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第42話 おとり箱(触れない罠)

 港の夜は、昼より音がよく聞こえる。

 波が岸を叩く音。縄が擦れる音。木板がきしむ音。

 そして――足音。


 アヤメは息を浅く吸って、吐いた。潮の匂いが鼻に残る。胸の奥が少し硬い。怖い。けれど、怖いまま動くと、余計なことをする。


「ここでいいんだな」


 荷車の影から、ガンゾが小声で言った。大きな背中は暗がりでも目立つ。立っているだけで「止まれ」が出せる人だ。


「うん。通り道。人目がある。逃げにくい」


 アヤメは足元の木箱を見下ろした。よくある運搬用の箱。

 ただし、ふたの上――番号札と封の蝋だけが、妙に丁寧だった。


「……本物みたいだな」


「“みたい”でいい。中身は空だし」


 アヤメは箱を置く。乱暴に置かない。傷は余計な情報になる。


 番号札は本物と同じ並び。封の位置も同じ。

 けれど、真似だと分かる印も入れてある。ふたの角、木目に紛れる小さな点。こちらが見落とさなければいい。


「点、見えるか?」とガンゾ。


「見える。私たちだけ分かればいい」


 レイは箱から少し離れた角に立った。逃げ道の先。

 捕まえるためじゃない。通らせないための位置だ。


「来るなら、こっちから」


 レイが暗い方を見た。声が平らで、余計なことを言わない。だから怖さが増す。


 アヤメは小さく頷いた。


「……順番、確認する」


 声に出して、頭を落ち着かせる。


「触らない。声で止める。人を集める。時刻をそろえる。署名をそろえる。記録を残す。封をする」


「おう」


 ガンゾは短く返した。レイは頷くだけ。


 港は夜でも完全には静まらない。

 遅い荷物が通る。見回りが通る。店じまいの人が通る。


 だからこそ、罠はここだ。隠さない。見えるところに置く。

 触りたくなる場所に置く。


 しばらく何も起きない。

 何も起きない時間ほど、心臓の音がうるさい。


「……来た」


 レイが言った。


 暗がりから足音がひとつ。

 歩き方が違う。港の人は縄や板を避ける癖がある。足元を見る癖がある。

 けれど、この足音はまっすぐすぎた。迷いがないのに、慣れていない。


 影が箱に近づく。フードで顔は見えない。

 目線だけが、箱そのものではなく「番号札」に吸い寄せられている。


(棚札じゃない……番号札だけ)


 アヤメは喉の奥が冷えた。

 目的がはっきりしている動きは、たいてい危ない。


 影の手が伸びる。手袋。白い粉が薄くついている。

 港は湿る。こんな乾いた粉は、ここには合わない。


 指先が番号札に触れかけ――


「止まれ!」


 ガンゾの声が夜を割った。怒鳴り声じゃない。反射で足を止める声だ。


 影がびくっと固まる。

 レイが角から一歩前へ出た。逃げ道が消える。


「……何だよ」


 影が低い声を出した。強がりの声。


 アヤメは距離を詰めないまま言う。近づくと、触れてしまう。触れれば言い逃れの言葉が増える。


「あなた、いま番号札に手をかけましたね」


「落ちてたから拾おうとしただけだ」


「拾うなら、声をかける。港はそういう場所です」


 言い合いはしない。必要なのは、その場の人に「見てもらう」こと。


「見回りの人! そこの店の人! こっち来てください!」


 ガンゾが呼ぶと、近くの見回りと、店じまいの男が振り向いた。

 荷車を押していた若い男も立ち止まる。


「何だ、ガンゾ」


「立会いしてくれ。いま、こいつが箱の番号札に触ろうとした」


 見回りが眉をひそめ、影を見る。


「おい、どういうことだ」


 アヤメは箱を指さした。


「この箱は、勝手に触られると困る箱です。中身の話じゃありません。“触ろうとした”という事実が大事です」


「中身じゃないって……」


「今はそこじゃない」


 アヤメは店の男に視線を向けた。


「あなた、見ました? この人の手が番号札にかかったの」


「……見た。札に手がかかった」


 荷車の男も頷く。


「俺も見た」


 見回りが影に言った。


「手を見せろ」


 影は一瞬迷った。逃げようとしたのかもしれない。

 でも角にレイがいる。無言で、通せない場所に。


 影は舌打ちし、手を前に出した。


「ほらよ」


 アヤメは布を取り出し、見回りに渡した。


「その布で、手袋の表面を軽く押さえてください。こすらないで。粉が落ちるから」


「粉?」


「見てください。白い粉がついてます」


 見回りが布を押さえると、布の端が白くなった。

 店の男が目を丸くする。


「何だこれ……」


「分からない。でも、港の粉じゃない」


 アヤメは小さな紙包みを差し出した。


「これに入れてください。いま落ちた粉です。落ちた時点で、もう残ります」


 見回りは渋い顔をしながらも、紙包みに白い粉の付いた布端を押し当て、粉を落とした。


「次、時刻です。いま何時ですか」


 見回りが懐の時計を見る。


「……九時二十六分」


「店の人は?」


「俺も九時二十六だ」


「荷車の人も?」


「同じです」


 アヤメは紙に書く。日付。場所。時刻。

 見た人の名前。見た内容。白い粉の回収。


 手が震えそうになるのを、息で抑える。

 ここで震えると、言葉がぐらつく。ぐらつくと、事実が薄くなる。


「署名をお願いします。ここに」


「おいおい、何だよこれ」


 見回りは文句を言いながら署名した。店の男も、荷車の男も署名する。

 紙に線が増えるほど、言い逃れが減る。


 影が苛立った声を出す。


「ただの箱だろ。何でそこまで――」


「ただの箱じゃねえ」


 ガンゾが低く言った。背中で場を押さえる声だ。


「港はな。勝手に触ると、みんなが困るもんがある」


 影は口をつぐむ。


 アヤメは箱のふたを見る。封は割れていない。番号札も外れていない。

 そして、角の小さな点も無事だ。


「箱の状態、確認します。封は割れていない。札も外れていない」


 見回りが距離を保ったまま覗き込む。


「割れてない。札も付いてる」


「はい。未遂として残します」


 アヤメは紙に書いた。「未遂」。

 軽い言葉に見えて、重い。触ろうとした事実が、ここに残る。


 アヤメは影に向かって言った。


「誰に言われたんですか」


「知らねえよ」


「じゃあ、なんで番号札だけ狙ったんですか」


 影は黙った。


 レイが角から少しだけ近づく。触れない距離。逃げられない距離。


「逃げないなら、しゃべったほうが楽」


 レイの声は淡々としていた。脅しじゃない。状況の説明だ。


 ガンゾが続ける。


「しゃべらねえなら、この紙は役所に行く。見回りも見てる。店も見てる。港で歩けなくなるぞ」


 影の肩が揺れた。

 強がりの皮が、少しだけ剥がれる。


「……くそ」


 影は息を吐き、吐き捨てるように言った。


「センセイが言ったんだよ。“鍵は三つ”って」


 アヤメの背中が冷えた。

 その言葉は、狙いがはっきりしすぎている。


「センセイって、誰」


「知らねえって! 顔も見てねえ! 声だけだ!」


 影は早口になった。焦りが言葉を押し出す。


「そいつが言ったんだよ。合流点じゃなくて……別の乾いた場所にも欠片があるって!」


 アヤメは口を閉じ、すぐに紙へ落とした。盛らない。言い換えない。

 言葉は、そのまま残す。残せば、後で守れる。


「その証言、聞きましたね」


 アヤメが見回りを見る。


「ああ、聞いた」


「店の人も」


「聞いた」


「荷車の人も」


「聞いた」


「じゃあ、ここにも署名をお願いします。証言は口で残しません。紙で残します」


 影が顔を上げた。フードの影から、歪んだ目が見えた気がした。


「……なんで、そこまで」


 アヤメは一瞬だけ迷った。

 いつもの癖なら、原因探しの言葉で逃げる。

 でも今は、逃げない。


「口だと、変えられる。忘れられる。すり替えられる」


 アヤメはゆっくり言った。


「でも紙なら、残る。残れば、守れる。――だから」


 ガンゾが小さく笑う。


「ほらな。触らせたら勝ちだ」


 レイは影を見たまま言った。


「逃げ道、もうない。歩き方で分かる」


 影は、膝から力が抜けたみたいに座り込んだ。


 その瞬間、港の夜の音が戻ってくる。波。縄。遠い笑い声。

 日常が、ほんの少しだけ形を取り戻す。


 アヤメは封印袋を取り出し、紙と、白い粉の包みを入れた。

 封をして、蝋を垂らし、印を押す。


 触れない罠は、触れられた事実を、触れない形で閉じ込める。


 アヤメは空っぽのおとり箱を見た。

 軽いはずの箱が、今夜だけは重い。


(乾いた場所。合流点じゃない。別の場所)


 言いかけて、アヤメは口を閉じた。

 先に言えば噂になる。噂は混ざる。


 だから、紙を抱えたまま、静かに歩き出した。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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