表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

40/46

第39話 水路の顔(整備側の影)

港の奥へ行くほど、匂いが変わる。

潮の匂いが薄れ、湿った土と苔、冷えた石の匂いが濃くなる。

水は見えない場所ほど、匂いで存在を主張する。


ミナト・アヤメは詰所を出る前に、机の上の封印袋を一度だけ目で数えた。

列は崩れていない。番号札は揃っている。蝋印も割れていない。


崩れていない。なら、今は外へ出られる。

外へ出るのは怖い。

でも怖いなら、順番を増やす。


壁に貼った紙を指で叩き、声に出す。


「触れない。開けない。表だけ。封印して残す」


言って、扉を開けた。


足元に薄い輪。白い表示が重なる。


【Zone restriction: 3m】

【Observer role: active】

【Role: Log Preservation (temporary)】

【Scope: archive + sealing records】

【Role timer: 00:28:03】

【Log streaming: enabled】


刃が近い。

近いほど、目の前の一歩が重くなる。

重い一歩は間違えやすい。だから今日の目的は一つに絞る。


――“整備側”と話す。

疑うためじゃない。現場の言葉で、道を作るため。


リオが横に立ち、短く言った。


「言い切らない。求めるのは協力じゃなく、確認」

「うん。確認だけ。……水の匂いと、合流点の板の表示。そこから」


エドが紙を一枚渡してくる。太い字で短い。


『相談(短い)』

・右の水だけ匂いが違う

・合流点の板に「鍵が必要」と出る

・開けない/触れない/封印して残す

・原因を決めたいんじゃない

・混乱を減らしたい


短い紙は、相手の警戒を増やしにくい。

余計な言葉が少ないと、話が崩れにくい。


ユウトが道具袋を抱えて、少し不安そうに言う。


「整備の人、怒らないかな」

「怒らせないように話す。怒ったら止める。止めたことも残す」


アヤメが言うと、ユウトは小さく頷いた。

ガンゾは今日は詰所側。人の流れを止める役。

レイは外の影。見えない位置で“揺れ”を押さえる。


港の裏手を抜け、水路の整備場へ向かう道は狭い。

壁が近い。壁が近いと息が浅くなる。

息が浅いと焦りが増える。


アヤメは歩きながら、わざと息を吐いた。

吐くと胸の奥が一度だけ撫でられる。

撫でられると、声が出る。


整備場の入口は鉄の匂いが強い。

鉄は湿りを嫌うのに、ここは湿っている。

湿った鉄の匂いは、手の皮膚に残る。


中では、数人が細い管を持ち上げていた。

管は生活の骨みたいに見えた。派手じゃない。

でも、これがないと町が回らない。


アヤメの胸の奥が、少しだけ痛んだ。

痛みは懐かしさに似ている。

懐かしさは、今の仕事を揺らすことがある。

揺れるなら、紙に戻る。


リオが小さく咳払いし、声を整える。


「すみません。整備の方、いらっしゃいますか」


作業していた男が顔を上げた。

日焼けした頬。目の奥が冷たい。

冷たい目は、現場の目だ。


「用は何だ。今、忙しい」


硬い声。時間がない声だ。

時間がない相手には、短い言葉が効く。


アヤメは一歩前へ出ず、距離を保って頭を下げた。


「ミナトアヤメです。港で混乱が増えそうな匂いがあって……確認だけ、お願いしたいです」


“確認だけ”――それは相手の刃を少し鈍らせる。


男が眉を寄せる。


「混乱? こっちに持ち込むなよ」

「持ち込みません。触りません。開けません。封印したまま、匂いと反応だけ見ます」


アヤメはエドの紙を差し出した。

差し出すと言っても近づきすぎない。

相手が取りやすい距離に置く。距離を守ると、相手も距離を守りやすい。


男は紙を一瞥し、鼻で短く息を吐いた。


「右の水? 匂いが違う? ……どこだ」

「合流点の近く。板があるところです」


男の目がほんの少しだけ変わった。

知っている場所の名前が出たからだ。

知っている場所には、体の記憶がある。


男が紙を返す。


「板? ……あそこか」


リオが言う。


「板は開けません。鍵が要るって出ました。だから触れないで、封印したまま記録だけ残しています」


「出た?」


男が怪訝そうに言う。

当然だ。普通の人は“見えない”。

見えないことを前提に話せば、話は崩れる。

だから、見えない人にも伝わる言い方に変える。


アヤメは頷いた。


「板に刻印みたいに表示が出るんです。“鍵が必要”って。私は文字として読めます。読めるだけで、開けたりはしません」

「……読めるって、何者だよ」


男の声が少し低くなる。警戒の低さだ。

ここで言い訳すると穴になる。

穴は手順で塞ぐ。


エドが前に出ずに言った。


「この人は現場の“変化”を読み取れる。権限があるわけじゃない。やってるのは保全と封印だけです」


男が鼻で笑う。


「難しい言い方すんな。……要するに、変な文字が見えるってことか」

「はい。変な文字が見えます。でも見えたものは広げません。封印して残すだけです」


男は少しだけ肩の力を抜いた。

“口だけ”じゃないと感じたのだろう。


男が名乗る。


「オオバだ。整備のまとめ役だ」

「オオバさん。ありがとうございます」


アヤメが頭を下げると、オオバは顎で奥を指した。


「こっち来い。人の邪魔にならないところで話す」


奥の壁際は湿りが少し薄い。

追い返されなかった。なら、道が一本できた。


オオバが腕を組む。


「右の水って、どっちから来てるやつだ」


アヤメは迷わず答えた。


「合流点に向かって右側です。袋の外から匂いを拾うと、紙みたいな匂いが混ざってます。左は薄い」

「紙? 水に紙の匂い? 変だな」


眉が寄る。考えている眉だ。

考えているなら、確認ができる。


リオが言う。


「水は採りました。封印したままです。開けません。必要なら封印番号と立会い署名を見せます」


オオバは手を上げた。


「水は見なくていい。今ここで開けるな。……だが話だけなら聞く」


“今ここで開けるな”――つまり、開ける危険を恐れている。

だからこそ、開けないが効く。


アヤメは頷き、次の言葉を慎重に選んだ。


「板のところに小さな穴があって……鍵穴みたいに見えます。それで“鍵が必要”と出ます。

それから、鍵が三つに分かれている可能性がある、と表示も出ました」


オオバが目を細める。


「鍵……。お前、誰かに脅されてないか」

「脅されてません。……ただ、現場が混乱すると人が危ない。混乱を減らしたいだけです」


オオバはしばらく黙った。

黙るのは、頭の中で照合している時だ。


やがてオオバが低く言った。


「合流点の周りは、昔から揉め事が出やすい。水が絡むと、人はすぐ焦るからな」

「昔から?」


アヤメの胸の奥が、ひゅっと縮む。

縮むのは、思い当たる“数字”があるからだ。

でもその数字は今は口に出さない。紙に落とすだけにする。


エドが穏やかに聞く。


「昔、何かあったんですか」


オオバは顎を掻いた。


「事故だ。……大きい事故」

「原因は?」


リオが問いかける。

オオバは首を振った。


「俺が入る前の話だ。原因は、はっきりしない。

水路は原因が一つじゃないことが多い。老朽、手順、天気、人の勘違い。全部が重なる」


現場の言葉だ。嘘が少ない。

だからアヤメは一つだけ、確かめたいことを確かめる。


「その事故のあと、合流点の先に……触られなくなった場所、ありますか」


オオバの目が少し固くなる。


「ある」


短い返事。触れたくない話の返事だ。

追えば閉じる。閉じたら道が消える。

だから追わない。言葉を柔らかくする。


「教えてください、じゃなくて……確認だけ。

そこが今、関係しているかどうかを知りたいだけです」


オオバはため息を吐いた。


「合流点の先に、古い点検口がある。乾いた場所だ。

水の中じゃない。石の中に昔の人が作った点検通路がある。

だが今は誰も使わない。使う理由がないし、危ない」


乾いた場所。

その言葉がアヤメの背中を冷たくした。

けれど“つながる”は推測だ。推測は別紙。今は事実だけ。


エドが言う。


「点検口の場所、図で残っていますか」


オオバは首を振った。


「新しい図には載ってない。古い図ならあるかもしれんが……簡単に見せられない」


「見せなくていいです」


アヤメが即答する。

見たいと言えば相手は守りに入る。

見せなくていいと言えば、相手は少し驚く。驚くと警戒が緩むことがある。


オオバが眉を上げた。


「見たいんじゃないのか」

「見たいです。でも今は混乱を増やしたくない。

……見るなら、手順を作って、立会いを揃えて、封印して残す形にしたい」


オオバが鼻で笑った。


「お前、変だな。……でも嫌いじゃない」


その言葉で胸が軽くなる。

軽くなる時こそ油断しない。

褒め言葉の形の誘いもある。


リオが静かに聞く。


「古い図や帳面は、どこにありますか」


オオバは目を逸らした。


「整備の倉……じゃない。紙は湿気でやられる。乾いた場所に移した。

“保管棚”だ。小さい棚。鍵付きの」


鍵。

また鍵という言葉が出る。

でもここで飛びつけば道が折れる。


アヤメはひと呼吸置いて、短く聞いた。


「その棚、誰が管理してますか」

「俺じゃない。上だ。……名義は役所の管轄に近い」


役所、管轄。遠い言葉だ。

遠い言葉が出ると現場は閉じやすい。

閉じる前に、現場語に戻す。


エドが言い換えた。


「見せてほしいじゃなくて、“表だけ”でも確認できませんか。

中身じゃない。タイトルと日付と場所だけ」


“表だけ”なら、相手にも分かる。

オオバが唸る。


「表だけ……なら、話は違うかもしれん」


アヤメは頷く。


「表だけでいいです。

事故の記録がいつで、どこで、何の作業だったか。それが分かれば、混乱を減らす手順が作れます」


オオバは黙り、やがて小さく言った。


「古い保管帳がある。点検の記録と事故の記録が混ざってる。

だが勝手に触らせると、こっちが怒られる」


怒られる――それも現場の恐怖だ。

恐怖は手順で薄められる。


アヤメは迷わず言った。


「触りません。開けません。

立会いを揃えて、封印して、見たことを“改ざんできない形で残す”だけにします。

オオバさんの責任にならない形にします」


オオバがアヤメをじっと見た。

現場の目は、人の腹を見ようとする。

背筋が伸びる。嘘がつきにくくなる。


オオバは短く言った。


「……分かった。俺から話を上げる。

ただし今日明日で動く話じゃない。上の許可がいる」


“今日明日で動かない”――その言葉が、足元の刃を思い出させた。

タイマーは待たない。


アヤメは焦りを飲み込み、別の道を探す。

別の道は現場にある。


「許可が下りるまでの間、できることはありますか。

例えば……点検口の場所を口で教えてもらうとか。見に行くんじゃなくて、地図に印をつけるだけ」


“見に行くんじゃなくて”。その前置きが大事だ。


オオバは少し考え、指を一本立てた。


「口で言うだけならな。

合流点の板から港側へ二つ目の曲がり。そこに古い刻みがある。

刻みが三本並んだ石が目印だ。そこから奥へ入る道がある。

だが、入るな。今はまだ入るな」


三本の刻み。

偶然かもしれない。偶然は偶然のまま置く。今は事実だけ。


リオが即座に言う。


「入らない。確認だけ。目印を記録する」


エドが紙に走らせた。


「目印:刻み三本の石。位置:板から港側へ二つ目の曲がり。

口頭:オオバ。立会い:リオ、エド、アヤメ」


アヤメは最後に、もう一つだけ聞いた。

重い質問。けれど聞かないと後で崩れる。


「その事故の時……作業は何の作業でしたか。水路の整備ですか」


オオバの目が一瞬だけ遠くなる。

覚えていないか、覚えたくないか。どちらかだ。


オオバは低く言った。


「水路の整備だ。町の水を止めないための作業。

派手じゃない。だが止まると町が止まる」


派手じゃない。

でも止まると町が止まる。

その言葉が、胸の痛みを強くした。


アヤメは頭を下げた。


「……ありがとうございます。混乱を減らす手順にします」


オオバは手を振った。


「余計な英雄ごっこはするな。

現場は、残したやつが勝つ。……それだけだ」


残したやつが勝つ。

別の場所でも同じ言葉が出る。

それは現場の真実だ。



整備場を出ると、港の匂いが戻ってきた。

潮の匂いに、まだ焦りが混ざっている。

でも焦りの中に、道が一本できた。


詰所へ戻る途中、レイが影のように現れて短く言った。


「見られてる。近いけど、触ってこない」

「触らせたいんだと思う」


アヤメが言うと、レイは黙って頷いた。

頷きだけで充分だ。余計な言葉は穴になる。


詰所に入ると、机の上の封印袋の列がきちんと待っていた。

待っている列は心臓を落ち着かせる。


アヤメは手帳を開き、事実だけを書く。


「整備側:オオバ(まとめ役)」

「合流点の先:古い点検口(乾いた場所)」

「目印:刻み三本の石(板から港側へ二つ目の曲がり)」

「古い保管帳:点検と事故の記録が混在」

「表だけなら確認の可能性」


書き終えた瞬間、足元の表示が目に入る。


【Role timer: 00:21:06】

【Log streaming: enabled】


刃がさらに近い。

このままだと、道ができても、渡る前に刃が落ちる。


アヤメは壁に新しい紙を貼った。字は短く、太い。


『次(短い)』

・保管帳:表だけ

・点検口:目印確認(入らない)

・欠片:回収箱の手順強化

・延長:審査を通す材料を増やす


貼った瞬間、扉の外で紙を擦るような音がした。

今度は“気がした”じゃなく、確かに近い。


リオが顔を上げる。


「来る」


エドが低く言う。


「誘いだ。……でも今日の誘いは、別の顔をしてる」


別の顔。

“整備側”から伸びた道を、折りに来る顔かもしれない。


アヤメは息を吐き、手帳を閉じた。

そして封印袋の列を見つめる。列は静かで、強い。


小さく呟く。


「……ログ取ろ。保管帳の表だけも、改ざんできない形で残す」


刃が落ちる前に。

道が消える前に。

“水路の顔”を、こちらの手順で掴むために。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ