二宮金次郎像
――君は随分、適応が早いね
そう?
――変わり者って言われてなかった?
さあね……なりたかったんだ
――なりたかった?
だから、変わり者に
+―+―+―+―+
「アヤ?」
訝しげにあたしを覗き込むユキを押しのけて、あたしはくらくらする頭を休めるために目を瞑る。目を瞑ると途端に自分が不確かになるようで、却って落ち着かない。
「次はどこ?」
ユキの声が響く。無邪気な声だ。本人は多分そんなに無邪気じゃないけど。目を瞑って聞くユキの声は却って頭の中に響くようで、頭を休めるどころじゃない。仕方なくあたしは目を開ける。
眩暈は収まっていた。
「アヤ? 様子が変だよ?」
わざとらしいくらいに心配そうな顔から目を逸らした。そして慌てて答える。
「次……次、は、徘徊する二宮金次郎像……校庭」
ユキがクスクスと笑う。
「敷地の西端の旧図書館から、本校舎最上階東端の音楽室に、次は校庭? 効率性をまるで考えてない行先の選び方だね」
確かに、と思うけれど、少し意地になってあたしは答える。
「いいでしょ? どうせ飛べるし壁抜けできるんだから」
「悪いとは言ってないさ」
そう言って笑うユキを睨んで、あたしは音楽室の窓に目を向けた。あそこから飛び出れば、すぐに校庭だ。二宮金次郎像は正確には校庭ではなく、校門の脇にある。校門は校舎の東にあるので、昇降口を経由しない事を考えればむしろ近いと言ってもいい…と思う。
「どうする? アヤ。また手を引こうか?」
ユキがからかい混じり声で言うので、あたしは目を瞑った。ユキがあたしの手を取る前にと走り出す。ようは目を瞑って通り抜ければいいのだ。そろそろあたし一人でできてもいいだろう。
窓までの距離を考えようとする頭を無視して、勝手に竦みそうになる足を無視して、あたしは走る。もういい加減通り抜けただろうと思って目を開けてみたら、首尾よく窓の外に居た。
浮いている。
「随分あっさりできちゃったね。僕としてはちょっとつまらないよ。別に僕が手を引くんで良かったのに」
あたしから少し離れたところにふわりと浮いたユキがわざとらしく拗ねた顔をしてそう言った。
「自分でできるなら自分でできる方がいいでしょ」
「君に頼られるのが僕の役目なのに」
ユキがすっとあたしに近づいて、手を握る。事あるごとにこうして手を繋ぎたがったのは、そう言えばユウも一緒だった、と思いだした。ユキの平均的日本人としては近い距離感覚にそれほど拒否反応を覚えなかったのは、綺麗な顔のせいだけじゃなくて、きっとユウがそうだったからなんだろう。
繋がれた手を見て黙っているあたしの顔をユキが覗き込んだ。そう、こうやって気軽に人に顔を近づけるのも、同じ。
「アヤ?」
「……なんでもない」
あたしはユキを完全に信用することができない。どこか胡散臭く感じるユキの言動が、記憶の中の親友と重なるのは奇妙な気がする。ユキとユウが似ているように感じるのは偶然なんだろうか。
少なくともこれは、ユキに言わない方がいい気がする。今は、まだ。
「ふうん?」
ユキが優しく微笑んであたしの手を引く。ユキとあたしの体が、空中をふわりと漂った。完全に重力から自由になった様なこの感覚。これもあたしのイメージなのだろう。
ふわふわと、漂いながらユキがくるりとまわる。踊っているかにように、あたしとユキはゆっくりとくるくる回った。
「何やってんの?」
両手を握られて、あたしとユキは空中をふわふわと両手を繋いで回っている。ステッキは何時の間にどこにしまったのやら。
「ほら、アヤが悩んでるみたいなのに、僕には話す気が無いみたいだから、励まそうと思って」
ニコニコと、ユキが楽しそうに笑う。子供みたいだ。
「これが励まし?」
呆れてそう言えば、ユキが気にする様子も無く笑う。
「楽しいだろう?」
「……まあ」
楽しくないわけじゃない。こんなこと、幽霊にならなければできなかっただろう。それにこうして手を繋いで回っていると、子供の時に帰ったような気分になる。この年になってしまえば、誰かと手を繋いではしゃぐなんてことは、特別な事が無い限りしない。
「少しはこういうのもいいじゃないか、ほら折角……あ!」
「どうしたの?」
ユキが珍しくもしまった、という顔をしたのであたしはぎょっとする。終始余裕のある態度をとっていたユキだけに突然こんな顔をされると不安になる。
……あたしは既に、かなりユキを頼りにしているみたいだ。
このまま頼っていて、本当にいいんだろうか。
ユキは何やら悔しそうな顔をしている。
「僕とした事が……本当は旧図書館を出て、最初に外に出た時に言おうと思ってたのに……」
「何を? あたしが聞いとくべきこと?」
幽霊として気を付けなければならない事だろうか。あたしは知らず、何らかのダブーを犯してしまったのだろうか。
けれどもユキの返答は、不安になったのが馬鹿らしいくらいにどうでもいい言葉だった。
「月が綺麗だねって」
「……は?」
唖然とするあたしに構わず、ユキが上を見上げる。
「満月でも三日月でも半月でもないすごく中途半端な月だけど、でもとても綺麗だ。アヤもそう思うだろ?」
「あたしには月光に当たっちゃいけないとか、そういう何かがあるの? 月に気を付けなくちゃいけないとか?」
もし本当に月光に当たっちゃいけないのなら、明らかにもう手遅れだけれど。
「そんな事は無いよ? アヤは月が嫌いなの?」
「違うけど……」
見上げれば、ユキの言った通りに、半月より少し太っているくらいの中途半端な月がある。中途半端な形ながらも、くっきりと光を放ってそれは確かに綺麗だった。
「ね? 綺麗だろう?」
「まあ……うん」
気の抜けた相槌を打ちながら、ユキがやけに嬉しそうなのはなんでだろうと考える。あたしはユキがどういう文化で育ったのかを知らない。だからユキの文化では、月をこうして見る事には特別な意味があるのかもしれない、と思う。まあ確かに、ファンタジーの世界で魔法と月が密接に関わっているという設定があることはよくある話だ。
月の下でダンス。隋分ロマンチックなシチュエーションだ。ダンスと言うより、単にくるくる、それもスローペースで回ってるだけだけど。今こうしているあたしたちの姿は、きっと誰にも見えていないんだろうけれど、もし見えていたらどんな風に見えるのだろう。
あたしは想像する。青々とした夜の学校で、手を繋いで回る制服姿の女の子と黒いマントの少年。頭上に月。校舎を背景に、ぽつりと空中に浮かんでいる。アングルは校庭西端のあたりがいいかな。サッカーのゴールポストのあたりから見た感じが多分丁度……
「アヤ」
「え?」
ユキに名を呼ばれはっとする。ユキが不満そうな顔をしていた。
「何?」
「何? じゃないよ。アヤはどうしてそう、すぐ自分の世界に入っちゃうんだ。今日だけで僕が何回こうやって声をかけたと思ってる?」
「あ、と、ごめん」
前にも似たような怒られ方をしたことが何度もある気がする。どうやらあたしは、注意力散漫な人間であったらしい。
「まあ、そういう所も、僕は好きだけどね」
さらっと言われたユキの言葉にまたくらりと眩暈がする。同じ事を、ユウも……
ユウもやっぱり、好き、だとかそう言う言葉を照れることもなくさらりと言える人だった。
どうして、こんなに重なるんだろう。
+―+―+―+―+
空中を滑るように、二宮金次郎像の前まで行く。ブロンズ製の二宮金次郎像は、変わらず手に本を持ち背に薪を背負って、如何にも歩いている途中、という姿勢だ。表面はゴツゴツしている。そこまで精緻につくられた像では無かった。
「これが歩くの?」
「怪談ではね」
ユキの問いにそう答えれば、
「じゃあ、歩かせよう」
とユキが像をステッキで示す。
……今更だけれど、そんなに魔法をひょいひょい使っていいのだろうか。真夜中だし、多分人も見ていないだろうとは思うけれど、ここは校庭だ。学校の周りに民家が無いわけでもないし、誰かに見られる可能性は無いわけではない。
気軽なユキの様子には、心なしか黒猫のアルもあきれた様子で、ユキの足元で尻尾でユキの足を叩くと、にぃと鳴く。
「分かってるよ。約束したじゃないか。アル」
唇を尖らせてユキが言う。さっきアルはユキに何か話しかけたらしい。
そう言えばこの子、いつの間にユキの肩から降りて居たんだろう。音楽室でピアノを弾いていたときにはまだユキの肩に乗っていたと思う。さっき空中を浮いていたときには居なかった…気がする。
人の肩の上に載った猫なんて、かなり注意を引きそうな気がするのに、この子の存在感は最初からやけに薄い。いくら小さくて、黒い毛並みがユキのマントに溶け込んでしまうとは言っても、変だ。
「アルは何者なの? ただの猫じゃないよね?」
あたしが聞くと、ユキは答えた。
「アルは僕のパートナーだよ」
その言葉に合わせるかのように、アルがにゃあと鳴く。ユキが笑った。
「よろしく、だってさ」
そっと、ユキの手がアルの小さな体を持ち上げる。あたしの目の前にアルを差し出した。
「触っていいの?」
アルがにぃと鳴く。
「少しなら、いいってさ」
お言葉に甘えて、あたしは手を伸ばした。顎を撫でるとアルの目が細まって、ゴロゴロと喉がなる音が聞こえて来た。アルの毛並みは艶やかでフワフワしていて、そして真っ黒だ。額に模様が付いているわけでもない、本当に曇りのない真っ黒だ。
可愛い。
「アヤは猫好き?」
「え? いや、」
別に好きでも嫌いでもない、と言おうとしたときに、ゴトンッと大きな音があたりに響いた。
驚いて音がした方を振り向けば、二宮金次郎像が立っていた台座の下にうつ伏せになって倒れていた。その周りにはブロンズの薪が散乱している。いや、あれってバラバラになるようなもんだったっけ? 薪同士は溶接というか、くっついてた筈だ。
像がフルフルと微かに震えながら起き上る。手に持った本の無事を確かめて、それから周囲の薪を拾って器用に背中に収めた。
「……」
ああ、そう言えば、魔法をかけてたんだっけ。
その光景に少し呆けて、ようやくそれに思い至る。本当に動き出すとは。今まで使った魔法の中で一番これが魔法っぽい。今まで使った魔法と言えば、あたしの怒りを落ち着かせたり、目を塞いだり、物が触れるようにしたり、ピアノの蓋を……あ。
「そういえば、ユキ、ピアノの蓋、元に戻した?」
「勿論。ちゃんと鍵もかけて置いたよ。アヤが飛び出しちゃってから」
良かった。ちゃんと戻して置いてくれたんだと思うのと同時に、後半の台詞にほんのりとあてつけがましさを感じてむっとする。けれどもあたしがそのあたりを考えずに飛び出してしまっていたことは事実だ。
「それはどうもアリガトウ……」
あたしの口調に滲むニュアンスに気付かなかったわけでもなさそうなのに、ユキ平然と微笑んだ。
「どういたしまして」
この子本当にメンタル強い。言いかえれば図太い。
「ほらほら、折角動かしたんだからご覧よ。ニノ君を」
「……ニノ君?」
「あ、二宮金次郎像、略してニノ君ね。だって長いだろう。そのまま呼ぶと」
「それは確かにそうだけど……ああ、うん、まあいいや……」
何かどうもずれてる気がするけれど、確かに長いしニノ君は言いやすい。駄目かと言われたら全然ダメじゃない気がするし。どうせだからあたしも使おう。
少しあたりを見回してニノ君を探せば、そう遠くには行っていなかった。校舎と校庭の間にある小道を変わらず本に目を落としたまま歩いている。その姿は……
「危なっかしいね」
ユキが言った。あたしは頷く。確かに、ニノ君の歩みは危なっかしい。
先ず真っ直ぐ歩けていない。真っ直ぐ歩けていないから、少しずつ道の端に近づいて行ってしまう。そうして道の、石畳の外に出てよろけては、軌道修正して歩き出すのだけれど、結局それも徐々に徐々に反対側の道の端に近づいて行っているだけだ。おまけに足元不注意だ。少し出っ張った石畳があれば、それに躓いてよろける。
「本読みながら歩くと、ああなるよね……」
思わず言ったあたしにユキが嬉しそうに言った。
「お? アヤは歩き読書の経験者かい?」
「違うよ。あたしじゃなくて、」
ユウだ。ユウがそう言っていた。ここで、二宮金次郎像を見ながら。
『二宮金次郎のあれは、あの姿が素晴らしいとされているから、ああやって学校に飾られているんだろう?』
『向学心を持てってことでしょ?』
『納得がいかないんだ。だって僕は怒られた』
『怒られた?』
『小学生の時。学校帰りに国語の教科書を読みながら帰ろうとしたら校門で先生に呼び止められて、やめろと言われた』
『本を読みながら歩くのは普通に危ないんじゃない?』
『まあね。実際に、読みながらだと真っ直ぐ歩けないんだ。足元も見えないから躓きやすいし。逆にちゃんと歩こうとすると本に集中できない』
『だったら怒られるのも納得でしょ』
『納得がいかないのは銅像のあの姿が褒められる理由だよ。薪を背負いながら読書って、絶対にどっちも効率悪いだろう。それに危ない』
『時代背景が違うんだからさ……』
『つまりあれは現代に合った像ではない』
『はあ?』
『だってあれが良いとされるなら歩きスマホは良い事にならないか?』
『あれはだって、LINEとかゲームでしょ?』
『調べものだったらいいとでも? だったら僕の国語の教科書はどうなる? そもそも歩きスマホが駄目だと言われているのは、危ないからだろう? あの像は危ない事を推奨している事になるじゃないか』
『……誰もそこまで考えないよ。どういう難癖? 罪も無い銅像に』
『危ないからと止められるのは分かる……だからと言ってあそこまで怒られるほどの事か? しかも下校の時の校門に足止めされて延々と。下校中の他の子たちがチラチラ見て来るし』
『あそこまでとか知らないよ。結局それ、怒られたことを根に持ってるだけじゃん。しかも小学生の頃の。二宮金次郎関係ないし』
『二宮金次郎は歩きながら本を読んでいるじゃないかと反論したら生意気だと怒られたんだ』
『嫌な小学生だ……それでキレる先生も嫌だけど』
真夏の校庭で、太陽の強い日差しの熱をため込んだブロンズ製の二宮金次郎像に触れて、熱いと笑い会って、あとは二人でそんな、どうでもいいような事を話し続けていた。
ああ、やっぱりここにも、ユウとの思い出が落ちている。
+―+―+―+―+
ユウは頭が良かった。天才とかいう程ずば抜けていたわけじゃ無かったけれど、勉強が苦にならないタイプだったのだ。学校の成績は常に学年上位だったし、宿題、課題もそつなくこなす。授業中寝たりもしないし、校則だって他の生徒たちよりはるかに守っていた。有って無いような扱いになっている制服の着方についての校則も、ユウはいつもしっかりと守っていた。
これだけだと、まるでユウが優等生だったみたいだけれど、そうじゃない。先生たちのユウへの扱いは、優等生に対するそれというよりもむしろ、腫れ物を扱うかのようだった。
文語的と言うか、芝居がかっているというか、大人ぶっているというか、少なくとも同年代からは浮く話し方。授業中にどうでもいいような事に突っ込みを入れて、変な屁理屈で先生に難癖をつけて授業を中断させたり、すぐに嘘だと分かるような荒唐無稽な話を滔々と語りだしたり。そこまで頻繁ではなかったけれど、そう言う理由で、先生の中にはユウの事を嫌いぬいている人も居た。
そんなユウだから、一部の生徒たちの間では「中二病」と陰口を叩かれていた事をあたしは知っている。けれど、それはごく一部だった。
勿論、ユウを嫌っている人たちは居たけれど、集団から浮いた人間が叩かれる傾向にあるあたしたち中学生の社会で、ユウは特に攻撃される事もなかった。理由は多分いくつかあるだろうと思う。
例えば、ユウのお父さんがお医者さんであることが有名だった事とか。授業参観で来たユウのお母さんが素晴らしく美人だった事とか。それでもユウが身内自慢をすることが無かった事とか。ユウの頭がいい事とか。
それに、ユウにはそんな自分のキャラクターについての迷いが無かった。
同級生の面倒くさい喧嘩に巻き込まれても、先生の嫌味に晒されても、ユウは揺らぐことなくユウだった。思ったことははっきり言うし、変な屁理屈だって誰に対してだって言う。変な嘘を吐くのはどちらかというと仲のいい子に対して多かったけれど。
「虚言癖の気があります。」だなんて通知表に描かれても、笑ってそれをあたしに見せた。「そこまで性質の悪い嘘はついてないつもりだけどね」と、そう笑って。その顔は思い出せないけど……
そんなユウに、あたしは憧れていた。
ユウの事を思い出すのにつられるようにして思い出した自分自身の事を考えてみれば、あまりいい人間では無かった思わざるを得ない。
成績は中の上くらいで、大して頭も良くなかったし、努力する事は嫌いだった。それほど褒められた頭をしていない癖に、まわりの子たちが子供っぽく思えて、どこかで自分を特別だと思っていた。だから女の子同士のグループ付き合いにも、興味が無いと言うスタンスをとって、自ら望んで孤立していた。
ユウだってある意味孤立していたけれど、基本的に誰に対しても気さくだったし、人には好かれていた方だった思う。ちょっと特殊なその性格も「面白い」と受け入れられていた。
あたしは、孤立しても尚、中学生社会のヒエラルキーや人間関係の中で、自分が今どこの位置にいて、どのくらい安全なのかというのを気にせざるを得なかった。孤立してもいじめられない立ち位置。適度に、いくつかのグループにラインを作りつつ、でも少し距離を置いて……とそんな風に。綱渡りの様に。
そんなあたしにとって、ユウはとても自由で恰好よく思えたのだ。
どうして、そんなあたしとユウが友達になったんだろう。あたしに自分からユウに声をかけるなんて芸当ができたとは思えない。だったらユウからあたしに?
思い出せない。
なら、この先それも思い出すのだろうか。
+―+―+―+―+
気が付けばニノ君の姿が見えなくなっていた。
「ニノ君は?」
ユキにそう聞くと、ユキが呆れたようにあたしを見た。
「しばらく前から向こうに行ってるよ。」
「それ、大丈夫なの?」
「この学校の外には出ないから大丈夫。まあ、そのうち戻ってくるだろう」
ニノ君が動いてはユキの魔法によるものだ。そのユキがこう言うからには大丈夫なんだろう。そう思うしかない。
そもそもあれはどういう魔法なんだろう。本を読みながらフラフラ歩いていたのも、それはユキそういう風に動かしているからなんだろうか。それとも、ニノ君の動きを決めているのは何か別の要因なんだろうか。物体に生命を与える、とか? それだと少し大げさな気がする。
「そう……」
そんな事をつらつら考えながら、曖昧な声を漏らしたあたしに、ユキふっと含み笑う。
「アヤはまた自分の世界に入ってたんだね。それとも、何か思い出した?」
「……まあね」
「それは良かった。何を思い出したの?」
楽しげに聞いて来るユキの顔を見返した。
「……友達の事」
「友達?」
「そう。一緒に、夏休みの自由研究をやってた、友達」
「へえ。仲が良かったんだね」
そう言うユキが妙に白々しく見える。口元は抑えきれないとでも言うように綻んでいる。随分嬉しそうにしているのは、それはあたしがこうして順調に……かどうかは分からないけれど、思い出していっているからなのか。
「うん……親友、だと思う」
あたしにとって、ユウは確かに特別な友達だった。一緒に居る事が特別に居心地良くて楽しくて、憧れていて、大好きだった。
ユキがふっと目を細める。それはやけに楽しそうだったついさっきまでと少し様子が違って、どこか、そう…寂しそうだ。
けれどもその寂しそうな表情は直ぐに見慣れた、からかうような笑い顔に置き換わる。
「それはいいね」
こうやって表情の切り替えが早いのも、弱い表情をちらりと覗かせては隠すのも、ユウと同じだ。ユウもそうだった。
ユキの表情に、言葉に、あたしはユウを思い出す。
「ねえ、ユキ。あんたはあたしの事を知ってるの?」
案内人だと言うユキは、ユキが案内すべき幽霊であるあたしの事をどれだけ知っているんだろう。名前すらもあたしは自分で思い出して名乗った。ユキはあたしに、幽霊としてあたしがどうであるかは教えてくれても、生きていたあたしがどうであったかは知らないかのように振舞っている。
でも本当に、ユキはあたしの事を知らないんだろうか。ならばどうして、ユウと同じ曲を弾いたんだろう。どうして、ユキが動かしたニノ君は、ユウが言っていたみたいにふらふらと頼りない足取りだったんだろう。
ユキは、あたしの事を、そしてユウの事を知っているんじゃないんだろうか。
「知ってるよ? アヤはアヤでしょう?」
ユキがそう言う。ユキ自身の事を聞いたときと同じ、はぐらかすような答え方。だけれど今回ばかりは、そうあっさりはぐらかされるつもりは無い。だからさらに聞く。
「あたしが忘れちゃった事も、ユキは知ってるんじゃないの?」
ユキが皮肉気に唇の端を持ち上げて微笑む。
「どうしてそう思うの?」
「ユキの行動、さっきからあたしの思い出と、重なる。」
ユウに似ていることまでは言わずに、あたしは言った。ピアノの曲の事、ニノ君の事。少しは動揺するかもしれないと思ったけれど、ユキはあっさりと肩を竦めた。
「そりゃあね。だって僕はアヤの思い出を取り戻す手伝いをしてるんだから」
これは、どうとらえればいいんだろう。
「じゃあ、ユキはあたしの事を知っていて、敢えて思い出させるような事をしてるって事?」
ユキはクスクスと笑いながら、唇に指を当てる。
「半分正解」
「半分?」
「そう」
「どういう意味?」
「僕は確かに、アヤの事を知ってるよ」
「……じゃあ、何が違うの? ユキがあたしについて教えてくれれば、それでいいじゃない。どうしてこんな事をしてるの?」
「そこはお約束と言うやつで、アヤが自分で思い出さないと意味が無い」
楽しげなユキの笑い声に、どうしてかぞっとする。あたしが知らないあたしの事を、ユキが知っているという事。そして、あたしはユキに誘導されるようにして思い出していっている。
「自分で……」
「自分が忘れている事を、人からただ聞かされたって、それは思い出した事にならない。そうだろう?」
「実感が無い、って言う事?」
「それも正しい。聞かされた内容は単なる情報に過ぎない。それは思い出じゃないだろう?」
「……だったら名前は? あたしの名前ぐらい、教えてくれてもよさそうな物なのに」
それすらもユキはあたしに思いださせたのだ。
「同じだよ。アヤ自身がそれが自分の名前だと認識しなければね」
「……」
確かに名前を忘れた状態で、あんたの名前は「アヤ」だと聞かされても、「そうなんだ」と思うだけだ。確かにそう呼ばれていたという記憶を思い出して初めて、あたしはそれが真実自分の名前だったのだろうと思えるだろう。
情報として聞かされるのと「思い出す」事が違うという事は、分かる。
「……それこそ魔法で、思い出させてくれればいいんじゃないの?」
あたしの感情にすら影響を与える魔法だ。それだってできるんじゃないだろうか。
「魔法なら今使ってるんだよ。これこそが、アヤの思い出を取り戻すための大規模な魔法なんだ」
「これ?」
「今、アヤと僕が一緒に居る事。その全てが、魔法なんだ」
ユキの言っている事は、少しだけ分かるような気がするけれど、分からない。結局あたしは、ユキが何者かが分からないのが不安なのだ。案内人というのがどういう存在で、何のためにあたしと今こうしているのか。全ての幽霊がユキのような存在に導かれて、こうして自分を思い出していかなければならないのか。
それに、ユキの今の言葉は、まるでユキ自身が魔法なんだと言っているかのようにも聞こえる。下手をすればこの学校すらも。全て、あたしが通っていた現実の学校では無い全く別の、それこそあたしのイメージの中だけの学校なのかもしれない。もしこれがそんな夢のような物なのだとしたら、これが覚めるとあたしはどうなるのだろう。
死んでいるというのはどういう事なんだろう。死んでる今でも、分からない。
「あまり考え過ぎるのは良くないよ」
ユキが優しい声であたしに囁く。柔らかく頭を抱きしめられた。抱え込まれた胸元からは、心臓の音が聞こえない。あたしの脈はあるのに。
「ユキは何者なの?」
聞いた所できっとまともな答えは返って来ない。あたしが知りたい答えは。
「僕は迷子が帰るべき場所に帰れるようにするためにここに居る」
帰るべき場所とは、どこなんだろう。死んだあたしが帰る場所は、天国とか地獄とかあの世とか黄泉とか言われるどこかなんだろうか。
思い出せば、あたしはそこに至る道を見つける事ができるの?
「思い出せば、却って未練が出るんじゃないの?」
今もう既に、ユウの事を思えばがぼんやりと苦しい。あたしはもう、ユウとああやって馬鹿な話をすることはできないんだって、そう思うと。
「思い出さなければ選べない」
ユキの言葉に、あたしは目を瞑る。目を瞑ると途端に感覚そのものが曖昧で頼りなくなる。そんな中で頭を抱えるユキの腕と、頬に当たるマントの感触だけがリアルだ。
「選ぶ? 何を選ぶの?」
「今はまだ、選択の時じゃない」
目を瞑ってしまえば自分の存在すら怪しい。目裏の闇にふっと自我が融けてしまいそうだ。それでもあたしを包むユキの存在は明確で、あたしを確実にここに繋ぎとめる。
「ねえ、アヤ。思い出すのが辛いならやめていいんだ」
ユキが甘く囁く。ずっとここに居ていいんだよ、と。
本当に、ユキの目的は何なんだろう。
「思い出すよ。……思い出したい」
あたしの事を。あたしの友達の事を。
目を開けると、ユキの纏う黒いマントの布地が見えた。ユキの胸を押しのけて離れると、ユキが離れ際にあたしの頬を撫でる。
「なら、次の場所に行こうか」
あたしの手を引き、ユキが言う。次はどこにする? とユキに聞かれる前に、あたしはユキに言った。
「次の行先はユキが決めて」
言いながらユキの目を見る。もしかしたら睨んでしまっていたかもしれない。でも、ユキがあたしの事を知っているというならば、七不思議の事も全て知っている筈だ。
これに、ユキはどう答えるんだろう。あたしが決めなければ意味がないと言われたなら、大人しく次の行先を決めるしかない。
けれどもユキ微笑んで、あっさりと言った。
「じゃあ、美術室にしようか」
そこには何があるんだろう、と思いながら、あたしは頷く。
去り際に見てみれば、いつの間にかニノ君は元のように台座の上に立っていた。




