一人称文
警告:これはコメディーです。
今回、我が世界の創作神さま(作者)は都合により、逃亡しました。なので、かの神に代わりまして不肖ながらこの私が物語世界を構築させていただきます。
え、お前は誰かって?
敬うがいい。私こそが神である。
こちらにおはします創作神さま(書き手さま)方におかれましては、人称について悩んでおられますとか。ならば解説して差し上げましょう。
まずは一人称文。
これは現在ご覧の通り、物語の主人公そのものが語り手である文章でありますな。当然、『俺、私、拙者、我』など、一人称によって表されるものの書いた文章となる、だから一人称文。
こたび選ばれましたる私めは、創作神様の代弁者であり、その筆より零れ落ちた言葉の欠片であり、今回の物語における神! 全てを見通し、全てを創造し、全てを知るもの。
まあ、私めのような存在が語り手に選ばれることなど、本来はありえぬのです。なぜなら、感情移入がしにくいでしょう。あなたがた人間は我らのように伸縮自在の身体も、万里を一時に見渡す目も持っていないのだから、両腕を伸ばして月の表面を撫でるあの感覚を理解できようはずもない。であるからして、一人称の語り手にはごくごく平凡で、一般的な人間を選び出すことが多いのです。等身大の感情を描くのがコツでありますな。
ただこれだけのことが難しいとおっしゃられる御仁が、実に多い。いや、解らなくはありませんぞ。我が創作神もそれには毎回、頭を悩ませておられるのですからな。
己の統治する世界からもっとも凡庸な人物を選び出し、語り部にするべく脳内に直接カメラを仕込むのですが、神の奇跡をもってしても開頭は避けられませぬゆえ、どうしても命の危険がつきまとうのです。おまけに視神経にカメラを仕込む所業など、虫の脚を継ぐような難業であり、ここだけの話、年間5人は表舞台に立つこともなく、ただ廃人と化すのであります。
まあ、そのような物理的な危険を乗り越えましても、次の試練が待ちうけている。創作神さまによる、人生のシナリオの書き換えです。
考えてもごらんなさい。平凡な人物が生きる平凡な人生などに、物語としての価値がどれほどあるのかを。ああ、もちろん、平凡を描いた物語などいくらでもありますでしょう。だが、物語として切り取られた部分は人生の平坦な部分などではなく、物語として描く価値のある何らかの要素が付加されているはずなのです。
実例をご用意いたしました。アザとー様の世界の代表的な住人である、とあるスライムでございます。
“飯を食う。ただそれだけのことなのに、これほど心が浮き立つのはなぜだろう。そうか。目の前に座るあの妻に、今でも恋しているからだ。
俺は未だに、ユリをみる時に感じるこの感情を抑える術すら知らない。”
これはすべて、スライムの脳に直接書き込まれた情報を、皆様にお見せしているに過ぎませぬ。
今回、透ける身体を持つ生き物が相手でありますゆえ、改造に少々手間取りましたが、一人称文そのものは決して難しいものではないのであります。