第4話:詠唱しない魔法(旧式の死)
夜の学舎は、いつもより静かだった。
静かというより——息を潜めている、と言った方が近い。石造りの廊下に足音が反響するたび、誰かが肩をすくめる。壁の魔法灯は点いているのに、光が薄い。火を点けるのではなく「点いた状態が続くか」を、皆が恐る恐る確かめている。
ミナト・アヤメは道具袋の口を握りしめた。鉛筆と手帳がそこにある。それだけが、今日の自分の武器だ。
教室の扉を開けると、古い紙とチョークの匂いがした。いつもと同じ匂いなのに、そこに混じる汗と焦げの匂いが、空気を刺々しくしている。
ラギン先生は教卓の前に立っていた。腕を組んだまま、黒板の文字を見つめている。
黒板には大きくこう書かれていた。
『旧式詠唱の扱い』
『暴発・置き換えに注意』
『短縮終了句の徹底』
先生はアヤメを見ると、短く顎で示した。
「ミナト。来たか」
「はい」
答えながら、胸の奥がざわつく。先生の声は落ち着いている。だがそれは、落ち着こうとしている声だ。
教室には二十人ほどが集まっていた。机は少し間隔を空け、中央の床魔法陣の周りには、麻縄がゆるく張られている。事故のあとに作られた境界線だ。
「今日は“唱える”のは最後だ」
ラギン先生が言い切った瞬間、教室がざわめいた。
え、と小さな声が漏れる。魔術学舎で「唱えるのは最後」と言うのは、ほとんど禁句に近い。
「勘違いするな。魔法を捨てるわけじゃない。……魔法の“通し方”が変わった。なら、それに合わせる」
先生は指先で宙を叩くようにして、軽い照明の術式を試した。普段なら机の上に小さな光球を浮かべるだけの簡単なものだ。
しかし——光は浮かばなかった。
代わりに、赤い文字が弾ける。
【Permission denied】
【Deprecated spell】
【Use: new invocation】
教室の空気が固まった。
見える。皆にも、先生にも、赤は見える。けれど意味が分からない。分からないものが見えるのが、いちばん怖い。
「で……でぷりけいと……?」
「なんだそれ」
「先生、呪いじゃ……」
アヤメの視界では、赤の文字が別の手触りを持っていた。
Deprecated——古い。廃止。推奨されない。
つまり、今の詠唱は“通らない”のではなく、“もう使うな”と明言されている。
「旧式詠唱が……死んでる」
つい口から漏れてしまう。
レイが前列でこちらを見た。鋭い目。けれど責める鋭さではなく、答えを求める鋭さだ。
ラギン先生が深く息を吸い、黒板にチョークで線を引いた。
『旧式詠唱=非推奨(Deprecated)』
『置き換え動作=危険(Fallback)』
「見ろ。今の赤は“この詠唱は古い”と言っている。古い詠唱を唱えると、システムが勝手に似た動作を探す。その結果、暴発する可能性がある」
先生がここまで言えるのは、赤の文字そのものを読めたからではない。
“現場で起きたこと”から逆算している。
それでも、教室の何人かは落ち着かない。落ち着けないのが当然だ。魔法を学ぶ者にとって、詠唱は呼吸と同じ。呼吸が古いと言われたら、どうすればいいのか。
「じゃあ……新しいやつを覚えればいいんだろ?」
後ろの席から声が上がる。
焦りと苛立ちが混じった声だ。
「覚えるにも、教材がない。空が勝手に世界を更新している。俺たちが教科書を作るしかない」
ラギン先生は淡々と言い、教卓の上の古い呪文書を指で叩いた。分厚い革表紙の呪文書。学舎の象徴みたいなものだ。
「これは、今の世界では“参考書”だ。『この通りに唱えれば通る』とは限らない」
言い切った瞬間、空気が痛んだ。
誰かの希望が折れる音がした気がした。
アヤメは歯を噛みしめる。
母の仕事に憧れて、派手じゃない魔法が好きで、ここまで通ってきた。その道が、勝手に書き換わった。
でも——だからこそ。
ここで折れたら、生活が止まる。生活が止まると、人が死ぬ。
「先生」
アヤメは手を挙げた。
手を挙げる行為が、自分の心臓を叩く。場を回す軽口じゃなく、本当に前に出る動き。
「赤い表示、さっき『Use: new invocation』って出てました。……新しい呼び出し方がある」
ざわめきが、今度は希望の方へ寄る。
“ある”という言葉は強い。
ラギン先生が頷いた。
「読めるか」
「全部じゃないけど……たぶん。意味の方向は」
アヤメの視界の端が、嫌なふうに点滅した。
【監査:待機中】
見られている。だが今、見られる恐怖より、目の前の事故の方が重い。
「やってみろ。ただし、最小で。安全停止を前提に」
先生の声は、命令ではなく、許可だった。
そしてその許可が、教室の空気をわずかに整える。無秩序な試行ではなく、制御された試行になる。
アヤメは床魔法陣の前に立った。
麻縄の内側。皆の視線が集まる。脚が震えそうになる。指先の火傷跡が痛む。
「……いや、仕様って……」
いつもの口癖が喉まで出て、引っ込んだ。
今は、逃げるための言葉じゃない。伝えるための言葉が要る。
アヤメは赤の残滓を探る。空中に浮かぶ赤はすぐ消えるが、視界の“ログ層”には薄く痕が残ることがある。
そこに、白い小さな行が見えた。
【new invocation: LINK / AUTH / CALL】
【requires: role binding】
リンク。オース。コール。
意味は手触りで落ちてくる。接続。認証。呼び出し。
そして、ロール——役割に紐づけろ。
「……まず、“私は何者か”を名乗らないといけない」
アヤメが言うと、数人が首を傾げた。
「名乗る?」
「詠唱で?」
アヤメは頷き、言い方を変える。
「扉を叩く前に、名札を出す感じ。『私は生徒です』『私は先生です』って」
レイが眉を動かす。
「そんなの、今まで必要なかった」
「今までがMP制だったから。……今は権限制。鍵穴が違う」
アヤメは深呼吸して、短い言葉を選ぶ。
古い詠唱の美しい韻律は捨てる。必要なのは通る言葉だ。
「……『リンク。生徒』」
声は震えなかった。
ただ、教室の空気が一瞬だけ張り詰めた。
赤が出る。
【Role bound: Student (night)】
【Permission: none】
【Hint: request READ】
——通った。名乗りは通った。
でも権限はない。
「今の、出ましたか?」
アヤメが言うと、生徒たちがざわめく。
赤は見えるが、読めない。だが“出た”こと自体が、変化だ。
ラギン先生が一歩前に出た。
「俺にも見えた。……『ロールが結びついた』と出た」
「はい。次は……たぶん、『読む権限をください』って言う」
誰かが吹き出しそうになった。魔術が、お願いみたいになっている。
けれど笑いは出なかった。皆、必死だ。
アヤメは言葉を探し、短くまとめた。
「……『オース。リード』」
AUTH。READ。
認証。閲覧。
赤が弾ける。
【Permission denied】
【No token】
【Available: fragmentary READ (nearby)】
教室がざわついた。
“トークンがない”。“断片が近くにある”。
「トークン……?」
「断片……?」
アヤメは手帳に書きながら、現場の言葉に落とす。
「鍵、ですね。鍵の欠片。……今はそれがないから、許可が出ない。でも、どこか近くに欠片があるって出てる」
ラギン先生の目が鋭くなる。
教師の目というより、現場監督の目だ。情報が出たなら、次の手順を組む。
「ミナト。今の言葉、全員に書け。『リンク』『オース』『コール』。それと、短縮終了句と安全停止もな」
「はい」
アヤメは黒板の端に、チョークで大きく書いた。
『LINK(名乗る/接続)』
『AUTH(認証)』
『CALL(呼び出し)』
『短縮終了句(安全停止)』
誰かが手を挙げた。
「これ、詠唱じゃないですよね。……ただの合図じゃ」
「合図でもいい。通るなら、それが今の“魔法”だ」
ラギン先生が即答した。
その言い切りが、何人かの背中を押した。
「試すなら、最小で。……リンクだけ、オースだけ。いきなり呼び出さない。置き換えが走る」
アヤメが言うと、レイが小さく頷いた。悔しさの残る目だが、受け入れようとしている。
ラギン先生は続けて、照明の術式を“呼び出す”ための最小の手順を組んだ。
「よし。ミナトが指示役。東雲、お前が実行役。正確さはお前が上だ。だが勝手に積むな。言われた分だけやれ」
「……分かりました」
レイは短く答えた。
その返事には、プライドと、恐怖と、少しの信頼が混ざっている。
床魔法陣の前にレイが立つ。
アヤメはその横に立ち、手帳を開く。息を整え、声を出す。
「リンク。生徒」
レイが同じ言葉を繰り返す。
赤が弾ける。ロールが結びつく。
「オース……リード」
赤。拒否。トークンなし。断片が近い。
通らないのは予想通りだ。ここで無理に進めば置き換えが走る。
「ここまで。短縮終了」
「……ここまでで、閉じる」
レイが短縮終了句を唱える。
床の魔法陣の光が、ふっと消える。事故が起きない。
「よし」
ラギン先生の声が、初めて少しだけ柔らかくなった。
それだけで教室の空気が一段軽くなる。成功ではないが、“安全に止められた”。それは今日の世界では大きい。
生徒たちがそれぞれ手帳を開き、黒板の言葉を書き写し始めた。
“詠唱”ではなく、“手順”が配られていく。
魔術学舎が、マニュアル作成室みたいになった。
アヤメは書きながら、胸の内側が痛むのを感じた。
美しい詠唱。発音の訓練。呪文書の韻。そういうものが、今も好きだ。好きだからこそ、死んだと言わなければならないのが苦しい。
そのとき、教室の後方から、声が上がった。
「先生! 俺、家で習った火種ならできる! 家の暖炉が——!」
青年が立ち上がり、勢いよく詠唱を始めようとする。
止める声が間に合わない。
アヤメの視界が赤に染まった。
【Deprecated spell】
【Fallback executed】
【Heat spike risk】
「やめて!」
叫んだのはラギン先生だった。
先生が机を蹴って駆け寄る。だが、青年の口は止まらない。焦りが、喉を動かす。
アヤメは反射的に青年の前に飛び出し、手を突き出した。
「短縮終了! ここまでで閉じる!」
青年が一瞬、目を見開く。
迷う。でも、先生の顔が本気だった。教室の空気が凍っていた。
青年は震える声で、短縮終了句を吐き出した。
「……ここまでで、閉じる!」
床の魔法陣が一瞬だけ赤く光り、すぐに消えた。
焦げた匂いが鼻を刺す。危なかった。ほんの少し遅れていたら、誰かが火傷では済まなかったかもしれない。
青年が膝をつく。
「すみません……俺、母ちゃんが寒がってて……」
「分かる。……分かるからこそ、手順だ」
ラギン先生は青年の肩に手を置いた。
叱責よりも重い言葉。生きていくための言葉。
そして先生は、教室全体に向けて言った。
「聞け。旧式詠唱は危険だ。今は“美しい詠唱”が、命を奪う可能性がある。……だから、捨てる。いったん捨てて、通る言葉で組み直す」
“捨てる”という言葉に、誰かが顔を歪めた。
アヤメも胸が痛い。けれど、先生の言葉は間違っていない。
——生活が先だ。命が先だ。
ラギン先生は一歩、アヤメの方へ歩いた。
そして、教室の全員が見ている前で、頭を下げた。
深く。
「ミナト。……頼む」
空気が止まった。
教師が生徒に頭を下げるのは、ほとんど起きない。しかも相手が“落ちこぼれ”と見られていた生徒だ。アヤメの喉が詰まる。
「先生、やめてください」
「やめない。お前が読めることが、今ここで一番の武器だ。恥じゃない。頼るのは当然だ」
アヤメは耳が熱くなるのを感じた。
嬉しさじゃない。責任の熱だ。
「……分かりました。私、できる範囲でやります」
答えた瞬間、視界の端で嫌な点滅が走った。
【監査:active?】
【Log: role binding attempts detected】
——見られている。
やっぱり、見られている。
それでもアヤメは鉛筆を握り直し、黒板の端に小さく付け足した。
『お願い』ではなく『手順』
『通る言葉は短い』
『止め方を先に覚える』
生徒たちはそれを書き写す。
魔法の授業が、いまや“安全運用”の授業になっている。
そしてそれは、変なことじゃない。生活を回すための魔法は、もともと運用だ。母がやっていたのは、そういう魔法だった。
教室の空気が少しだけ落ち着いたところで、窓の外がざわめいた。
誰かが廊下を走り、教室の扉が勢いよく開く。
「先生! 外……空が……!」
全員が一斉に窓へ向く。
アヤメも立ち上がり、窓の外を見た。
夜空に、白い枠が浮かんでいる。
昼間に見たものと同じ。世界の掲示板。
【Patch Notes】
文字が流れ始めた。淡々と、冷たく、親切そうに。
【回復系:クールタイム調整予定】
【権限:認証手順を追加】
【監査:不正アクセス検知を強化】
【インフラ:混雑時の制限を導入】
教室の誰かが小さく呻いた。
“予定”。まだ変わる。今も変わっているのに、さらに変わる。
アヤメの視界の端に、別の小さな赤が弾けた。
【Notice: audit will be enforced】
心臓が、どくんと鳴った。
監査が強化される。つまり——見られる。
ラギン先生が窓の外を睨みつけ、低い声で言った。
「……世界が、授業を始めやがったな」
アヤメは手帳を開き、流れる文字を必死に写した。
書く。記録する。読めるものは、全部、紙に落とす。
それが、自分にできる唯一の対抗手段だ。
白い枠の最後の行が、ゆっくりと流れた。
【適用開始:まもなく】
“まもなく”が、いちばん怖い。
時計がなくても分かる。何かが来る。近い。
アヤメは鉛筆を握りしめ、息を吸った。
「……ログ取ろ」
それは口癖じゃない。
生き残るための宣言だった。
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