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闇売という男


言葉にする前に、身体が先に動いた。  どちらが合図したわけでもない。二人は弾かれたように列を抜け、霧の中へと躍り出た。  背後を振り返る余裕などなかった。ぬかるむ地面を蹴り、ほとんど逃げるように、元来た方へと全力で走った。

 追いかけてくる足音はない。審判員や、あの無機質な背中の列から、罵声や制止の声が飛んでくることもなかった。ただ、どこまでも重い沈黙が広がっている。その何も言われない静寂が、逆に逃げ出した二人の背中を冷たく刺し、得体の知れない恐怖を煽った。

「はあ・・・はあ・・・」

 どれくらい走っただろうか。  無無は堪らず立ち止まり、泥に汚れた膝に手をついて、激しく肩を上下させた。  肺に流れ込む空気はひどく冷たく、喉を焼くような感覚がある。死んだはずなのに、鼓動だけがやけに騒がしく耳の奥で鳴り響いていた。


「流石に怖いて。そやさかい、一回戻ろ」

 無無の声は、情けなく震えていた。  あんな得体の知れない列に並んで、何を言い渡されるのか。天国か地獄か。その「清算」を受けるには、あまりに心の準備が整っていなかった。

 在山も、肩で激しく息をしながら、霧の向こうを見つめてぽつりと言った。 「・・・象が売れてないって言ってもさ」  それは、誰かに向けて放たれた言葉というより、自分自身に言い聞かせるような、頼りない呟きだった。 「『象売ります』って、電話かけてるんやもんな。・・・実際に、相手の耳元で、嘘の言葉を流し込んでたんやもんな」

 言葉にした瞬間、在山の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。  現世にいた頃は、電話越しの相手のことなど、ただの「カモ」や「数字」としか思っていなかった。けれど、死という静寂の中に放り出された今、自分が吐き出してきた空っぽの言葉たちが、ブーメランのように自分を追い詰めてくる感覚があった。


無無は腕を組み、苛立ったまま言った。

「そやかて、落ち着いてよう考えてみー。『象売ります』って言われて、誰が信じんねん」

 在山は、少し間を置いてから答えた。

「でもさ、『ほう、おいくら万円でっか?』って」

 言葉を選ぶように、続ける。

「ちゃんと、料金は聞かれた」

「そやさかい!」

 無無は、間髪入れずにかぶせた。

「その聞き方が、もう馬鹿にされてるやろ!」

 在山は何も返さなかった。

 反論できなかったのか、どこかで納得してしまったのか、自分でも分からないまま。


在山は胸を張るように言った。

「100頭買うたら、安うしてくれまっか?って、前向きに検討もされたんや」

 無無は目を見開き、声を荒げた。

「どこの誰が象100頭も買うねん!」

 在山はちょっと考え込む仕草をしてから言う。

「ライオンだって200頭買ってるって言うてたし。象を100頭飼うても、おかしくないやろ!」

「だから、そこも騙されてんねん!」

 在山はさらに説明を重ねる。

「象の身長は、りんご何個分ですか?って聞かれたこともあった。前向きに検討されてるやろ」

 無無は両手を振り上げ、ツッコミを叩きつける。

「そやさかい、キティと同じ測り方すんのがおかしいやろ! 馬鹿にされとるんや!」

 在山は肩をすくめ、得意げに言った。

「『りんご3個分です』って答えたら、信じてやんの。ワイワイ喜んどったで」

 無無は顔を真っ赤にして叫んだ。

「信じるかー! そうやさかい、馬鹿にされとるんやて!」


気配に気づいたのは、二人がまだ小競り合いをしている最中だった。

静かに近づく足音も、息遣いもほとんどなく、ただその存在がそこにあるだけで空気が少しざわつく。

「突然失礼します。天国か地獄のジャッジが、生前の行いだと思ってますか?」

声は抑揚がなく、耳に奇妙に残る。

在山は思わず振り返った。「あなたは・・・?」

肩先に、ポンポンと軽い感触が伝わる。しかし服の上からでも凍てつくような冷たさ――氷点下の鉄棒に触れたような、生気のない指先の冷気が骨まで染みた。

表情は変わらず、口角だけがわずかに上がった謎の笑み。目は笑っていない。

「まだ、天国か地獄のジャッジが生前の行いだと思ってる人がいるんですね」

無無は眉をひそめる。「天国か地獄のジャッジは、生前の行いでしょ!?」

闇売はゆっくりと、錆びついた歯車を回す


ように首を左右に振る。そのたび、首の奥から「ミシリ、ミシリ」という、人間からはおよそ聞こえない硬い音が漏れた。


 在山は、冷たさに震える肩をさすり、身を乗り出して問いかける。「で、あなたは・・・?」

答えは返ってこない。ただ、再び肩先にポンポンと指先の感触が伝わる。一度目より深く、冷気が血管を駆け巡り、心臓を一段ずつ冷やしていく。

表情は変わらず、口角だけがわずかに上がった謎の笑み。目は笑っていない。

二度繰り返された無機質な微笑みが、在山の背筋に悪寒を走らせた。

静かに首を左右に振るその仕草には、どこか重みがあった。

「天国か地獄のジャッジは、『闇』で決まります。心に闇を抱えた人は、この世界では幸せに過ごしてほしいという気持ちから、天国に送られているのです」

無無は眉をひそめ、呟く。「闇基準・・・」

在山は足をもぞもぞさせ、うろうろと落ち着かない。「ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい・・・」

無無も顔を見合わせる。「オレら別に闇なんかないしな」



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