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屋上へ続く階段

 恋愛なんて下らないって、馬鹿にしてた。


 ――ふうん?


 自分の恋も、下らないって、無かったことにしようとしてた。


 ――友達でいられればいいって?


 そうだと思ってたんだけどね。


 ――それで? 君は自分がした事を悔いているのかい?


 +―+―+―+―+


 ユキはユウに似ていた。ずっとあたしは、ユキの言動にユウを重ねては戸惑っていた。人とのコミュニケーション全般が苦手なあたしが、比較的簡単にユキを受け入れたのは、きっとユウに似ていたからだ。

 だからユウの事を思い出して以来、ずっと思っていた。

 もしかしてこの子は、ユウなんじゃないか、と。

 でもそんな筈がないのだ。だってどうして、ユウにこんなことができる? いくら変わっていたとはいえ、ユウは普通の中学生だったのだ。ユウが実は魔法使いだった、なんて、いくらなんでもそれは無い。

 でももし、ユキがユウだったら。

 それを真剣に考えようとすると、どうしてか体が震える。自分でもよく分からない恐怖。あたしは何を怖がってるんだろう。

「絵はもういいの?」

 ユキがそう言うのに我に還り、曖昧に頷く。

「うん……このままで、いい」

「そう」

 ユキは頷くと、それきりその事には触れなかった。

 絵の中の魔法使いは、何も知らずに楽しそうに微笑んでいる。完成させられなかったのは残念だし、もう絵が描けないという事に対する痛みは未だに胸にあるけれど、今はそれをやり過ごす事ができた。ユキとユウの事を考えているためかもしれないし、もしかしたらまた魔法で落ち着かされてるのかもしれない。

「次はどうする?」

 次。次は、どこにしようか。残りの七不思議はなんだったろう。そもそも、まだ七不思議に添う必要があるんだろうか。またユキに、あたしの思い出がある場所を選んで貰っても別に構わないんじゃないだろうか。

 そんな事を思いながらも、あたしは答えていた。

「次、は屋上。屋上に続く階段」

 そこには、夜中に行くと階段が増える、という七不思議がある。そういう怪談の典型は、十二段の階段が十三段に増える、というものだったけれど、屋上へ続く階段は十二段でも十三段でもなく、十段だった。


『うちの学校について言えば、別に一段増えるとは言われていないんだから、十段が十三段に増えてもいいんじゃないか?』

『そんな適当な。そもそも十三って数には何か意味があるの? 十三日の金曜日も十三だよね。そう言えば』

『十三は西洋における忌み数らしい』

『西洋?』

『戦後の処刑台の階段の段数十三段だったという話も聞くが。十三階段と言えば処刑場を表していたらしい』

『え? それは日本?』

『日本だね。そういうタイトルの小説もある。読みたい?』

『あたしはいいや……』

『全ては昨日ググった俄か知識だけど』

『ああ、一応、調査してたんだ』

『一応ね』


 どうして屋上への階段を選んだのかは自分でも分からない。行くべきだと、そういう気がしたとしか言いようがない。

 足元に僅かな温もりを感じて下を見れば、アルがあたしの足に身を摺り寄せていた。その可愛らしさに思わず抱き上げようとしたら、するりと逃げてユキの肩の上に飛び乗ってしまう。何と気まぐれな。小悪魔だ。

 アルを肩に乗せた、見れば見るほど綺麗なユキを見る。もしも、もしも彼がユウなら。

 もしも彼がユウなら、どうしてこんな事をしてるんだろう。そもそも幽霊のあたしとユウがこうしている状況が有り得ない。ユウが魔法使いだと聞いたこともなければ、霊感があるなんて話も聞いたことが無かった。

 やっぱり、彼がユウである筈がない。

 そう、思うのに。

「じゃあ、行こうか」

 そう言って笑うユキの笑顔に、やっぱりユウの笑顔が重なるのだった。


 +―+―+―+―+


 移動は歩きになった。特に相談するでも無く、自然と並んで歩く。

 美術室は特別棟の三階にある。特別等に屋上に続く階段は無く、階段の舞台になるのは本校舎の東側にある階段だけだ。特別棟から本校舎に移動するには、二階か一回の渡り廊下を通る必要があるから、移動するにも壁を抜けて飛んで行った方が早かった事は確実だ。けれどもどうしてあたしはそれを選ぶ気になれなかったし、ユキもそうしようとはしなかった。

 階段を下りて、渡り廊下へ。そこから本校舎の階段へと移動する間に、誰も居ない夜の教室の前を通り過ぎて行く。あたしの教室の前を通るとき、ああ、ここだ、と何となく思い出したけれど、だからどうとも思わなかった。一番長い時間を過ごしたはずだし、教室でもユウと沢山話したはずだけれど、どうも引っかかって来ない。

 でも、そもそもこんな風に考える時点で、何かおかしくないだろうか。

 そもそも、自分の事すら忘れてしまったあたしが、記憶を取り戻す為にやっていることの筈だ。それにしては、思い出す事があまりに偏っている。

 いくらあたしとユウが親友でも、流石にあたしの人生がユウだけで構成されていた筈がない。さっきの美術室でもあたしには部員の友達が居て、あそこではそれなりにユウ無しの関係を築いていた筈だ。現に、石膏像が再現したあたしと部長のやり取りだって、そこから嫌な物も孤立も感じなかった。

 それなのに、あたしは美術室でほとんどユウと絵の事しか思い出していない。

「何でこんなに、ユウの事ばっかり思い出すのかな」

 そう口に出してみたら、隣でユキがピクリと肩を揺らした。

「……親友だったんだろう?」

「そうだけど……」

「そもそも、君が言い出した『七不思議』が君とユウとの思い出なんだから、それも自然じゃないか」

「じゃあ、七不思議を全部見終わったら、あたしはまた別の事を始めるのかな」

 あたしの、ユウ以外の部分を思い出すために。

「それは、終わってから考えればいいよ」

 終わってから。七不思議を全部確認したら。けれどもこれが終わった先なんて全くイメージできない。今現在だって手探り状態で先に進んでるのに。それとも、終わればまた何か思いつくんだろうか。

 そもそもの初めから、あたしは旧図書館に居た。「図書館の主」に会うために。死んだあたしは最初から七不思議の事を考えていたのだ。

 あたしが旧図書館に居たのも、七不思議を、ユウとの思い出ばかりを追いかけてるのも、本当にユウが親友だったからってそんな理由でいいんだろうか。挙句の果てに、あたしの案内人のユキを「ユウかもしれない」だなんて思い始めてまでいる。

 あたしは、どうしてこんなにユウの事ばかりを気にしてるんだろう。

 それを考えてしまえば、ふっと考えたくない可能性に行きついて、足が竦んだ。

「アヤ? どうしたの?」

 足を止めたあたしに、ユキが数歩先まで歩いて、それから振り返った。マントを微かにふわりと揺らして、あたしの元に戻ってくる。

 こうして、あたしがユウの事に固執するのは、ユウの事を思い出そうとしているのは、ユウがあたしの死に関係しているからなんじゃないだろうか。

 例えば、ユウがあたしを殺した、とか……

 あたしはそんな考えを追い払うかのように、首を振った。

「何でもない」

 そう。何でもない。ユウがあたしを殺したなんて、そんな筈がない。

 だけど、直接殺されたんじゃなくても、例えばあたしが自殺だったら? ユウと何かあって、それが原因で自ら死を選んだ、とか。

 あたしはそんな事をするだろうか。いくらユウと親友だとは言っても、ユウと喧嘩しただけでそこまで追い詰められるだろうか。

 でも、たとえばユウに致命的に嫌われてしまうような事があったとしたら?

 いくらなんでも死ぬとは思えないけど……分からない。

 屋上へ続く階段へと足を進めながらも、あたしは急に湧き上がった不安に怖くなる。これは、単純にユウとの思い出を思い出すだけで済むんだろうか。ユキは何て言った?

『思い出さなければ、選べない』

 何を選ぶっていうの? どっちにしろあたしはもう死んでるのに。

「アヤ、顔色が……」

「平気」

 心配そうなユキから目を逸らして、あたしは足を速めた。さっさと目的地について、さっさと次の思い出を思い出してしまえばいい。


 ユキがユウかもしれない。

 ユウがあたしの死に関係してるかもしれない。


 どちらもあたしの妄想に過ぎないんだから。


 +―+―+―+―+


 目的の階段に着くと、アルがさっと駆けて行って、階段を登って行ってしまった。踊り場を超えて姿が見えなくなったアルを追いかけるように、階段に足を踏み入れる。踊り場まで特に何事も無く上り、上を見上げれば階段を登り切ってすぐの所でアルが座ってこちらを見ていた。

「行こう」

 ユキに声をかけられて、あたしは階段に足を踏み入れる。一番上のアルの所まですぐに着くかと思いきや、

「なにこれ」

 アルの所まであと数段、という場所になって全く先に進めなくなったのである。

 足は動く。ちゃんと登れる。けれど、一段上に足を置いて上っても、その先の段数に変化が無いのである。数回試した所で、あたしは一旦足を止めた。

 振り向けば、後ろに伸びる階段が長くなっているわけでもない。これはあれだ。下りエスカレータを登っているような感じだろうか。ただし、上った分だけ下るエスカレータ。

 何の嫌がらせだ。

「ユキ……」

 非難を込めてユキをじっと見つめると、ユキが苦笑した。

「うーん……ここの七不思議は増える階段なんだろう?」

「いや、これ増えてるっていうか、単に辿り付けないだけじゃ……」

「まあ、似たような物だよ」

 似たような物であってたまるか。

「これは最上階まで行かなくていいって事? このまま引き返すべき?」

「折角だから屋上まで行こう」

「どうやって」

 じっとりとユキを見ながら聞くと、ユキはくすくすと笑った。やっぱりコイツ、あたしが困るのを楽しんでる。

「僕の魔法は、アヤの内面の影響を受ける」

 それを聞いて、やっぱり、と思う自分が居る。美術室で石膏像が話した内容は、あの場に居る中ではあたししか知り様がない内容だった。あたしだって、石膏像が話始めるまで忘れていたんだけど。

 でも、その言い方だと、なんだかあたしが今の状況を作っているみたいじゃないか。

「あたしがこうやって足踏みすることを望んでるって言ってるの?」

「まあ、そうなるね」

「何で、あたしが」

 ユキが優しく微笑んだ。その瞬間にユキの纏う空気が変わる。そして、ぞっとするほど優しく甘い声で、いたぶる様に囁いた。


「アヤは、怖いんだろう?」


 その言葉の内容よりも、その声の甘さと目を細めて微笑むユキの顔に圧倒されてあたしは絶句した。どちらも限りなく優しいのに、全く安らがない。そこにはどこか、あたしを責めているような響きがあった。

「この先に進むのが怖い。思い出すのが怖い。違う?」

 ユキの手が伸びてあたしの顎を摘まむ。その指に恐怖を感じても、却って蛇に睨まれた蛙の様に動けなくて、あたしはただあたしより数センチ背が高いユキを見上げた。

 あたしは確かに怖がっている。でもあたしが恐れているのは自分の妄想に過ぎない。それが真実である筈がないんだから。

「怖くなんて無い」

 強がった嘘と承知でそんな事を言う。それにユキが返したのは、冷笑だった。これまでにユキがこんな冷たい顔をするのなど見たことが無い。

「何が怖いの?」

 怖くないって言ってるのに。そう言おうとしても、ユキの表情のあまりの冷たさに、そう言い返す事ができなかった。

 あたしの中の何かが囁く。言え。でないと先に進めない。

「……ユウとの事、思い出すのが、怖い」

 流石に、「ユウがあたしの死に関係しているんじゃないか」という疑念は話せなかった。その疑念と同じレベルで、あたしは「ユキがユウかもしれない」と思ってしまっているのだから。

「ユウとあたしの思い出は、楽しい事ばかりじゃ無かったかもしれない。喧嘩だってしたかもしれないし……それにあたしのユウに対する感情も、綺麗な物ばかりじゃ無かった」

 言い訳のように並べた言葉は、それでも確かに真実ではあった。

『あたしのユウに対する感情も、綺麗な物ばかりじゃ無かった。』

 その自分の言葉に触発されるかの様に、あたしは思い出していた。

 親友に対する、あたしの醜い感情を。


『秋月、また告られてたよ』


 それは嫉妬と呼ばれるものだったのだと思う。


 +―+―+―+―+


 何かと注目を集めるユウの噂話はよく耳に入った。特にあたしはユウの親友だと知られていたからか、あたしに聞かせたがる子は多かったのだ。

 時には、あたしの部活が終わるのを待っていたユウと一緒に帰る道すがら、あたしがそこに居るのにもかかわらず告白してくるような人も居た。ユウは他校の生徒にまで告白されるほどに人気があった。


『君の事、そういう風に見れないから』

『悪いけど、僕、話した事もないような人間に告白するような奴とは付き合いたくない』


 ユウの返事はいつもこんな感じで、にべも無い、と言えるくらいにいつもキッパリ断っていた。

 もとより、ユウが美しく、頭が良くて、家もお金持ちだと言うかなり恵まれた人間だという事も、それを抜きにしたって魅力的な人だと言う事も、最初から分かっていた。それに対してあたしが大した取り柄もない平凡な人間だと言う事も正しく認識していた。

 比べる人間があまりに上だと、比較して落ち込む気にもなれない。あたしにとってユウが凄いのもあたしが平凡なのも当たり前で、そこに悩むなんて馬鹿馬鹿しい、と思っていた。

 それでも尚、ユウが告白されたと聞く度に、胸の中にモヤモヤした物が渦巻いた。

 ユウに近づく人たちが、あたしを空気の様に無視すれば、心がささくれ立った。

 あたしは基本的に、恋愛なんてどうでもいい、というスタンスで居たけれど、実際にそれに無関心で居られたわけではないのだ。

 その点、ユウは真実恋愛に興味が無いように見えた。誰に告白されても何の迷いも見せずに断って、それを悔いる様子すら欠片も見せなかった。

 ユウがそんな風に無頓着だから、というのもあったけれど、あたしはユウがどこそこの誰それに告白されたという噂話を聞かされても、それをユウに確認したりはしなかった。その話が本当であれ、嘘であれ、ユウは断るに決まっているし、一々聞くのも面倒なくらいにそういう噂を聞く回数が多かったのだ。

 けれどもある日、並んで歩いていた帰り道にまたも呼び止められ、ユウが告白されるのを見て、いつものようにユウがあっさりと断るのを見て、ふと聞いてみたのだ。

「ユウって、恋愛全然興味ないよね」

 ユウはその時、一瞬答えに迷った。そして、笑った。

「まあ、それほどは」

 その答えに、あたしは驚いてユウを見た。

「全然無いわけじゃ無いんだ? その割に、告白されても全然迷わないよね?」

「断り文句は本音だよ」

「ふうん? 何だ。好きな人でも居るのかと思った」

 それは冗談だった。ユウに好きな人なんている筈がないとあたしは思い込んでいたから。

 でもユウは、一瞬硬直して、それから珍しい事に誤魔化す様に笑った。

「アヤには居るの? 好きな人」

「……居ないよ」

「アヤこそ恋愛に興味無いんだろう?」

「……そうかな」

 あたしの頭を宥めるように撫でるユウの手を感じながら、あたしは密かに動揺していた。


 ユウは答えなかった。誤魔化した。

 居るんだ。好きな人が。


 ユウが好きになった人はどんな人なんだろう。ユウが誰かに恋をするところを全然想像できない。なのに。

 置いて行かれたような気分だった。裏切られた様な気分だった。それがどれほど自分勝手な感情か分かっていても、分かっているからこそ、その感情はあたしを静かに蝕んだ。

 何についても優れたユウは、魅力的なユウは、きっと誰であれ、好きな人を手に入れる事ができるんだろう。……あたしを置いて。

 その時の言い様の無い寂しさと虚しさと……嫉妬は、その日家に着くころには随分薄いものになっていたけれど、決して消える事は無かった。


 +―+―+―+―+


 ユキが親指であたしの顎の裏を撫でながら、目を細める。

「綺麗な思い出しか思い出したくない?」

「……」

 思い出すのが怖い、というのは、そう言う事になるんだろうか。ユウに理不尽な感情を抱いていた事は、できれば思い出したくなかった。思い出せば思い出す程、自分が嫌いになる気がする。

 でもあたしは、それでも思い出すと決めたんじゃなかったか。

「思い出すのは、怖いよ」

 あたしは口にする。決意を表明するように。

「でも思い出したい」

 ここで先に進むことで、あたしは示せるだろうか。綺麗な感情ばかりでは無かったとしても、ユウはあたしにとって大切な友達だったと。本当に好きだったと。

「例え無意識で嫌がってたとしても思い出したい。……だからユキ、魔法を解いて」

 ユキがあたしの顎から手を放して、つと口角を上げて笑った。ちょっと皮肉っぽいいつもの笑顔だ。

「いいよ」

 ユキの言葉に答えるように、アルがにゃあと鳴く。ユキに手を引かれ、そのアル目指して歩けば、今度はあっさりと上まで着くことができた。


 +―+―+―+―+


 何故か屋上の扉は開いていた。ユキが魔法で開けていたのかもしれない。ユキに手を引かれて屋上に出ると、夜風を感じる事ができた。

 そのままユキはあたしを屋上の縁まで連れて行くとフェンスに片手をかけて、校庭を見下ろした。あたしも同じようにフェンス越しの景色を見つめる。昼間に、同じアングルで校庭を見たことを思い出す。

 ユウとも、階段の七不思議の調査と言う名目でここに来て、こうして校庭を見下ろした。

 あの時は、何を話したっけ。


『階段を登って屋上へって、何か飛び降りを連想するシチュエーションだよね』

『この学校の七不思議の階段が屋上へ続く、と言われてたのも、そのイメージからかもね。でも屋上イコール飛び降りは無いだろう』

『確かに、色んな舞台設定になりそうだけどさ。屋上って。何でだろう』

『景色がいいからかな。あとはひっそりしている』

『ひっそり?』

『屋上で告白、はセオリーだろう? 人が居ない。そして雰囲気も出る』

『ふうん? 雰囲気ねえ……? ユウも呼び出された事あるの?』

『……まあ、うん』

『ドキドキした?』

『いや……しない』

『それ駄目じゃん。っていうか自分から振った話題なのに気まずそうにしないでよ』


 何ていうタイミングだろう、と思う。恋愛面に対する、ユウへの嫉妬を思い出した直後にこんな会話を思い出すなんて。まるで仕組まれたみたいだ。それとも、今までの場所でもこんな会話はしていたけれど、思い出さなかっただけなんだろうか。

 でもまだ何かある。ここで話した事。ここで思い出すべき事。

「思い出して」

 ユキの囁く声と共に、あたしは記憶の中に沈んでいった。


 +―+―+―+―+


 屋上は暑かった。コンクリートからもフェンスからも熱気が押し寄せるようで、あたしはうんざりしながらダラダラと汗を流しているのに、ユウは夏でも変わらない涼しげな顔をしている。汗を掻いている様子すらない。

 ぐったりするあたしを見てユウが苦笑した。

「暑いね」

「暑いよ。ユウは何でそんな平然としてるかな。暑くないの?」

「暑いよ。平然とした顔を作ってるだけさ」

「汗も掻いてないし」

「掻いてるよ?」

 ほら、とユウがあたしの手をとって自分の首に当てた。確かに湿ってる……気がする、けど。

「良く分かんない」

「そう?」

 確かめるようにユウの首を撫でると、妙に悪い事をしている気分になった。真っ白な首が綺麗で、その肌の感触に妙にドキドキしてしまう。その首から、ユウの脈を感じれば、一層いけない事をしている気がした。そういう気持ちになること自体が後ろめたい。あたしは変態か。

 ユウの首から手を放す。

「アヤは暑いのに弱いね」

「寒いのにも弱いよ」

 要は軟弱なのだ。ぶすっと言うとユウは面白そうにくすくす笑った。どうしてここで笑うかな。面白くなくて、敢えてユウが気まずそうにしていた話題に戻してやった。あたし自身の首も絞めてる気がするけど、気のせいだきっと。

「さっきの話だけどさ、屋上をロマンチックな場所にするには、季節を考える必要があるよね」

「そうかな?」

「だって夏は暑すぎてロマンチックどころじゃない。冬もでしょ? 寒くてそれどころじゃないよ。何を好き好んで屋外に出るの」

「インドア派の意見だ。夏の天気のいい日は空が綺麗で明るくていいじゃないか。冬も例えば雪が……」

「いや、絶対寒いって! 雪降ってる屋上に呼び出して告白って色んな意味で寒い!」

 想像して思わず震えるあたしに、ユウが笑う。

「アヤってロマンスを解さない割に想像力が豊かだよね。絵はメルヘンだし」

「"ロマンスを解さない"のはユウだって同じでしょ?」

 何となく悔しくてそう言うとユウはくすりと笑う。

「そうでもないよ」

「屋上に呼び出されて告白されてもドキドキしないんでしょ?」

「そうだね。だって好きでも無い人に呼び出されても面倒なだけだろう?」

「それってモテる人の意見だよ」

「そうかもね。……でもさ、本当に好きな人が居れば、いくら好きって言われても、その人の言葉以外は価値が無いんだ」

 急に真剣な声でそんな事を言い出したユウを、あたしは間抜けにも口を開けて見つめた。

「何だい? その顔」

「あ、いや……なんかさ、好きな人が居るって言ってるみたいに聞こえるよ?」

 ユウはあたしに、そんな話をしたくないんじゃないだろうか。そう言う話題になったらいつも気まずそうにしていたし、前に聞いたときは誤魔化された気がする。

「居るよ」

 さらりとそう言ったユウにあたしは戸惑う。

「そうなんだ」

 とゴミ箱に捨てたくなるような反応を返してしまう。それから慌てて尋ねた。

「えっと、誰? あたしが知ってる人?」

 本音を言えば聞きたくない。ユウの好きな人の事なんて。聞けば寂しくなるし、きっとその人を嫌いになってしまうだろう。それでもこの流れでは一応聞いてみないといけない気がした。

 秘密って言ってくれないかな、と思う一方で、それはそれで寂しい、と思ってしまう自分が居る。願わくば、あたしの全然知らない人の名前を上げてくれないだろうか。

「誰だと思う?」

 からかうようにユウが言う。こういう言い方するって事は、あたしの知っている人なんだろうか。気が重い。

「わかんない。ユウが恋をしてるってことがまず全然イメージできない」

 つい正直に行ってしまえば、ユウは皮肉っぽく苦笑した。

「まあ、僕も自分の恋を中々認められなかったしね」

「へえ……」

 何でだろう。妙に生々しく感じるのは。そうか。ユウは自分の恋を中々認められなかったのか。そんな風に悩んでたのか。

 全然気付かなかった。

「ユウでも悩むんだね。ユウだったら、大抵の人はOKしそうなのに」

「そう思う?」

「思う」

 ちょっと無責任かな、と思いはしたけれど、ユウがモテるのは事実だし、本心ではあった。

「そう言ってくれるのは嬉しいね」

 笑うユウは全然あたしの言葉を真に受けてないように見える。

「告白する気は無いの?」

「……どうだろう」

 ああ、悩んでるんだ。と分かった。告白何てしなければいい。ユウが告白すれば、きっと成就してしまう。そしたらあたしは……

 その自分の考えの醜さに、あたしは屋上のフェンスを握りしめた。そんな自分が嫌で、だから裏腹に口にする。

「告白しちゃえばいいのに」

 無責任で衝動的なあたしの言葉をユウは困った様な顔で聞いた。軽く首を傾げて、あたしを覗き込むようにして見ると、つっと口角を上げるいつもの笑顔になる。

「そうしたら、アヤは僕の彼女になってくれる?」

 その言葉にぎょっとユウから後ずさって、すぐにそんな過剰反応をした自分が恥ずかしくなった。

「この流れでそう言うこと言うと、あたしがユウの好きな人みたいじゃん」

 ユウが苦手にしてる恋愛の話題をしつこく振ったあたしも悪いけど、こういう冗談は今までに無いパターンだから反応に困る。もうさっさと話題を変えてしまおう。

 そんな事を思いながらユウの「ごめん、冗談だよ」という言葉を待っていたあたしは、ユウの次の言葉に今度こそ硬直した。

「まあ、実際そうだからね」

 何も言えずに固まるあたしに、ユウはユウらしくない情けない泣きそうな顔で笑いかけた。

「言うつもりは無かったんだ。でも、言っちゃったね。……ごめん。気にしないで」

 ユウが伸ばした手から後ずさる。宙に浮いた手をユウは頼りなく彷徨わせて、それから下した。

 ユウが俯き、普段からは考えられないくらいに頼りない声で呟く。

「ごめん……」

 そんなユウを前にしている事に耐えきれなくなって、あたしはユウから逃げ出した。


 俯くユウを置き去りにして。



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