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第36話:比較台

詰所の朝は、潮の匂いより先に紙の匂いが来る。

乾いた紙。蝋の甘い匂い。布の繊維の匂い。封を閉じたあとに残る、ほんの少し焦げた匂い。


ミナト・アヤメは机の前に立ち、指先で布をならした。

布の端が少し毛羽立っている。使い込んだ証拠だ。使い込んだものは、手が順番を覚えている。手が覚えていれば、焦っても崩れにくい。


机の上には道具が揃っていた。

封印袋。番号札。蝋。印を押す小さな板。薄い布。細い縄。

それから小瓶が二つ。小瓶はそれぞれ封印袋に入っていて、袋の外側に短い札が付いている。


「右」

「左」


札の字はユウトの字だった。丸くて、少し震える字。

震える字は、正直だ。


その横に、もう一つ封印袋がある。

中身は薄い欠片。端が、暗いのにわずかに光る。光ること自体が嫌だった。暗闇で笑う歯みたいに、目に引っかかる。


足元の見えない輪が、机の脚のあたりに薄く残っている。


【Zone restriction: 3m】

【Observer role: active】

【Role: Log Preservation (temporary)】

【Scope: archive + sealing records】

【Role timer: 62:58:40】

【Log streaming: enabled】


数字が減る。

減るたび胸の奥が落ち着かなくなる。落ち着かないと、人は先に答えを欲しがる。答えを欲しがると、手順を飛ばす。飛ばした瞬間に混ざる。


混ざらないための今日の作業は、もう決めてある。


アヤメは机の端に、太い字で短く書いた紙を貼った。


『比較台(短い)』

1 封は開けない

2 近づけるだけ

3 匂いは袋の外から

4 光ったら声にする

5 全部、封印番号で残す


「……よし」


声に出すと、体が少し落ち着く。

声は空気に残る。空気に残ったものは、誰かが聞ける。誰かが聞けるなら、あとで「なかったこと」にしにくい。


扉の外で足音が止まった。

入ってきたのはユウト。手に紙を抱えている。

その後ろにリオ。手袋のまま、封印袋の列を目で数える。

最後にエドが入り、机の角に紙とペンを置いた。

ガンゾは扉の外から太い声だけ落とす。


「余計なやつが来たら追い払う。やれ」


レイの姿は見えない。

でも外が静かすぎない。それはレイが動いている証拠だった。


ユウトが小声で言う。


「台って……ただの机だよな」

「机でいい。机は動かない。動かないなら、比べられる」


ユウトが頷いた。

頷きが揃えば始められる。


リオが確認する。


「今日は触れない。開けない。近づけるだけ」

「うん。近づけて、反応が出たら声にする。エドが書く。リオとユウトが見る。ガンゾは外」


エドが淡々と言った。


「記録は俺が取る。アヤメは“見えたこと”だけ言え。推測は別にする」

「分かった」


推測と事実を分ける。

それだけで、嘘が入りにくくなる。


アヤメはまず、小瓶の封印袋を机の左に置いた。

次に、もう一つを右に置く。

左右を決めるのは単純だけど重要だ。曖昧だと、あとで話が崩れる。


「左は左。右は右。ここから動かさない」


ユウトが指で位置を示す。


「ここ。ここ。……動かさない」


リオが封印袋の端を軽く押さえた。

“うっかり”を防ぐためだ。

うっかりは敵より怖い。敵は読める。うっかりは読めない。


エドが紙に時刻を書いた。


「時刻。比較開始。立会い、リオ、ユウト、エド、アヤメ」


立会いが紙になる。

紙になった瞬間、これは「作業」になる。作業になれば、感情が暴れにくい。


アヤメは欠片の封印袋を手に取らず、机の端に置いたまま、布を一枚持ち上げた。

布を間に挟む。布があると手が出にくい。手が出にくいと、関係ができにくい。


「欠片は……これ。袋のまま。袋の外から近づけるだけ」


リオが短く言う。


「まず遠い位置。変化がないことを確認」

「うん」


アヤメは欠片の袋を、二つの小瓶から腕一本ぶん離した位置に置いた。

そっと置く。音を立てない。音を立てると心が跳ねる。跳ねると焦る。


欠片の袋。右の袋。左の袋。

光はない。匂いの変化もない。袋の表面に水滴もない。


「変化なし」


アヤメが言う。

エドが「なし」と書く。

リオが頷き、ユウトも頷く。


次は、近づける。


「少しずつ。指三本ぶんずつ」


アヤメは欠片の袋を、右の袋へほんの少し近づけた。

空気が変わる“気がする”。――その“気がする”は危ない。だから目で確かめる。


欠片の袋の端が、ほんの一瞬だけ小さく瞬いた。

まばたきの裏に残る程度の、弱い光。


背中がぞわりとした。

ぞわりは恐怖だ。恐怖は焦りを呼ぶ。焦りは手順を壊す。

だから、すぐ声にする。


「光った。……一瞬。欠片の袋の端」


ユウトが息を飲み、すぐ言った。


「俺も見た。光った」

リオも短く言う。

「見た」


エドのペンが紙を走る。


「欠片袋の端、微光。距離、指三本ぶん接近。対象、右側へ寄せたとき」


言葉にすると足場ができる。足場ができたら、次は同じことを左でもやる。


「同じ距離で、左にも寄せる」


欠片の袋を、今度は左の袋へ同じ距離だけ近づけた。

同じ距離。

同じ順番。

同じは、比較の命だ。


――光らない。


差が出ると、そこに意味が生まれる。意味は手を伸ばさせる。

でも、伸ばさない。


「左側、変化なし」


エドが書く。

リオが頷く。

ユウトが唇を噛んだ。


「右だけ……?」

「今は、そう見える」


アヤメは断定を避けた。断定は相手に突かれる穴になる。穴は手順で埋める。


リオが言った。


「匂い。袋の外から。近づける前後で違うか」

「やる」


欠片の袋を遠ざけ、まず右の袋の外側に鼻を近づけた。

直接吸い込まない。軽く拾う。


鉄の匂い。湿りの匂い。

それに混ざる、かすかな紙の匂い。

紙の匂いが、刺さる。


「右、紙みたいな匂いが混ざってる」


ユウトが反射で言う。


「昨日、あの場所でも……紙の匂い」

「似てる。……でも今は、“混ざってる”まで」


似てる、は推測。混ざってる、は事実。

アヤメは言い直した。


次に左。

左は鉄の匂いが軽い。紙の匂いはほとんどない。


「左は薄い。紙の匂い、ほぼなし」


リオが短くまとめる。


「右の水が、何かを運んでる」

エドが整える。

「運んでいる可能性が高い、で書く。断定は後」


次に、反応が出る距離を刻む。


指三本。

指六本。

指九本。


少しずつ近づける。

右側では指六本でも微光が出る。

左側では出ない。


偏りが、形になる。


アヤメは欠片の袋を机の中央に戻し、紙の手順を指で押さえた。


「ここまで。次は袋を入れ替えない。入れ替えると混ざる」

「入れ替えない」


リオが即答する。返事が揃うと、手順が通る。


そのとき――扉の外で騒ぎが起きた。


「痛い! 手が……しびれる!」

「水を! いや、触るな!」


声が重なる。足音が増える。

詰所の空気が一気に変わった。汗と恐怖の匂いが入ってくる。


ユウトが立ち上がりかけた。

立ち上がれば机が揺れる。机が揺れれば袋がずれる。ずれた瞬間に比較が壊れる。


アヤメは反射で手を上げた。


「止める。……ユウト、動かない」


ユウトが固まり、息を吸って吐いた。

“動かない”が守れた。


リオが目を細める。


「タイミングが良すぎる」

エドが淡々と言う。

「引き離し。比較台からアヤメを動かしたい」


胸の奥が縮んだ。

苦しむ声を聞くと、体は勝手に動きたくなる。

でも動きたいのは正しさじゃない。癖だ。癖は穴になる。


外からガンゾの声が落ちる。


「こっちは俺が見る! アヤメは動くな! 手順を守れ!」


強い声が、現場を二つに分けた。

ひとつは“今苦しい人”へ。

もうひとつは“残す作業”へ。


残す作業が止まったら、原因も消える。消えたら次が増える。

次が増えるのが、一番怖い。


アヤメは椅子に座り直し、机の端を指で押さえた。

指が震えている。震えは罪悪感を連れてくる。


(助けに行かないのは冷たい?)


違う。

混ざらないため。

改ざんできない形で残すため。

残せば、次の人を減らせる。


アヤメは息を吐き、言葉を短くする。


「続ける。欠片を右から離して、反応が消える距離を確認」


欠片の袋を、右から指三本ぶんずつ離していく。

離すと微光が弱くなる。

指九本離したところで、光は消えた。


「反応、消えた。距離、指九本」


ユウトがすぐ言う。

「俺も見た。消えた」

リオも言う。

「消えた」


エドが書く。


「反応消失距離:指九本。対象:右側。左側は反応なし継続」


書かれた文字は強い。強い文字は壁になる。


外の騒ぎが少し落ち着いた気配がした。

ガンゾの声が低くなる。


「……診療所へ運ぶ。アヤメはそのままやれ」


その声で、罪悪感が少し薄まった。

逃げじゃない。分担だ。分担は強い。


アヤメは手帳を開き、事実だけを書いた。


「欠片袋、右に寄せると光る」

「左は変化なし」

「右、紙の匂いが混ざる」

「反応消失距離:指九本」

「外でしびれ騒ぎ(引き離しの可能性)」


書き終えた瞬間、視界の端に白い表示が走った。

今までより形がある。短い文字が、浮いて消える。


アヤメは目を凝らした。凝らした瞬間、胸が痛いほど跳ねる。


【Maintenance key: 1/3】


一瞬。光より短い。

でも確かに見えた。見えたのに、見なかったふりをしたくなる。言った瞬間に奪いに来る気がした。


(……でも、残す)


残さないと、ここまでの手順が無駄になる。無駄になると次が増える。


アヤメは口の中を一度噛みしめ、声を落としすぎないように言った。


「表示が出た。欠片、鍵の一部。……『三分の一』」


ユウトが目を見開く。


「今、見えた?」

リオが即座に聞く。

「確かに? “見えた”でいい?」

「見えた。短い表示。だから、今すぐ形にする」


エドがペンを走らせる。


「表示:Maintenance key: 1/3(アヤメ視認)。時刻。立会い:リオ、ユウト、エド、アヤメ。欠片袋、封印継続」


リオは布越しに欠片の封印袋を持ち上げ、二重の封印袋に入れた。

蝋で封を足す。番号札を付け直す。署名を揃える。


封の上に封。

番号の上に署名。

多いことが強い。強いことは相手が嫌がる。


ユウトの手は震えたが、署名は書けた。

書けた署名は、震えより強い。


アヤメは封印袋の列を見つめた。列は嘘を飲み込まない。列は現実だ。


足元の表示が、静かに数字を削っていく。


【Role timer: 62:31:14】

【Log streaming: enabled】


減っていく時間の中で、増えたものがある。

鍵が三つに分かれている――その形。

それを、改ざんできない形で残した。


アヤメは最後に、紙へ太く一行だけ書き足した。


『欠片=鍵の一部(1/3)』


書き終えた瞬間、扉の外でガンゾの声がまた上がった。


「誰だ! そこで何してる!」


足音が走る。レイの気配が動く。

でもアヤメは立ち上がらない。立ち上がらず、封印袋の列を見た。


追うのは、あと。

追うより先に残す。

残せば、追わなくても逃げ道は塞がる。


アヤメは小さく呟いた。


「……ログ取ろ。欠片も、改ざんできない形で残す」

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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