28:さようなら
辺りには、不気味な静けさが漂っていた。
メルニャ含め、里に残って戦っていた獣人達は、武器を手に警戒したまま、魔人に注意を払っている。
先ほどまでとは明らかに様子が違う魔人に対し、どう動いていいのかがわからないでいた。
「なにが、起きた」
その場にいた獣人の気持ちを代弁するかのように呟いたのは、メルニャだった。
片腕を失い、切り傷だらけの身体でありながらも、戦意は失わずに両の足で立っていた彼も、魔人の様子がおかしいことに気付いていた。
そして、様子がおかしくなっていたのは、魔人だけではない。
「リオ?」
ドサリと何かが落ちる音。それは、里にいた唯一の人間であるリオが、力なく地面に倒れる音だった。
傍らにいた緑のスピリットが、慌てたようなその顔の近くにいき、ぺしぺしとその頬を叩いているが、リオはそれになんの反応も示さない。
メルニャは、魔人に注意を払いつつも、地面を蹴ると一息で彼のそばまで駆け寄った。
「リオ、どうした! リオ!」
うつ伏せに倒れていたリオを、仰向けにして身体をかかえる。
目立つ外傷は見当たらない。頭を打ったような形跡もない。しかし、リオは完全に気を失っていた。
心配そうにその胸の上に乗るサピィは、力なくたしたしとその身体を叩く。意味が無いのは理解しているようで、その表情はかつて無いほど悲しみにくれていた。
「くっ……」
原因は何かと考え、真っ先に思い当たる魔人へと再度視線を向ける。
が、当の魔人もまた、何かに苦しめられているかのように、その顔を歪ませていた。
黒いモヤは瞬く間に霧散していき、手に持つハンマーも取り落としたまま拾おうともしない。
――いや、拾おうとして、何かに邪魔されているかのよう。
その様子をしばらく観察した後に、メルニャはリオを背負って魔人から距離を取る。
そして、無事に立っていた一本の木にその身体を寄り掛からせると、その頭を軽く撫でてから、魔人へと身体を向けた。
(確信は持てないが……リオをと彼女に同時に異変が起きたのが偶然とは思えない)
もしリオが、その身を削って魔人の動きを縛ってくれていたならば。
そのチャンスを、ここで無下にする訳にはいかない。
「フッ!」
痛む身体にムチを打ち、背後に回り込んだメルニャが、残った腕をがら空きの背中に突き出す。
が、流石に魔人も無抵抗のままではない。
「ふざ、けない……っで!!」
余裕の無い叫びが響いた直後に、更にその身体の異形化が進む。
背中に走っていた血を思わせる赤い筋が急激に膨らみ、破裂する。
おびただしい量の血液を撒き散らしながら現れたのは、どす黒い朱で染められた、翼のようなものだった。
「――くっ!」
飛び散る血液を目に食らい、歪な翼に打たれ後退を余儀無くされるメルニャ。
片目が被害を受けたものの、視界を完全に奪われるのまでは防いだ彼は、即座に体勢を立て直して追撃に備える。が、魔人は頭を抱えるばかり。
――やはり、何かしらの異常が起きているのは間違いない。
そう判断したのはメルニャだけではなかった。
「撃ェ!」
「!?」
響いた声。同時に、風を切り裂き放たれた複数の矢が、魔人の身体に突き刺さる。
羊と山羊の獣人が、三本の矢をまとめてつがえ、そして放つ。総計十二本の矢が、灰色の身体に生けられた。
「害悪風情が!」
頬に受けた矢を抜き去り、叫びに呼応するかのように、またあの黒いモヤが魔人の身体からわき上がる。
しかし、その動きは見るからに緩慢で、二人は即座にその場から飛び退いた。置き土産に放たれた二本の矢は翼に弾かれるものの、魔人の顔からは完全に余裕が消えている。
それどころか、行動を起こす度に、魔人は何かに苦しめられているようだった。
そこまでを確認し、メルニャは声を張り上げる。
「今が好機だ! 遠距離から攻撃を浴びせろ! 魔術でも弓でも何でもいい、近付かないで勝負を決めるんだ!」
無くした右腕。感覚だけは残るその右手を握り締め、遠距離の攻撃方法を持たない自分は離脱する。
懐に忍ばせておいた痛み止めを口にすると、出血で眩みそうになりながらも、未だ意識を失ったままのリオの元へと向かった。
「凄い汗だな……リオも、戦っているのか」
苦痛の表情が見える訳ではない。ただ、眠っているだけに見えるが、額に滲み、頬に流れる汗の量が、決してそれだけではないと語っている。
袖で汗を拭おうとして、しかし血塗れの自分の服ではかえって汚すだけだと気付いて手を下ろす。
下ろした視線の先では、指先をその小さな手で包むサピィの姿。彼女もまた、必死になって自分の主を守ろうと祈り、戦っていた。
負けられない。そう強く覚悟を決め直したメルニャだったが、ここで、不穏なモノを見つけてしまう。
「なんだ?」
閉じられた右目。目尻に浮かぶ、黒い何か。ゴミかと思ったメルニャだったが、つぅ、とそれが黒い筋を作り、首筋まで伝っていく。
驚きと混乱により目を見開いたメルニャ。先ほど汚れるから、と下ろした手を伸ばし、それに触れようとした、その瞬間。
「その、子供が、原因か、ぁ」
「!! しまっ」
衝撃。
翼で払われたとは思えない威力で、メルニャは呆気なく吹き飛ばされる。
辛うじて意識は保ったものの、歪む視界で捉えた光景は、魔人がリオの首を掴んで持ち上げたところで、
「リオを……離せ!」
崩れ落ちそうになる膝に喝を入れ、力を振り絞り魔人へと飛び掛かる。
しかし、魔人は悪鬼の形相で再度翼を振るい、その風圧のみでメルニャを吹き飛ばした。
受け身も取れずに地面に転がされたメルニャに見えた景色は、自分と同じように転がる仲間達の姿。
どうやら一命こそとりとめているようだが、メルニャ同様、最早立ち上がるのも困難な状態までに追い詰められていた。
「良い、身分じゃあ、ないですかぁ。あんな、に、必死に、守ろうとして、くれるなんて」
リオの左目から流れる黒い涙の量が増え、魔人の両目からも、同じようにそれが流れ始めた。
魔人の苦痛はピークに達しているようで、メルニャを弾き飛ばした翼が、カラカラに枯れて崩れ落ちていく。
「同じ、子供。私と同じ。なの、に、何でここまで、違う?」
魔人の力ならば瞬く間にリオの首なんて握り潰せる。が、それをしないのか、もしくは出来ないのか。
憎しみの籠った視線でリオを睨み付けながらも、どこか泣き出しそうな表情で、苦しげに言葉を紡ぐ。
「味方なんて、いない。敵しか、いない。人間なんて、害悪」
目に見えて、首を締める手に力が入った。ゴポリと嫌な音をたてて、魔人の吐いた血液が、リオの身体を染める。
赤かった瞳は、最早全てが黒く染まり、ぽっかりと穴が空いているかのように見えた。
「おんなじ、害悪、なら、せめ、て」
そして、その手がリオの首を、命を、握りつぶそうとした瞬間。
――なんて、重い空間なんだろうか。
意識を失った、と思った次の瞬間、僕は妙な浮遊感を感じて目を開いていた。
だが、何も見えない。
確かに目は開いているのに、目の前は真っ暗闇で、自分の身体すら確認出来ないくらいだった。
――……重い。空間が粘ってるみたいだ。
地に足はついていない。多分だが、背中を下にして、僕の身体は浮いている。
一応、身体は自由に動かせる。が、粘度の高い水の中を泳いでいるかのように、動かす身体に抵抗があった。
そして、重いのは、身体だけではなく。
――重い……。何だろう、この、何もかもが嫌になりそうな……。
目蓋を閉じて、重たい身体を引き寄せて、膝を抱えて丸くなる。
『信じられるものなんてない。
味方なんていなかった。
敵しかいないと思い知った。
全てが害悪と割り切った。
味方面してくる人間も。
のうのうと生きる人間も。
命令してくる人間も。
その敵である獣人も。
生きとし生けるもの全てが害悪だ』
聞こえてきた声に、ストンと心に理解が落ちてくる。
これは、どこまでも沈んでいってしまった少女の心の奥底に溜まった想いだ。
『力があった。害悪を狩り殺せるだけの強大な力だ。必死で鍛えた。ただただ鍛えた。一年で、私は高みに登り詰めた。同時に、獣人は悪だと、害悪以外の何物でもないと教え込まれた。害悪が害悪を語っている。滑稽だった』
――この空間は、きっとその少女の心の闇、そのものだ。
『親に捨てられた。国に拾われた。使い捨ての駒にされるのだと教えられた。力があるのは、ここでわかった』
――時系列もめちゃくちゃに、少女の呪詛にも似た声が、粘つく空間全てから響いてくる。
自我が薄くなっていくのを感じて、更に強く、小さく身体を丸める。
『私を捨てた害悪は殺そう。私を犯した害悪も殺そう。私に唾を吐いた害悪も殺す。私を拾った害悪も、私を育てた害悪も同罪だ。何が良心だ。そんなもの、この世には存在しない。全ては害悪。上っ面だけ綺麗な嘘で塗り固めただけ。害悪は殺す。ただそれだけが、私の持つ真実だ』
『生きている意味がわからない。害悪だらけのこの世界。生きるだけで害悪足り得る中で、私は何を糧に生きているのか。わからない、わからない、わからないわからないわからない』
『害悪が害悪を殺すらしい。どうやら、私が計画の鍵らしかった。私の命をもって害悪を根絶せしめることが、国から降りる最後の命令だった。ちょうどいい。害悪を狩り尽くしたら、次はお前らだ。害悪をひとつ残らず潰すのが命令ならば、私は喜んでこの世最低最悪の害悪となろう』
『あぁ、なんて充実感! 皮肉なことに、最後の最後で私は自分が生きることの意味がわかった気がした。ここまで私と真正面から殺し合ってくれたのは、目の前にいる害悪だけだ。あぁ、直ぐに終わって欲しくない。いずれ終わる命だとしても、今はただ、この殺し合いに酔いしれていたい!』
『痛い。苦しい。何故私が、何で私だけがこんな思いをしなければならないのか。痛いんだ! 苦しいんだ! なんで、誰も私に手を差し伸べてくれないんだ! 気味が悪いからか、子供の癖に無駄に魔術の扱いが上手いからか。だったらこんな力いらない。口調だって丁寧にする。だから、一度だけでいいんだ……私に、害悪以外の何かを、殺す以外の何かを!』
そこで、叫びは止まった。
そして、不意に身体が軽くなる。
粘ついた空間が消え、心に結び付いていた何かがほどけていく……いいや、繋がりが、途中でぶつりと千切れてしまった感覚。
この感覚には覚えがあった。これは、テイムが強制的に途切れてしまった時のそれと全く同じだ。
ならば、今途切れたのは……。
そこまで考えたところで、唐突に意識が薄くなっていく。
今度こそ、本当に、意識が消えていく――。
「チィッ、だいぶ手間ァ掛かっちまったな」
「早く里に戻るわよ」
「わかってるよ。おら、しっかりしやがれ」
森の中を走る三人、というゆりは、二人と一匹。
疲労困憊、といった様子のアルマに、少なからず息を切らしているベアクル。そして、大きな狐の背に倒れ込む形で乗っているフォッグの三名は、里に向かって移動していた。
「しっかし、まさかクグリが此方に来るとは思わなかったな……まぁ、それに助けられたのは確かなんだが」
「あの子らしいと言えば、らしい気もするけれど。逆にリオが危険になっていたら意味がないわ。得体の知れない反応もあるし」
「だから急いでんだろうが」
ちらりと、隣を走る狐のモンスター、クグリに視線を向けるアルマ。
主人を背中に乗せた彼女は、同じようにアルマを一瞥するも、すぐに前を向いて一段階加速する。
元はリオと共に里で戦っていたが、リオは彼女を途中で戦線から外し、主人の元へと向かうよう命じていた。
その時はまだモンスターの軍勢もそこまでではなく、だったら少なからず力がいるであろう場所に、とリオは判断していたのだ。
テイムこそ解けていないので、シンクロの恩恵は生きてはいるのだが。
しばらく走り、三人は何の障害もなく里へと到着する。
そう広くもない里だ。全員が、今の里の状況を、そして、一人の子供が置かれている危機的状況を目の当たりした。
「リオぉっ!!」
叫んだのは、アルマ。
度重なる魔術行使で、既に彼の魔力は空に近い。狐火ですら、手の中に小さな火種しか作れない。クグリもまた同様の状態で、即ち、近付かなければ何も出来ない状態だ。
――遠すぎる。間に合わない。
遠目からなお、リオの首にかかった手に力が籠ったのが確認出来た。
最悪の結果を目の前に、全てがスローになる錯覚を覚えたアルマ。
――その横を、牙を鳴らした狼が駆け抜ける。
正に、一瞬だった。
いつそこにたどり着いたのか。
いつ剣を振り上げたのか。
いつ、それを降り下ろしたのか。
全ては、鈍い音を立てたその瞬間に、結果だけをその場に残していた。
「か……かっ……」
魔人の身体。それを肩口からちょうど臍の辺りまでを両断した刃。それはそのまま身体に残っており、しかし、持ち手の部分が存在しない。
「…………」
振り抜いた格好のまま動かないクリスの手には、逆に根本から刃を無くした剣の姿がある。
彼女の圧倒的な力により振り抜かれた剣は、魔人の身体を両断するよりも先に悲鳴をあげて、そのまま折れてしまっていた。
真っ黒な瞳を動かし、身体を割った剣を確認した魔人である彼女は、
「ば、けもの、ね」
振り返り、ケタケタと身体を震わせて笑いながら、リオをクリスに投げ付けた。
どの道、彼女にはもう、首を締める力すら入らない。
リオを受け止めたクリスは、遅れて駆け付けたアルマにリオを預けると、背負った大剣を手に持った。ところどころにヒビが入ったそれは、誰がどう見ても限界だ。あと一撃でも衝撃が入れば、バラバラに砕けてしまうだろう
「あぁ、あ。作戦、失敗。あっけない、もの、ねぇ」
大剣を振り上げる。
魔人は、気にもしないで、動かない。
「わたしが、さい、ご。追っ手は、ないから。安心、なさい」
魔人は最後に、下手くそな笑顔を見せて。
「さようなら、私」
目を見開き、牙を剥き出したクリスから放たれた一撃の元。
大剣とともに、砕け散った。




