第6話:鍵を拾ったら、世界が目を開けた
診療所の空気は、夕方になると少しだけ落ち着く。
泣き声は減り、怒鳴り声も掠れて、代わりに低い呻きと布を裂く音が残る。血の匂いに薬草が勝ち始め、床の泥は踏み固められて黒ずむ。
忙しさが消えたわけじゃない。
ただ、忙しさの形が「救えるかもしれない」に変わる。
ミナト・アヤメは棚の影で息を整えた。
手帳を閉じ、鉛筆を道具袋に戻す。
いま診療所は“手順”で回り始めている。順番と砂時計、役割の布切れ。誰かが一人で背負わなくても、現場が自走する兆しがある。
——だからこそ、今しかない。
視界の端で淡い光がちらつく。赤でも白でもない、誘うような表示。
【取得可能:Token fragment(未登録)】
消える前に、場所の感覚が落ちた。
診療所の奥。使われていない薬棚の裏。壁の窪み——小さな祠みたいに、誰かが大切にして、そして忘れた場所。
アヤメは周囲を見回す。
治癒術師は診療台の傍で次の患者に手をかざしている。見習いは布を運び、衛兵は入口で列を守る。誰もこちらを見ていない。
見ていない。
——でも、“見られている”感じだけは消えない。
視界の端で透明な枠が小さく点滅した。
【監査:待機中】
背中が冷える。
それでも足が動いた。恐怖より先に、手がかりを掴みたい欲が勝つ。原因が見えたら止まれない——それがアヤメの悪い癖で、今日の武器だ。
棚の裏へ回り込むと、温度が一段下がった。薬草の匂いが薄れ、石の冷たさが勝つ。薄暗い。灯りが届きにくいから、誰も寄り付かない。
だから、ここに残った。
壁の窪みは掌一枚ぶんの奥行きしかない。
奥に、布で包まれた何かが押し込まれていた。
触れた瞬間、指先がひりつく。火傷跡が疼くような嫌な確かさ。
「……これ」
布をほどくと、小さな薄い板が出てきた。金属とも石ともつかない。冷たく、軽い。表面には記号めいた刻印が走っている。
——ふっと温かくなった。
視界に白い表示が重なる。
【Token fragment detected】
【State:unbound】
【Action:bind / ignore】
心臓が跳ねる。
バインド。結びつける。
——鍵の欠片だ。
結びつければ何かが変わる。
変わるのは嬉しい。けれど同時に、見られる。監査に引っかかる。
怖い。
それでも、逃げる選択はない。
アヤメは息を吸い、短い言葉を選んだ。詠唱じゃない。通る言葉。
「……リンク。生徒」
声は小さい。棚の影に吸われる。
それでも表示は反応した。
【Role bound: Student (night)】
【Permission: none】
【Token fragment:unbound】
次。
アヤメは欠片を両手で包むように持った。落としたら終わる気がして、指先に力が入る。
「……オース。リード」
認証。閲覧。
赤が弾けるかと思った。
だが赤は出ない。
白い文字が一行、静かに出た。
【Permission: READ (fragmentary)】
【Token fragment:binding…】
欠片が微かに震えた。
怖いのに、どこか嬉しい。冷たさが抜け、握った指の間で温度が増す。まるで“持ち主”を見つけた道具が息を吹き返したみたいに。
そして。
【Bind complete】
【Token fragment registered to: Student (night)】
【Warning:audit may observe token binding】
息が止まった。
視界の端が鋭く点滅する。
【監査:観測開始】
【Log: token binding detected】
——やっぱり、見られた。
アヤメは欠片を握りしめ、肩で呼吸した。
やった。やってしまった。けれど、やらなければ何も変わらない。
“READ”がある。断片的でも読む権限がある。
アヤメは恐る恐る、目の裏に浮かぶ窓を“追う”。紙を読むみたいに、文字を拾うみたいに。
視界に薄いウィンドウが開いた。空の掲示板じゃない。もっと近い。個人用の窓。
【Service status】
【Healer:cooldown active】
【Infrastructure:unstable under crowd】
【Auth:role binding required】
【Recommended:reduce requests / stagger calls】
短い。冷たい。
でも、診療所で起きていることが“仕様”として並んでいる。
さらに、別の行。
【Nodes nearby】
【Clinic waterline junction:degraded】
【Market light grid:partial】
【Port gate barrier:offline】
ノード。接続点。
胸が締まる。母が口にしていた単語に似ている。母は魔導水路の整備士だった。派手な火球より、水が出ること、灯りが点くことを大切にしていた。
——この窓は、世界の裏側だ。
アヤメは“読むだけ”で次を辿る。触らない。呼び出さない。暴発は嫌だ。
【Role list (partial)】
【Healer】
【Guard】
【Infrastructure Maintainer】
【Merchant】
【Student】
【Unknown:admin-tier】
“インフラ整備者”。
喉が鳴る。心臓が跳ねる。
母は——このロールだったのか。
その瞬間、診療所の表側で大きな物音。棚が倒れる音。怒鳴り声。誰かが転んだ音。
「押すなって言ってるだろ!」
「先にだ! 俺が先だ!」
列が乱れかけている。
アヤメははっと現実に戻った。
手順が崩れれば回復が落ちる。回復が落ちれば、また地獄が始まる。
欠片を布に包み直し、道具袋の一番奥へ押し込む。袋の中で熱を持っている気がした。まるで存在を主張するみたいに。
「……今は、隠す」
棚の影から出る。
入口付近で男が衛兵に食ってかかっていた。目が血走っている。
「金なら払うって言ってるだろ! 何で待たされる!」
「順番だ。命がかかってる。黙って並べ!」
槍は下がっている。けれど握る手が強い。このまま殴り合いになれば列が崩れる。
アヤメは砂時計を持ち上げ、男の視界に入る位置へ立った。
「今、回復は——この砂が半分落ちた時だけ通ります」
男が睨む。
「誰だお前」
「順番を作ってる人です。……あなたが乱すと、あなたも助かりません」
「脅すのか!」
脅しじゃない。仕様だ。
でも仕様は言い方を間違えると火を点ける。
アヤメは一度息を吐き、相手の欲しいものを先に言った。
「早く治したいんですよね。……分かります。早く治したいなら、並んでください。乱すと“弾かれて”最初からになります」
「弾かれる……?」
「回復が通らない。ゼロです。……ゼロより遅い」
男の顔が歪む。怒りが現実に引き戻される。肩が落ちかけた、その時——。
背中が刺された。
誰かに見られた気がした。
棚の影の方角。さっき自分がいた場所。
——気づかれた?
瞬きをして視線の主を探す。だが人が多い。誰もが必死で、誰もが怪しく見える。
その瞬間、透明な枠が鋭く点滅した。
【監査:token movement detected】
【Notice:unregistered access attempts nearby】
背中の汗が冷たくなる。
未登録アクセス。近くで“誰かが”試している。
欠片を嗅ぎつけた? それとも別の欠片を持っている?
アヤメは砂時計を治癒術師へ渡すふりをして距離を取った。視線を逸らし、自然に棚の方角へ歩く。走れば怪しまれる。市場で覚えた“さりげない移動”。
棚の影が近づく。空気が冷える。
——いた。
窪みの前に人影。フードを被り、顔が見えない。手が壁を探るように動いている。鍵穴を探す泥棒みたいに。
喉が詰まる。
呼べば騒ぎになる。騒げば列が崩れる。回復が落ちる。
——手順。手順で止める。
アヤメは一瞬だけ“READ窓”を開く。読むだけ。
【Unauthorized access attempt】
【Role:unknown】
【Request:AUTH / WRITE】
【Recommendation:do not engage / alert guard】
“書き込み”を求めている。危ない。
書き込みは上位。触らせたら何が変わるか分からない。
アヤメは道具袋の口に指をかけ、唇を噛んだ。欠片は自分に紐づいている。だから――奪われる前に“線”を引く。
最小で。安全停止前提で。
「……リンク。生徒」
自分のロールを固定する。
そして、できるか分からない次を吐く。
「……コール。警告」
呼び出す。通知を飛ばすイメージ。
一拍、何も起きない。
失敗かと思った次の瞬間、人影の頭上で赤が弾けた。
【Access denied】
【Audit ping】
人影がびくりと肩を跳ね、振り返りかけて――そのまま身を翻し、廊下へ駆けた。
「待っ——!」
声が出かけて、アヤメは止めた。追えば列が崩れる。
目だけで追う。人影は裏口へ滑り込み、闇に溶けた。
残ったのは、窪みの冷たさと、視界の端で点滅する通知だけ。
【監査:escalated】
【Notice:token holder flagged for observation】
フラグ。観測対象。
胸の奥が、きゅっと縮む。
怖い。
でも逃げても追ってくるなら、逃げ方も“手順”にするしかない。
診療所の中心から治癒術師の声が飛んだ。
「おい、ミナト! 次の重傷だ、手が足りん!」
アヤメは大きく息を吸い、棚の影を離れた。
欠片は道具袋の奥。監査は強くなる。誰かが狙っている。
それでも、目の前の命は待ってくれない。
「……はい! 今行きます!」
砂時計を手に取り、列の方へ戻る。
歩きながら胸の内側で呟く。
——ログを取る。
鍵を守る。
そして、次に備える。
視界の端で、最後の通知が静かに点った。
【Audit schedule:pending】
【Time:soon】
“まもなく”より、怖い言葉はない。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。




