第8話:試用ロール(インフラ整備者)
診療所の空気は、夜になると“薄く”なる。
血の匂いも薬草の匂いも薄まって、代わりに冷えた石の匂いが勝つ。呻き声は小さくなり、砂時計の音だけが目立つようになる。忙しさが消えたわけじゃない。人の体力が尽きて、声が出なくなるだけだ。
仮面の監査官は、診療所の隅で動かずに立っていた。
置物みたいに。けれど置物は、見ない。こいつは見ている。目がなくても、見ている。そういう“見方”をしている。
アヤメは入口の横に立ち、手帳の紙端を指で擦っていた。
書いて落ち着くはずなのに、今夜の文字は喉に引っかかって消えない。
“試用ロール:インフラ整備者(提案)”
試用。
提案。
餌。罠。救い。全部が混ざっている。
レイが隣で小声で言った。
「それ、受ける気?」
「……分からない」
本当だ。
受ければ、何かが変わる。変われば、救える範囲が広がる。
でも、変わればもっと見られる。もっと縛られる。もっと戻れなくなる。
治癒術師がこちらを見た。
「おい。何か相談してる暇があるなら、次の患者の列を——」
「すみません。今、整えます」
アヤメは反射的に答えて、列の札を確認する。歩ける者、寝かせる者、止血が必要な者。役割の布切れが機能している。
現場は、奇跡みたいに回っている。奇跡みたいに回っているからこそ、余計な試行で崩したくない。
——なのに、世界の方が「次」を投げ込んでくる。
視界の端で、READ窓が勝手に開いた。
監査官の近くでは、情報がにじみ出るみたいに増える。
【Audit channel:open (read-only)】
【Offer: Infrastructure Maintainer (trial)】
【Constraint: do not write / do not escalate】
【Action: accept / decline】
“書き込み禁止”。
“エスカレーション禁止”。
つまり、動けるけど改変はできない。できるのは整備、復旧、運用の範囲。
それでも、今の世界では喉から手が出るほど欲しい。
アヤメは息を吸った。
怖さが胸に詰まり、言葉が遅れる。だから、先に手順を作る。感情より先に手順を。
「レイ。受けるとしても、まず確認したい」
「何を」
「……何ができて、何ができないか。現場を崩さない範囲で」
レイは小さく頷いた。
悔しさが残っているはずなのに、彼女は今、勝ち負けの顔をしていない。理屈で生き残ろうとする顔だ。
「監査官に聞けるなら聞くべき。規定は言葉にすると縛りになる」
その言い方は、怖いくらい正しい。
規定は、言葉になった瞬間に“守らせる力”を持つ。人間の契約書みたいに。
アヤメは監査官へ近づいた。
一歩。二歩。足音が石に吸われる。監査官は動かない。仮面の光だけが淡く点っている。
「監査官」
呼びかけると、仮面がほんの少しだけ顔を向けた。
反応は遅い。だが確実にある。
「質問を許可する。簡潔に」
「試用ロール……インフラ整備者。受けた場合、何ができますか」
仮面の口元が動くでもなく、声だけが返る。
「許可されるのは復旧・点検・負荷分散の指示。制限は書き込みと権限昇格。対象は指定されたノードのみ」
「指定されたノードって?」
「診療所水路接続点、周辺灯火網、港門結界。現在の障害に関連する箇所」
アヤメの喉が鳴った。
全部、今困っている場所だ。
そして——母が関わっていた可能性が高い場所。
「……それをやると、回復は安定しますか」
「医療サービスのクールタイムは別系統。だが帯域の改善は間接的に影響する可能性がある」
「可能性、じゃなくて……」
「保証はしない」
保証はしない。
機械の言葉は、いつもそこが冷たい。
でも、可能性があるなら——やる価値はある。
ここで断れば、現場は“今のまま”の不安定で続く。
受ければ、現場は“別の不安定”に移る。監査の視線が増え、責任が増える。
アヤメは手を握りしめた。
道具袋の奥で、欠片が熱を持っている気がする。まるで「行け」と押してくるみたいに。
「……受けた後、やめられますか」
「試用は時間制限。期限終了で自動解除。違反時は即時解除」
「違反の定義は?」
「規定による」
やっぱり冷たい。
でも、期限があるなら——戻れる可能性がある。
レイが後ろで小さく息を吐いた。
彼女も緊張している。理屈の顔をしていても、怖いのは同じだ。
アヤメは目を閉じ、短く考える。
・受ける → できることが増える。
・断る → 現場は不安定のまま。
・どちらでも監査は続く。
なら、増えた分で現場を守る方がいい。
アヤメは目を開け、READ窓の“accept”を意識で押すようにした。
指で押すボタンじゃない。けれど、意思を向けると反応する。そういう手触りがある。
「……受けます」
仮面が答えた。
「受理。試用ロール付与を開始」
視界の端で、白い文字が流れた。
【Role granted (trial): Infrastructure Maintainer】
【Permission: READ / EXEC (limited)】
【WRITE: locked】
【Duration: 01:00:00】
【Audit: active】
一時間。
短い。短いけれど、一時間あれば人は死ぬし、生きる。
アヤメの目の前が、少しだけ変わった。
世界の輪郭が増える。診療所の壁の向こうに“線”が見える。見えるというより、感じる。石の中に水が走る感覚。灯りの網が街に張り巡らされている感覚。港門の結界が、遠くで脈打つ感覚。
そして、その線の上に“赤”が点在していた。
赤は恐怖じゃない。原因と対処の入口だ。
【Clinic waterline junction:degraded】
【Cause: clog / pressure drop】
【Action: flush / reroute】
【Risk: overflow】
詰まり。圧低下。
洗い流すか、迂回させる。
溢れのリスク。
——母の仕事だ。
胸がきゅっと締まる。
泣きたいわけじゃない。けれど、涙の代わりに手順が浮かぶ。母がやっていたことは、派手な光じゃない。水が出ること。人が洗えること。傷口を清潔に保てること。生活が回ること。
治癒術師が叫んだ。
「水が足りん! 布を洗えない!」
「……来た」
アヤメは反射的に動いた。
診療所の裏手にある魔導水路の点検口へ向かう。足が勝手に道を知っている。母に連れられて歩いた記憶が、匂いとして残っている気がした。
裏手の点検口は、石の蓋で塞がれている。
重い。普段なら男手が必要だ。だが今、アヤメの視界に白い表示が出た。
【Access: granted (trial)】
【Tool: release latch】
ラッチ。留め具。
石蓋の端を探すと、確かに金具があった。今まで気づかなかった形。アヤメはそこに指をかけ、捻る。
「……開いた」
石蓋が、驚くほど軽く持ち上がる。
下から冷たい空気が噴き出した。湿った土の匂いと、微かな魔力の匂い。水路の暗い喉が口を開けている。
アヤメの視界に、流れの状態が“帯”として見える。
太い帯は順調。細い帯は圧が低い。赤い点は詰まり。
【Clog location: 3m downstream】
【Action: flush】
【Warning: overflow】
「フラッシュ……洗い流す」
アヤメは周囲を見回し、桶を見つけた。診療所の裏には、もともと水汲み用の桶が置いてある。
見習いが駆け寄ってくる。
「アヤメさん、何してるんですか!」
「水路が詰まってる。洗い流す。……手伝って」
見習いは戸惑いながらも頷いた。
役割が決まれば動ける。今はアヤメが役割を作る番だ。
「桶に水、半分。勢いをつけて流す。合図したら一気に」
「でも水、今……」
「残ってる分でいい。圧を戻せば、あとで増える」
アヤメは水路の縁に膝をつき、視界の“Action: flush”に意識を合わせる。
EXEC。実行。
でも書き込みはできない。改変ではなく、操作だ。
「……フラッシュ」
言葉に出すと、指先が熱を持った。
水路の中の魔力が、わずかに渦を巻く。風が吸い込まれるみたいに流れが変わる。詰まりの手前で、圧が溜まる。
【Pressure rising】
【Risk: overflow】
「桶、今!」
見習いが桶の水を一気に流し込む。
水が暗闇へ落ち、次の瞬間——ごぼ、と嫌な音がして、泥と枯れ葉の塊が押し出された。詰まりの正体。
同時に水が勢いを取り戻し、帯が太くなる。
【Pressure restored】
【Clinic waterline junction:stable】
「……戻った」
アヤメの肩から力が抜けた。
点検口の縁から、清い水がきらりと反射する。診療所の裏手の蛇口に繋がる水の気配が、確かに強くなった。
診療所の中から、誰かの声が上がる。
「水が出た! 出るぞ!」
「布が洗える!」
嬉しさが胸に広がりかけて、アヤメはすぐに飲み込んだ。
まだ一時間だ。まだ監査は見ている。まだ、他のノードがある。
視界の端に、次の赤が点った。
【Market light grid:partial】
【Cause: crowd density / unstable node】
【Action: reroute load】
市場の灯り。
帯域の問題。負荷分散。
“迂回させろ”。
アヤメは点検口を閉じながら、息を整えた。
診療所に戻る途中、レイが追いついてくる。
「水、戻したの?」
「戻った。……ロール、使える」
「……すごい」
レイが言いかけて、言葉を飲み込んだ。
褒めている場合じゃないと分かっている顔だ。けれど、その一言だけでアヤメの胸が少しだけ軽くなる。
治癒術師がこちらを見て、短く頷いた。
それが最大の褒め言葉だ。現場が回っている証拠。
アヤメは息を吐き、次の手順を口にする。
「次は、灯りの負荷を分散します。……衛兵さん、市場の列、二つに分けて。灯り担当は柱ごとに一人。通路を一本空けて」
衛兵が眉をひそめる。
「また市場か」
「市場が落ちると、診療所にも影響します。人が転ぶ。怪我が増える。回復が詰まる」
因果を言葉にする。
現場の人間は因果が見えると動ける。
衛兵は舌打ちしながらも頷き、外へ走った。
監査官は動かない。だが、視界の端で小さく表示が出た。
【Audit note: acceptable intervention】
【Constraint maintained: no write】
“許された”。
少しだけ、息がしやすくなる。
許される範囲で、最大限をやる。これは、現場の運用そのものだ。
アヤメは診療所の入口で一度立ち止まり、道具袋の奥の欠片を指で確かめた。
熱はまだある。自分の中に、一本の線が通っている。
母がやっていた仕事の線。
生活を回す線。
そして、その線の向こうに——見えない“管理者”の影がある。
視界の端で、試用ロールの残り時間が減っていく。
【Duration remaining: 00:47:12】
四十七分。
この短い時間で、どこまで現場を安定させられるか。
そして、その先に何が待っているか。
アヤメは手帳を開き、短く書いた。
“試用ロール:整備者”
“水路:詰まり→フラッシュで復旧”
“灯り:負荷分散(迂回)”
“書き込み禁止=改変不可”
書き終えた瞬間、視界の端に小さな警告が走った。
【Warning: admin-tier activity detected (distant)】
【Location: port gate】
“管理者級”。
遠い。港門。結界。
背筋が凍る。
電脳の魔術師——その影が、また動いたのかもしれない。
アヤメは鉛筆を握りしめ、呟いた。
「……それ、今やる?」
誰に向けた言葉か分からない。
けれど世界は、いつだって“今”に押し込んでくる。
残り時間は刻々と減っていく。
診療所の中では、砂時計がまたひっくり返された。
さらさらと落ちる砂の音が、まるでカウントダウンみたいに響いた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。




