れ遠ざけようとした村人たちの姿と重なった。
それ以降、彼は頑なに口を開こうとしなかった。次の朝からはいつも通りのカレドアだったが、やはりヨグナに関して触れることは二度となかった。