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第7話:監査(オーディット)の足音

診療所の夕方は、忙しさの形が変わる。

昼のような押し合いは減り、代わりに「待つ」空気が濃くなる。呻き声は低く長く、布を裂く音は一定のリズムになり、砂時計のさらさらという音だけが妙に大きく聞こえた。


ミナト・アヤメは入口の横、壁際に立っていた。

手帳は閉じたままでも、指は道具袋の口を無意識に確かめてしまう。奥にしまった“欠片”が、そこにあると分かるだけで、胸の奥が落ち着かない。


視界の端で、透明な枠が冷たく点滅していた。


【監査:escalated】

【Audit schedule:pending】

【Time:soon】


“まもなく”の前に、心臓が勝手に速くなる。

誰かが来る。見られる。問い詰められる。——そういう人間の怖さと、もっと別の、機械みたいな怖さが混ざっている。


「おい、段取り役!」


治癒術師が怒鳴る。声は枯れているのに強い。

彼は診療台の前で掌をかざし、砂時計の落ちる速度を睨んでいた。回復の光は淡く、通るときだけ通る。通らないときは、何度押しても虚空を叩くだけだ。


「次、重い。止血が先だ、黄を回せ!」

「はい!」


アヤメは頷き、黄色の布を腕に巻いた見習いを呼ぶ。

布切れ一つで役割が決まる。役割が決まれば人は動ける。動ければ事故は減る。事故が減れば、要求が減る。要求が減れば、回復が通る。


——全部が“仕様”に繋がってしまった。


診療所の外がざわついた。

木の扉の向こうで、男の声が上がる。


「なんだあれ……門のところが光って……」


次の瞬間、入口の外から、硬い足音が一斉に響いた。

革靴ではない。木靴でもない。石が石を叩くような、乾いた規則的な音。


治癒術師が顔を上げる。


「衛兵か?」

「違います」


アヤメの口が先に答えた。

自分でも驚くほど確信があった。背中の皮膚が、ぞわりと粟立っている。視界の端が、鋭く点滅した。


【監査:開始】

【Audit agent:arriving】

【Notice:remain calm / comply】


“落ち着け”。

この世界が人間に向けて出す「落ち着け」は、だいたい落ち着けないときに出る。


扉が、外から叩かれた。

三回。等間隔。怒りも焦りもない。機械のノック。


衛兵が槍を下げたまま前に出る。


「診療所だ! 怪我人がいる! 用がないなら——」


扉が開いた。


入ってきたのは人間ではなかった。

いや、人間に似た形の“何か”だ。背丈は成人ほど。黒い外套のようなものを纏っているが、布の揺れがない。足音は石。顔の位置には仮面。目の穴はなく、代わりに淡い光が点っている。


二体。

その後ろに、もう一体。少し小さい。肩に箱のようなものを背負っている。


診療所の空気が凍った。


「……なんだよ、それ」

「魔導……人形?」


誰かが呟いた。

患者の子どもが泣きそうになり、母親が抱き締める。見習いが後退りし、布を落としかける。


仮面の一体が、低い声で言った。声も人間の喉を通っていない。金属板を擦るような音だ。


「監査を実施する。対象:未登録トークン、未認証ロール、未承認書き込み試行」

「は?」


衛兵が槍を握り直す。だが槍先は揺れる。

相手の“目”がない。威嚇が効かない。怒りも恐怖も伝わらない。


仮面がもう一度、同じ速度で言う。


「監査を実施する。協力しない場合、サービスを制限する」


治癒術師が一歩前に出た。


「ここは診療所だ! 制限? 回復が止まったら人が死ぬ!」

「サービスは安全に制限される。規定に基づく」


規定。

その言葉が、最悪に冷たい。


アヤメの視界に、別の窓が開いた。断片的なREAD窓。そこに、淡い文字が流れる。


【Audit mode:clinic】

【Action:throttle healer calls】

【Action:lock WRITE】

【Priority:prevent escalation】


——やめて。

絞るな。止めるな。ここは今、ぎりぎり回っているのに。


「待ってください!」


アヤメの声が、診療所の中心に落ちた。

自分でも怖い。仮面に話しかけるのは、壁に話すみたいなものだ。それでも、止める言葉を探す。


「監査はいい。でも、今ここで回復を絞ったら、怪我人が死ぬ。あなたたちの優先は“安全”なんでしょう? なら、死者が出るのは安全じゃない」


仮面の光が、ほんの一瞬だけ強くなった。

反応した。聞いている。……たぶん。


「安全は規定により定義される」

「規定に“現場の死”は入ってますか?」


自分で言って、喉が熱くなる。言い方が強い。

でも今は、強く言わないと押し潰される。


治癒術師が横から唸るように言った。


「嬢ちゃん、やめろ。刺激するな」

「刺激してでも、手順を交渉します」


アヤメは砂時計を持ち上げ、仮面に見せた。


「今、回復はクールタイムで運用してる。連打はしてない。順番も守ってる。事故も減ってる。……監査するなら、現場が守ってる手順を確認して」


仮面が首を傾げる動作をした。ぎこちない。

背中に箱を背負った小型の個体が、箱の蓋を開ける。中から細い棒——鉛筆の芯みたいな光の針が伸びた。


「手順の提出を要求する。ログを提示せよ」


ログ。

アヤメの胸が鳴る。手帳だ。紙のログなら出せる。だが、欠片のことは——。


「はい。……これです」


アヤメは手帳を開き、今まで書き溜めたページを見せた。

回復の間隔、砂時計の使い方、役割分担、入口の列。汚い字でも、読めるように箇条書きにしてある。


小型の個体が光の針を手帳にかざす。

紙の上をなぞるたび、針先が小さく点滅する。読み取っている。紙を。


仮面が言った。


「運用は確認した。だが未登録トークンの検知は継続する」

「未登録トークンって、何ですか」


治癒術師が口を挟む。


「ふざけるな、そんなもの知らん!」

「検知は自動で実施される。協力しない場合——」


アヤメは遮った。


「協力します。だから、ここでは回復を絞らないで。監査のやり方を、現場の都合に合わせて」


“都合”という言葉が、喉に引っかかった。

人の命を都合と呼ぶのは嫌だ。でも相手は規定で動く。規定の相手には、規定の言い方をするしかない。


仮面の光が、また一瞬強くなる。


「条件提示。監査中、治癒サービスの絞りは段階的にする。違反が検知された場合のみ、即時制限する」


——よかった。

最悪は避けられた。少なくとも今は。


だが次の行が、胸を冷やす。


「トークン所持者は観測対象。接触を許可する。提示せよ」


提示。

道具袋の奥が、急に重くなる。欠片がそこにあると知っているのは、自分だけのはずなのに、相手は“検知”と言う。検知は嘘をつかない。


治癒術師がアヤメを見る。

衛兵も見る。見習いたちも。患者の家族も。空気が一斉にこちらへ寄る。


「……お前、持ってるのか」


治癒術師の声が低い。責めではない。恐怖だ。

この場で“鍵”が争奪の種になったら、診療所は崩れる。


アヤメの喉が詰まる。

嘘をつくか。誤魔化すか。

でも相手は検知する。嘘がバレたら即時制限——人が死ぬ。


なら、手順で守るしかない。


アヤメは一歩前へ出た。

道具袋の口に手を入れる。欠片を掴む。布越しでも分かる。熱がある。鼓動のように微かに震える。


「……持っています」


声が思ったより静かだった。

診療所のざわめきが、一瞬だけ止まる。


「ただし、これは診療所の運用のために“読めるだけ”に結びました。書き込みも呼び出しもしてない。……さっきも、事故を止めるために警告を出しただけ」


仮面が答える。


「結びの記録は検知した。警告の発火も検知した。未登録アクセス試行の遮断も検知した」

「遮断は、正当でしたか?」

「評価は監査後に行う」


評価。

審査。裁き。

胸が冷たくなる。


小型の個体が光の針を伸ばし、アヤメの前に差し出した。


「提示。スキャン」


アヤメは布包みをほどき、欠片を掌に乗せた。

光の針が近づいた瞬間、欠片が一度だけ強く熱を持つ。皮膚が焼けそうなほどではない。でも“反応”がある。


視界の端で、文字が走った。


【Token fragment:registered】

【Owner:Student (night)】

【Permission:READ (fragmentary)】

【Audit:observing】


針先が欠片の表面をなぞる。

なぞるたび、仮面の光が僅かに瞬く。診療所の空気が、薄い氷の上を歩くみたいに軋む。


「……危険性評価:低」

「よかった……」


誰かが息を吐いた。

だが仮面は続けた。


「ただし、当該トークンは未登録の由来を持つ。回収候補。監査完了まで保留」

「回収……?」


アヤメの指が、欠片をぎゅっと包む。

取られる。これを取られたら、READ窓も消える。手がかりも消える。母の影に繋がりそうな道も消える。


「保留って、いつまでですか」

「監査完了まで」

「完了はいつですか」

「まもなく」


“まもなく”。

胸の奥が、きゅっと縮む。


治癒術師が苛立ちを抑えた声で言った。


「監査だろうが何だろうが、ここは診療所だ。回収は後にしろ。今は治す」

「規定により、サービスは維持される」


仮面の返答は変わらない。

その変わらなさが、逆に怖い。


外でまた足音がした。

今度は人間の足音だ。慌ただしく、滑って、止まる。


「失礼します!」


扉が開き、学舎の制服の少女が息を切らして入ってきた。東雲レイだ。髪が乱れていないのが逆に異様だった。走ってきたのに、姿勢が崩れていない。


「……監査が入ったと聞いて」


彼女の視線が仮面に移り、次にアヤメの掌の欠片へ落ちる。

一瞬だけ、瞳が揺れた。驚きと、理解と、悔しさの混ざった揺れ。


「あなたが、持ち主?」


アヤメは頷くしかなかった。


レイが一歩前へ出る。

仮面に向けて、驚くほど落ち着いた声で言う。


「監査官。現場の手順は維持されている。現場は混乱の抑制に成功している。回収判断は後でいい。いま回収を示唆するだけで群衆が荒れる」


仮面は一拍置いて答えた。


「群衆の荒れは監査対象ではない」

「それが原因で治癒サービスが破綻するなら、あなたの優先『prevent escalation』に反する」


——レイ、読めてる?


アヤメの胸が跳ねた。

彼女は赤の意味を完全には読めないはずなのに、今、仮面の内部仕様を突いている。推測か。理屈か。あるいは——自分が口にした言葉を、整理して武器にしている。


仮面の光が、僅かに強くなる。


「指摘を受理。回収示唆の通知を抑制する。保留は維持」

「それで十分です」


レイが静かに言い切った。

診療所の空気が、ほんの少しだけ戻る。人は“今は取られない”と分かると呼吸できる。


アヤメは欠片を布で包み直し、道具袋の奥へ戻した。

心臓がやかましい。背中に汗が流れる。けれど今は、倒れるわけにいかない。


仮面が最後に言った。


「監査継続。トークン所持者は観測対象。接触を許可する。——不要な試行を行うな」


不要な試行。

その言葉が、釘みたいに胸に刺さった。


仮面たちは診療所の隅に移動し、そこで動かなくなった。

立っているのに、まるで置物だ。けれど視線がないのに、視線を感じる。監視の気配だけが、空気に残る。


治癒術師がアヤメに近づき、低い声で言った。


「……嬢ちゃん。あれは何だ。お前が見つけた“鍵”か」

「……鍵の欠片です。読むだけの権限」

「読むだけで、ここまで揉めるのか」

「読むだけでも、世界の裏側が見えます」


治癒術師が口を閉じた。

現場の人間は、裏側より目の前の血を見る。でも裏側が目の前の血を左右するなら、見ないでは済まない。


レイがアヤメの隣に立つ。声を落とす。


「……監査、想像より速い」

「“まもなく”って、こういう意味だった」


アヤメの返事が乾いた。

笑えない冗談だ。


レイは少しだけ視線を逸らし、言った。


「その欠片、狙われる。今日みたいな相手だけじゃない。人間にも」

「……分かってる」


診療所の裏口へ逃げた影。

未登録アクセスの試行。

監査の通知。全部が繋がっている。


アヤメは手帳を取り出し、短く書いた。


“監査:実体(仮面)”

“回収候補=保留”

“不要な試行=即制限の可能性”

“狙われる”


書き終えた瞬間、視界の端に、READ窓が勝手に開いた。

欠片が反応している。監査の近くで、情報が増えるのかもしれない。


そこに、見たことのない行が出た。


【Audit channel:open (read-only)】

【Message: “Token holder, comply and you may receive a trial role.”】

【Offer: Infrastructure Maintainer (trial)】


アヤメの呼吸が止まった。


“インフラ整備者”。

母の影が揺れた言葉。

試用ロール。付与の提案。……餌かもしれない。罠かもしれない。けれど、喉の奥が熱くなる。


レイが覗き込もうとするが、彼女には見えない。

アヤメは手帳の端に、震える字でそのまま写した。


“試用ロール:インフラ整備者(提案)”


そして、胸の奥で小さく呟いた。


「……それ、今やる?」


自分に言い聞かせる言葉だった。

監査の仮面はまだそこにいる。診療所はまだ回っている。余計な試行は禁じられた。けれど、提案が出た以上、世界はもう一歩こちらに踏み込んできている。


アヤメは道具袋の奥の欠片を、指先で確かめた。

熱が、まだ残っている。


——選ばされる。

今夜か、明日か、分からない。けれど、選ばされる。


診療所の中で、砂時計がまたひっくり返された。

さらさらと砂が落ちる音が、妙に大きく響いた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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