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美術室の石膏像

 この姿も何もかも、イメージによるものでしか無いのなら


 ――無いのなら?


 何にでもなれる、という事? 今の自分じゃない何にでも?


 ――見た目はね。あとは感覚もか。中身はそう簡単じゃない。


 自分じゃない何かになりたがる人はきっと多いんだろうね。見た目だけなのに。


 ――おや、自分がそうじゃないとでも?


 +―+―+―+―+


 入った瞬間、知っている、と思った。

 もちろん、この学校のほとんどの場所は知っている筈だ。だってここに通っていたんだから。だけれど、美術室に入った瞬間に感じたそれは、これまでには無かった感覚だった。

 あたしはここを知っている。

 鼻の奥に、油絵具とシンナーの匂いが蘇るかのようだ。あたしはここを良く知っている。ここは確かに、あたしの居場所だった。

「どう?」

 楽しげに聞いてくるユキに、

「うん」

 と適当に頷いて、あたしは美術室を見回した。

 いつも、放課後はここに来ていた。ここに入ったらまず授業の邪魔にならないようにと後ろに寄せてある書きかけの作品群の中から、自分のキャンバスを運んだ。

「絵を、描いてた」

 ぽつりと、ユキに聞かせるつもりかどうかも曖昧に、口に出す。

 描きたい物は沢山あった。それら一つ一つを、スケッチブックに起こしてキャンバスにのせて、少しでも形になるようにと、何度も何度も線と色を重ねた。形をとって、影をとって、質感を、手触りを、温度を、空気を、その平面の中に、表したかった。

 描きたい事が明確にならない時も、思うように描けない時も、描けば描くほど遠ざかって行くようでもどかしくて堪らなくなるときもあったけど、それはいつだって、楽しかった。

 どうして忘れていたんだろう。今の今まで、どうして。

 今まで思いだした記憶の中でさえ、あたしは絵を描いていたのだ。音楽室で、あたしはピアノを弾くユウの後ろ姿をスケッチしていた。それをあたしは、あの時思い出したはずなのに、絵を描く事を、描いていた事を、意識しなかった。

 普段だったら教室の隅に寄せてある、美術部員の作品群は、今は美術室のそこかしこに散らばったままになっている。殆どがイーゼルで、一部、粘土。木の彫刻も一作品だけだけれどある。

 そのどれがあたしのイーゼルかを、今ははっきりと思い出す事ができた。イーゼルの骨組みをこちらに向けて、どんな絵かは見えない。何を描いていたんだっけ。どうして思い出せないんだろう。描いていた。つい最近まで。

 まだ、まだ完成していないのに。

 何を描いていたんだっけ? 確かめたい。……でも確かめるのが怖い。

 だってもう、どうせ完成させられないんだから。知ってどうする? 知ってしまったら……どうすれば、いいんだろう。

「やっぱり絵は、君の中でとても大きな存在なんだね」

 気が付けばユキがすぐ傍であたしを覗き込んでいた。ぎょっとするほど近い。大きな目が目の前にあって、その菫色の目の虹彩がやけに鮮やかに見えた。

 ああ、これ、この色、どうすればこの透明感と深みを出せるだろう。睫毛とか、この虹彩とか、繊細に描くならやっぱりもっと細い筆が欲しい。でもこないだ新しい色を一気に買ったばかりだし、流石にちょっとお小遣い使い過ぎ…か……も…………

 ……あたし、何考えてるの?

「ユキ、近い」

 あたしはユキから後ずさる。その綺麗な目から、顔から目を逸らした。

 見たくない。考えたくない。

「もうやめる?」

 ユキが言う。やめるって何を? 思い出す事? 何て甘い声。甘い言葉。何度言うつもりなの? 何度答えさせるつもり? あたしは思い出したいって、ずっと言ってるのに。

「…………」

 なのに今は、口にできない。

 ユキから目を逸らして俯くことしかできないあたしの頬を、ユキの冷たい指が撫でた。

「辛い?」

 優しい声。優しいだけじゃない、その声はユキも痛みを感じているように聞こえた。あたしが死んでいるという言葉を、楽しそうに告げた癖に。どうして今この時に、こんな声を出すんだろう。

 抑えこもうとしたものが僅かに零れて、あたしは震える吐息を吐いた。

「……怖い」

 多分今までが平気過ぎたのだろう。死んだという事実にずっと実感が無かったあたしは、今になってそれに向き合うのを恐れている。

 確かに絵はあたしにとって大きなものだった。当たり前の様に描くことを考えてしまうくらいに。

 もう描けない。

「アヤ……」

 ユキが心配そうな声であたしの名を呼ぶ。あたしが泣いているからだろう。幽霊でも涙は出るらしい。頬に伝わる水の感触が馬鹿馬鹿しくって、気持ち悪い。

 この涙も全部全部あたしのイメージなんだから。あたしは今、泣いている自分をイメージしている。頬に水の感触。黙って涙を流すあたし。顔を覆うでも泣く、ただはらはらと。

 ほら、如何にも傷ついてるって感じじゃない?

 そっと涙を拭おうとするユキの手を避けた。

 何で、そんな普通に優しくしようとするかな。笑って、「へえ、アヤでもそんな風に泣くんだ」とか言ってくれる方がよっぽどいいのに。心配そうな顔しないでよ。そんな痛そうな顔、しないで。

「馬鹿みたい……」

 つい口に出してしまった。ユキが眉を顰める。

 思い出せば未練が出るかも、とか、死んだ事を実感すれば苦しいかもって、最初から分かってた事だ。分かった上であたしは思い出すって言ったのだ。何やってるんだろうあたし。本当に馬鹿みたいだ。

「アヤ……苦しいのも悲しいのも、怖いのも当たり前なんだよ。馬鹿みたい、なんてそんな事は無い」

 ユキがこれまでになく真剣な声で言う。

「そうかもね」

 死んでしまったら、それは悲しい。誰かの死を悼むのも、自分が死んでしまった事を嘆くのも当たり前な事だ。昔飼っていた小鳥が死んでしまった時だって悲しかった。その時泣いたことを、あたしだって馬鹿馬鹿しいとは思わなかった。

「けどさ、じゃあ、どうして」

 口角を釣り上げる。そしたら震えで歯がカチカチと鳴って、それが悔しくて唇をかみしめた。

「どうして、ユウの事を思い出した時に、こうならなかったの?」

 高々、絵で、あたしはこうも泣いている。なのに、ユウの事を思い出した時も、ユウともう話せないと分かっていても、こんな風にはならなかった。

 親友で、大好きだったユウの思い出に胸が痛くなっても、こんなに怖くは無かった。

 死んでしまった痛みと苦しみを、あたしはこんなにも自分勝手な理由でしか知ることができない。

 何て嫌な奴。

 涙を零しながら顔を歪めるあたしはきっと今、とても醜い顔をしているのだろう。そんなあたしの顔を眉を顰めて見るユキの顔があまりに綺麗で、その対比が滑稽だ。

「違うよ。アヤ、それは違う」

 そう言うユキの声がこれまでに無く真剣で、それが堪らなく嫌だった。

「何が違うって言うの?」

 ユキが悲しげに首を振る。

「アヤ……」

 何か言いたそうな、けれども言えないとでも言うような顔でユキがあたしを見る。その目が悲しげに伏せられ、それからまたあたしを見たかと思うと、苦しげな声で言った。

「ごめん……」

 どうしてユキが謝るんだろう。ユキは悲しそうな顔をしていた。これまで見たユキの表情の中で、一番人間らしい表情だった。情けないと言ってもいいような顔、泣きたいのを我慢しているような、悲しい顔だ。叱られた子供みたいな。

 ああ、こんな顔を前にも見たな。

 どこでだったっけ。なんで今そんな事を考えるんだろう。

「……アヤ、君は優しい子だよ。友達想いの、優しい子だ」

 もどかしそうに首を振りながらユキが言う。そうして何かを決意した様な顔になった。

「さっき言ったことを取り消すよ。……続けよう。君は思い出さなくちゃいけない」

 それから聞こえるか聞こえないかの小声で「ごめん、こんな風に苦しめたかったわけじゃないんだ」と囁いた。


 +―+―+―+―+


 美術室全体が青く発光していくのを、あたしは黙って見ていた。その幻想的な光景を、絵に残す事を反射的に考えてしまう。ゆっくりと広がった青い光は同じようにゆっくりと消えて行き、後には夜の美術室が残った。音楽室とは違い、こんな風に暗いこの部屋には馴染がある。何度かつい遅くまで残って描いてしまい、顧問の先生に追い出された時に見ていた。

「電気を点ける?」

 ユキが聞いて来るのを首を振って否定した。

「いい。充分見えるから」

 窓の外からは月明かりが差し込んでいる。嘘くさい程に綺麗で明るい月の光で、美術室の中は程よく視界が効いていた。

「美術室の七不思議は何?」

 ユキが聞く。どうせ知ってるんだろうに。ここを指定したのはそもそもユキなんだから。けれどもあたしはその茶番に付き合うように、美術室の七不思議を説明した。

「囁く石膏像。夜中になると、石膏像が話し始めるんだってさ」

 ニノ君の時の様に、石膏像に魔法をかけるんだろうか。今既に、美術室にはユキの魔法が掛かっている。あたしが美術室の中の物を自由に動かせるようにするための魔法だ。あたしは未だに、こちらに背を向けたイーゼルに立てかけられたあたしの絵を見ようか見まいか迷っている。だからユキが魔法をかけてくれたにも関わらず、動けないでいた。

 イーゼルから目を逸らし、石膏像を見る。

「魔法の重ね掛けってできるの?」

 にゃあ、アルが鳴いて石膏像に寄り添う。マーキングするように石膏像に体を摺り寄せていた。いつからそこに居たんだろう。

 そんなアルを目を細めて見たユキがあたしに微笑みかけた。

「重ね掛けっていうより、上書きかな」

 微笑む顔は相変わらず綺麗だけれど、ぎこちなさの片鱗が残っている。

 あたしにとってずっと、ユキはどこか現実味のなかった。そもそも銀髪に菫色の目の浮世離れした美少年だという時点でかなり現実味が無い。その上魔法使いで、幽霊のあたしの案内人であるという。あたしの知らない事をユキは知っていて、あたしが行きつくべき場所を知っていて、あたしの手を引く存在だった。分からない事ばかりのあたしの困惑を面白そうに眺めながら、彼は余裕のある態度を崩さなかった。その態度もどこか芝居がかっていて、まるで彼の存在そのものが作り物であるかのような印象を強めていた。

 それなのに、ここに来てのこの人間らしさはなんだろう。さっきの泣きそうな顔といい、あたしが泣いた事がそんなに衝撃だったんだろうか。最初からあたしをいたぶるような態度をとっていた癖に、いざあたしが傷ついた顔をすると困るらしい。

 そういうところも、ユウと同じだ。

「石膏像は何を囁くの?」

「……んと、特に決まって無かったと思う」


『夜中に美術室に忘れ物を取りに来た生徒が、誰も居ないはずの美術室で囁く声を聴く。これだけだったらその囁きの内容はどうでもいいわけだ。現に聞くだにバラバラだね。そもそも知らないという子が多い』

『そこも、好きに想像していいってやつ?』

『そうなるね』

『何がそれっぽいかな』

『アヤはどう思う?』

『んー、陰口、噂話、あとは自分の死期、とか、それ位しか思いつかない』

『どれも好みじゃないなあ……』

『ユウって案外、棘が無いっていうか綺麗で優しい話が好きだよね。意外にも』

『意外とは何だ。僕は元々美しいものをこよなく愛している。物語もしかり』

『ソウデスカ』

『勿論、その筆頭がアヤとアヤが描く絵なわけだけど?』

『ソウデスカ』

『あれ? 照れてる?』

『うるさい』


 あたしの絵は下手では無かった。結構上手だったと思う。コンクールで凄い賞を取れたり、本気で将来、絵で生計を立てる事を考える程では無かったけれど、多くの人に綺麗だと言って貰える絵を描くことができた。

 ユウはそんなあたしの絵を好きだと言ってくれていた。

 そもそもユウとあたしが知り合ったきっかけが絵だった。あたしの絵に興味を持ったユウがあたしに話しかけてきたのだ。


『図書室前に張られた読書感想画、あれ君が描いたものだろう? ずっと気になってたんだ。君の名前、アヤと読むので正しい?』

『……あたし?』

『僕は秋月優。ユウと呼んで欲しいな』

『知ってるけど……君、目立つし』

『そう? で、君は?』

『……』

『名を聞かれて答えないというのは、警戒心の表れか、もしくは仲良くなりたくない、という意思表示だと思うのだけど?』

『逆に聞くけど、君はあたしと仲良くなりたいの?』

『とってもなりたい。一言で言えば君の絵のファン』

『そんな大したもんじゃないでしょ……』

『人の好きな物にケチを付けないでくれるかな?』

『あたしの絵でしょ?』

『そして僕の好きな物だ』

『……それはどうも』


 それが、あたしとユウの最初の会話だった。


 +―+―+―+―+


 最初のうちは戸惑った。その美貌と変わった言動で有名だったユウが、どうしてあたしに話しかけて来るのかと迷惑にすら思っていた。何かと注目の集まるユウと親しくして目立つのが嫌だったのだ。

 けれども好意を伝えるのに躊躇いが無いユウは、あたしのそっけない態度にもめげることなくあたしに話しかけた。放課後美術室に来ては、あたしが絵を描くのを楽しそうに見ているユウに、

「見るだけで楽しいの?」

 と皮肉った事もある。ユウにあっさりと

「凄く楽しい」

 と返されて撃沈したけど。

 なんでユウがあそこまであたしと仲良くなりたがったのか、あたしには未だに不思議だ。多少絵が上手いだけでユウのような人間があんなに興味を持つだろうか。

 そんな不信もあって、あたしはずっとユウに大して及び腰だった。嫌いだったわけじゃ無い。寧ろその時から、あたしにはユウに対する憧れめいた感情があって、だからこそ、いきなり「友達になろう」と言ってきたユウに、要はビビったのだ。

 仲良くなった(開き直ったとも言う)のは進級がきっかけだった。

 同じクラスになったのである。

「アヤ!」

 呆然と掲示板を眺めるあたしにユウが嬉しそうに駆け寄ってくる。嫌になる程注目を集めながら、それをものともせずにあたしの目の前まで来たユウは、何の躊躇いも無くあたしの手を握りしめた。ざわりと周囲があたしたちを見て湧きたった。これまでユウの接触は美術室でだけだったから、ユウとあたしの事は美術部の部員以外に知られていなかったのだ。そんな周囲に気が付いていないわけがないだろうに、それに構う事無くユウは嬉しそうに言った。

「同じクラスだね! 嬉しいよ!」

 天使もかくやという程に美しい、その満面の笑顔に、あたしは陥落したのだった。


 +―+―+―+―+


 蘇った記憶に後押しされるようにして、あたしは自分のキャンバスに手を伸ばした。どうしてか、今あたしが描きかけていた絵を見る事が大事な気がしたのだ。夏休みの時間を使って、ユウとの七不思議巡りの合間に描いた絵。いや、絵を描く合間にユウと七不思議巡りをしていたと言った方が多分正しい。七不思議のスポットに行った後には必ずここに来て、背後からユウに見られながら描き進めていた。

 イーゼルごと持ち上げて、いつも絵を描くときに使っていた場所まで運ぶ。そうして前に回り込んで見た自分の絵に、呼吸が止まった。

 キャンバスに描かれているのは、魔法使いだ。黒いマントを身にまとい、銀の髪と菫色をした魔法使い。片手に本を、もう片方の手に指揮棒みたいな細いステッキを持ち、本に書かれている魔法を試す寸前、とそんな場面をイメージして描いた物だ。

 それは明らかに、ユキだった。

 振り向いて呆然とユキを見るあたしに、ユキが微笑を返す。

「驚いた?」

 あたしは頷く。驚かない訳がない。

「見て分かるように、僕のこの姿は、君の絵から貰ったものだよ」

 あたしの絵から。それはどういう事なんだろう。ユキは異世界から来た魔法使いなんかじゃなくて、確たる存在の一人の人間じゃ無くて、結局はあたしの頭の中から出てきた存在に過ぎないんだろうか。

 あたしの混乱を切ないような目で見て、ユキは乾いた笑顔を浮かべた。

「綺麗な少年だよね。これが君の理想?」

 ゆるく両手を広げてユキが言う。そんなユキをあたしはどう考えればいいか分からない。

 ユキは何者なんだろう。あたしの理想の姿を持った、あたしの理想の少年? 死んだあたしが見る、都合のいい夢の世界の産物?

 違う。そうじゃない。

「違う」

 この絵は、あたしが初めて、人物を対象にした絵だった。

 それまでだって、背景の中に人物を描く事はあったけれど、人物をメインに描いたのは初めての事だった。あたしはファンタジーな題材が好きで、ドラゴンとかグリフィンと言った幻獣や、童話の中の風景を描くのが好きだったのだ。七不思議巡りのスケッチだって似たような物だ。昼間の学校で取ったスケッチを元に夜の風景を描いて、幻想的な絵を描きたかった。

 そんなあたしが初めて真っ向から人物を描いた絵に、ユウは随分興味を持った。ユウも同じようにして、「こんな子が理想なの?」と聞いて来たけれど、あたしはそれを笑って誤魔化した。

 ちゃんと否定すれば良かった。今になってそんな後悔が押し寄せる。ちゃんと否定して、本当の事を言えば良かった。恥ずかしがったりしないで、ユウみたいに率直に言えれば良かったのに。

 これは、君をモデルにした絵なんだよ、って。

「確かに、ある意味この子はあたしの理想だけど、そういう意味じゃない」

 あたしはユウの見た目が好きだった。それこそ声をかけられる前からずっと、ユウを絵にしたいと思い続けていたのだ。

 勝手にモデルにしたことを怒られるのも怖かったし、ずっと描きたいと思っていた事を言うのも恥ずかしくて、結局本人には言えなかった。

「友達をモデルにした絵なの。本人の許可は、取ってないけど」

 ユキが驚いたように目を見開いた。

「友達?」

「一緒に夏休みの自由研究をやっていた友達。あたしの、一番の」

 親友、と言おうとしたら、声が響いた。


「これって秋月だよね」


 その声は美術室の後ろの方から聞こえてきた。ぎょっとして振り向けば、石膏像の唇が動いている。無機質な顔をそのままに、唇だけが動いて言葉を紡ぐ。それはアリアスの像だった。普通の口調の声に、無機質な石膏像は酷くミスマッチで不気味だ。

 アリアスに答えるように、アポロの像の唇が動いた。そこから出てくるのはあたしの声だ。外側から聞くあたしの声は、少し違って聞こえて落ち着かない。


「分かります?」

「そりゃ分かるよ。良く描けてる。本人は気付いて無いみたいだけどね」

「ユウは結構、自分の外見に無頓着っていうか……美人なのは自覚してるみたいですけど」

「この色の所為もあるんじゃないの? 何で銀髪?」

「それはまあ、だって恥ずかしいじゃないですか。そのまんまだと」

「なんだそりゃ」

「ユウ、写真嫌いだって言ってましたし」

「あんた結構秋月の事スケッチしてなかった?」

「殆ど後姿です」

「え? それ秋月の許可は得てるの?」

「はい。でも、これについては聞いてないんですよね……」

「風間が描くんだったら嫌がらないんじゃないの?」

「そうですかねえ……」


 風間、は私の苗字。秋月はユウの。これはあたしと美術部の部長とのやり取りだ。そう、誰も、ユウ以外の人はこの絵のモデルがユウだって気付いていた。気付かなかったのはユウだけだ。

 それっきりで黙り込み、すっかりただの石膏像に戻ってしまったアポロとアリアスを、ユキは目を丸くして見つめていた。自分の魔法なんだろうに。

 ふと思う。ユキの魔法は、必ずしもユキの思い通りに動くものではないのかもしれない。ニノ君がフラフラしていたのも、石膏像のこのやり取りも、魔法の力が勝手にあたしの頭の中から引っ張り出してきたものなのかもしれない。

 それにしたって随分驚いている。

「ユキ?」

 ピクリとユキの肩が震えて、それからあたしに向き直ったユキは複雑な顔をしていた。

 悲しんでいるような、喜んでいるような、切ないような、暖かいような、複雑な顔としか言いようがない。

「何でその子を描こうと思ったの?」

 ユキは努めて軽い口調で話そうとしているみたいだけれど、声が僅かに震えていた。

 一体、どうしたんだろう?

 何で、と聞かれればずっと描きたかった、という言葉が最初に出て来るけれど、でもそれが答えになっていないことぐらいは分かる。

 ユウが綺麗だったから。

 それも一つの答えだろう。けれども、照れくさくてユウにモデルだと言えなかった事を後悔しているあたしは、恥ずかしくてももっと素直な表現を使いたい気分だった。

「好きだからだよ」

「好き……ね」

「ユウの顔も、変なところも、人が困ってる時に楽しそうにするところも、屁理屈屋なところも、でもあたしが本気で傷つくと途端に焦り始めるところも、好きだったから」

 ユウの顔だけじゃなくて、ユウの持っている空気みたいなものを、絵の中に表したかった。それで選んだのが、魔法使いだったのだ。

 本を片手に、ほんのりと楽しげに口元を綻ばせ、ステッキを振る魔法使い。

「一生の友達になりたいって思うような、親友だったの」

 あたしの言葉に、ユキはやっぱり複雑な顔で笑った。


 +―+―+―+―+


 絵の中に描かれた、背景の本棚をそっと指で触れてみる。絵に指紋の跡が付いた。まだ乾いていない。あたしが死んでから、それほど時間が経っていないらしい。少なくとも数日以内なんだろう。

「完成させたい?」

 ユウが聞いて来るのに首を振った。

「時間が掛かるよ」

 どんなに集中したってあと数日は掛かるだろう。絵はおおよその形はできていたし、色ものせてあったけれど、まだ全然完成には至らない。第一、ある程度乾くのを待たないと描けない部分だってある。

 いくらユキが魔法を使ってくれても、完成させるのは無理だろう。

「この時間はいつまで続くの?」

 ふと気になって、あたしはユキに尋ねた。

 あたしが旧図書館でユキと出会ってから、気が付けば随分時間が経っている気がする。

「……望む限り」

 あたしが望む限りって事だろうか。

「朝が来たらどうするの?」

「来ないから大丈夫」

「……やっぱりここは現実の学校じゃないの?」

「やっぱり? いいや、現実の学校だよ。ただ朝が来ないだけ」

 時間が止まってるって事なんだろうか。聞いたとしてもまともな答えが返って来ない気がして、あたしは追及を諦めた。話題を変えて、もっと気になっている事を聞いた。

「ユキはあたしを知ってるんだよね」

「まあね」

「なのに、絵のモデルの事は知らなかった」

 ユキが沈黙する。あたしはその沈黙の間に考えた。

 ユキはあたしの事を知っている。それは間違いない。けれどもどこまでを知っていて、どこまでを知らないんだろう。

 例えばユキがあたしの基本的な個人情報を知っているとする。名前、年齢、住所、学校、家族構成、とか。ユキが死神のような存在だったとして、仕事のあたしの情報としてそう言う事を知っているというのはそれほど不自然に感じない。

 でもあたしが今取り戻そうとしているのはもっと個人的で内面的な事なんじゃないだろうか。あたしが好きだったもの、やりたかったこと、何より、親友、ユウとの思い出。

 ユキはそんな内面的な部分を良く知っているという事を匂わせていたし、現にここが七不思議の舞台であり、更に別の理由でもあたしにとって特別な場所であったと知っていた。

 けれども、ユキはあたしの頭の中を知っているわけではない。知っていたら、絵のモデルの事であれほど驚いたりはしないだろう。

 と、同時に、多分あたしの想像でできたものでも無い。

「僕だってアヤの全てを知っているわけじゃない」

 ユキがぽつりと囁いた。あたしはそれに耳を澄ます。

「人間って、僕が簡単に全て知ることができるほど、単純じゃない。僕だから分からない事もある。僕は他人の事をなんでも知っていると思う程傲慢じゃないよ」

 その言葉には納得できる気がする。けれどもユキがさりげなく口にした「他人」という言葉に妙に胸が抉られる気がした。

「何であたしの事を知っていて、何で絵のモデルの事は知らなかったの? 何を知っていて、何を知らないの?」

「答えられない」

 はぐらかすのでも無い、キッパリとした拒絶。そう言われたら引き下がるしかない。引き下がった所で疑問が消えるわけでもないけれど。

 心の奥底でずっと、ひっそりと浮かんでは沈む事を繰り返していた推測がある。もしかして、と思っては、そんなはず無い、と打ち消していたその想像は、こうしてユキと居れば居るほど、膨らんで行く。ぷかりぷかりと表層まで上がって、それを口にしてしまいたくなる。


 ねえ、ユキ。君はもしかして、ユウなの?



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