第35話:触れない調査
夜の港は、昼より音が少ない。
少ないぶん、ひとつの音がよく刺さる。縄が擦れる音。灯りの芯が鳴る音。自分の呼吸が石に当たって戻る音。
ミナト・アヤメは詰所の前で、短く息を吐いた。
吐いた息は白くならない。潮は冷たいのに、胸の内側は熱い。熱いのは、早く答えが欲しいからだ。
でも、急ぐのは相手の道。
自分は、順番の道。
足元の輪が、暗い石畳の上にじっと居座る。
【Zone restriction: 3m】
【Observer role: active】
【Role: Log Preservation (temporary)】
【Scope: archive + sealing records】
【Role timer: 64:02:11】
【Log streaming: enabled】
数字が減っていく。
減っていくのに、やることは増える。
だから、増えたぶんは“短い手順”でまとめる。
詰所の机には道具が並んでいた。
布、封印袋、番号札、蝋、印を押す小さな板、チョーク。
そしてユウトが削った細い木片。先が尖っている。チョークより残る印だ。
ユウトが小声で言った。
「溝、三つ。これなら消すのに手がいる」
「いい。手がいるなら、痕が出る」
アヤメが言うと、ユウトは少しだけ肩の力を抜いた。
怖いのは消えない。
でも、怖いまま手順ができると、人は動ける。
リオが封印袋を数えながら言う。
「今日は“触れない”。触るなら布越し。採るのは水だけ。開けない」
「開けない」
アヤメは頷いた。
開けないのは逃げじゃない。守るための選び方だ。
エドが紙を一枚出す。太い字で短い。
『合流点 手順(短い)』
1 道の印を三つにする
2 立会い三名(リオ/エド/ガンゾ)
3 見るだけ(板・札・周り)
4 水だけ採る(左右)
5 封印して番号
6 戻る(同じ道)
ガンゾが腕を組んで鼻を鳴らす。
「戻る、が大事だ。熱くなるな」
「熱くならない。……熱くなる前に止める」
アヤメが言うと、ガンゾは短く笑った。
荒い笑いだ。でも、荒い笑いは嘘がない。
レイは扉の外に立っていた。影みたいに静かで、目だけが光っている。
見張り役。見張り役がいると、背中が少しだけ軽くなる。
「行く」
エドが言う。全員が頷いた。
頷きが揃うと、現場はひとつになる。
⸻
港の裏へ回ると、匂いが変わった。
潮の匂いが薄くなり、湿った土と古い石と苔の匂いが強くなる。
水路へ近づく匂いだ。
道は狭い。壁が近い。
壁が近いと、人は肩をすぼめる。肩をすぼめると視界が狭くなる。
狭くなると、穴に落ちやすい。
だからアヤメは、最初に地面へ溝を入れた。
ユウトの木片で、石の端をこすって三本。
一本目は浅く、二本目は少し深く、三本目は一番深く。
深さを変えると真似しにくい。真似しようとすれば手が止まる。
「ここから。三本」
アヤメが言う。
リオが頷き、エドが紙に時刻を書き、ガンゾが“見ている”を声にする。
「見た。今、三本」
「見た」
立会いの声が重なる。
声は紙より軽い。けれど、声が揃うと紙に落としたとき強くなる。
レイが先へ進み、角で止まる。目で合図する。――人影なし。
進む。湿りが増える。石が冷える。
水の音が、壁の奥から聞こえてくる。
視界の端に赤い帯が薄く揺れた。
文字は崩れている。意味は読めない。
でも今日は、赤い帯を頼らない。
頼るのは、匂いと、音と、印と、立会い。
合流点が近づくと、地面の石が少しだけ黒くなる。
水が染みた黒さだ。黒いところは滑る。滑るところは足元が乱れる。
足元が乱れると手が出る。手が出ると、関係ができる。
アヤメは足を止め、短く言った。
「縄」
リオが縄を出し、腰の高さで張る。
縄が一本あるだけで、人は無意識に速度を落とす。
速度が落ちれば、滑っても転びにくい。
ユウトが小さく呟く。
「……怖い」
「怖いなら、声にする。声にしたら、手順にできる」
ユウトは震えながら頷いた。
震えても頷けるなら、ここに立てる。
⸻
合流点は、思ったより静かだった。
水の音はある。けれど荒れていない。細く一定の音だ。
石の壁に、金属の板が埋め込まれている。
板に刻まれた短い文字。
「Junction 3」
その上に、小さな穴がある。鍵穴みたいな形。
鍵穴を見ると、胸の奥が冷える。
アヤメは一歩だけ近づき、三メートルの端で止まった。
止まるのが先。触りたくなる前に止まる。
足元に白い表示が出る。短い。
【Access: header-only】
【Duration: 00:01:00】
【Log streaming: enabled】
一分だけ。
この場所でも“表の情報だけ”なら、見える。
金属板の上に、薄い白い文字が浮かんだ。
【Panel: Maintenance Hatch】
【Location: Port Waterline - Junction 3】
【Requirement: Maintenance key】
【Status: locked】
【Note: “Access mismatch”】
一分が熱くなる。
熱くなると手が伸びる。
だからアヤメは、目で拾って声に落とした。
「ここは整備用の扉。開けるには鍵がいる。……それと、“食い違い”って注意書きがある」
エドが即座に紙に書く。
リオが即座に頷く。
ガンゾが太い声で言う。
「見た。聞いた。残せ」
声が揃う。揃った声は、あとで消しにくい。
そのとき、レイが指を一本立てた。――音。
水の音とは違う、乾いた音。
紙を擦るような薄い音。
アヤメの背中がぞわりとした。
呼吸のない気配。笑っていないのに笑っている気配。
レイが壁の影を指で示す。
奥の通路の端に、一瞬だけ黒い影が落ちた。人の影。
なのに足音がない。足音がない人は怖い。
ガンゾが前へ出かけた。
アヤメが手を上げる。
「止める。追わない」
追えば混乱になる。混乱になれば手順が崩れる。
崩れた瞬間に、相手の勝ちになる。
レイは無言で頷き、影を追わずに“逃げ道”だけを見る。
追わない戦い方だ。
リオが小声で言った。
「影は見せた。誘ってる」
「誘いなら、乗らない」
アヤメは短く返し、金属板から目を離した。
今やることは、開けることじゃない。
“鍵が必要”という事実を、強く残すことだ。
アヤメは金属板の前の地面にも、溝を三本入れた。
ここに来た証拠。ここを見た証拠。ここで止まった証拠。
ユウトが息を飲む。
「これ、残るよな」
「残る。消すなら削る手がいる。手がいるなら見つかる」
次の手順へ移る。
「水、採る。左右」
合流点には左右から水が来ている。
細い流れが合わさって、下へ落ちていく。
リオが小瓶を二つ出した。瓶には番号札がついている。AとB。左右のためだ。
「布」
瓶の口に布をかぶせ、布越しに水を受ける。
直接触れない。直接当てない。関係を作らない採り方。
水が布に当たり、冷たい匂いが立つ。鉄の匂い。
そして――ほんの少しだけ、紙の匂い。
アヤメの眉が動いた。
紙の匂いは、この場所の匂いじゃない。人が持ち込む匂いだ。
「右、匂いが違う」
エドが書く。
ガンゾが声にする。
「右、匂いが違う。今、聞いた」
声にすると、匂いが“言い逃げできない事実”になる。
左も採る。左は匂いが軽い。
軽いなら、右が異常の可能性が高い。
採り終えた瓶は、その場で封印袋へ入れる。
封を閉じる。番号札を確認する。立会い署名。
持ち帰ってから封をすると、混ざる余地が増える。
白い表示が出た。
【Action: seal sample (witnessed)】
【Status: OK】
【Scope violation: none】
OK。違反なし。
それだけで背中の冷たさが少し薄くなる。
⸻
影の方から、また薄い音。
今度は石の上を引くような音だ。引く音は、何かを擦っている音。
擦る。
その言葉が頭の中で跳ねる。
ユウトの顔が青くなる。
「……擦ってる?」
「音だけで決めない。でも、残す」
音は嘘をつくことがある。
でも“音がした”は事実だ。
アヤメはチョークで壁に短く書いた。
『音:紙が擦れる(2回目)』
『方向:奥通路』
『追わない』
追わない、まで書く。
追わないことも手順だ。手順なら揺さぶられにくい。
そのとき、金属板の端に小さなものが落ちているのが見えた。
薄い札の欠片。端が小さく光る。港で見た“光る薄い札”と似ている。
(落とした? 置いた?)
置いたなら誘い。落としたなら痕。
どちらでも、触らないで回収する。
「布、封印袋」
リオがすぐ動く。布越しに欠片をすくい、袋へ入れる。
番号札。立会い署名。
小さい欠片でも、相手の指の跡みたいなものだ。
封をした瞬間、視界の端に赤い帯が一度だけ濃く出た。
意味は読めないのに、刺さる赤。
【— — — — —】
嫌がっている。
嫌がっているなら、こちらが正しい。
⸻
帰り道は、行きより静かだった。
静かになると心臓の音が大きく聞こえる。大きいと怖さが増える。
怖いと足が早くなる。早いと滑る。
だからアヤメは、溝を確認しながら進んだ。
深さが違う三本。それを目で追って帰る。
途中、最初の溝のところでユウトが小さく言った。
「……真似しようとした跡がある」
「どこ」
止まるのが先。
ユウトが指さす。溝の横に浅い一本線。
真似しようとして、やめた線。手が止まった線。
「触らない。……でも、残す」
アヤメはその横に短く書いた。
『浅い線:1本(真似跡)』
エドが紙に写す。
ガンゾが声にする。
「見た。真似跡、一本」
揃った声は、薄い線でも“残る線”にする。
レイが小さく言った。
「影は、こっちを見てた。距離を保って。触らせない距離」
「触らせたいんだ」
リオが低く呟く。
触らせたい。関係を作りたい。関係ができたら縛れる。縛れたら手順を壊せる。
「壊させない」
アヤメは言った。
壊させないのは拳じゃない。手順だ。
⸻
詰所へ戻ると、机の上に封印袋が並んだ。
水のサンプル二つ。光る欠片一つ。
紙には時刻、立会い、場所、溝の記録。
アヤメは短い紙にまとめた。現場の言葉で。
『合流点 結果(短い)』
・板:鍵が必要/注意書きあり
・水:左右で匂いが違う
・欠片:光る札の一部(回収)
・音:紙が擦れる(2回)
・道:真似跡(浅い線)
書き終えた瞬間、白い表示。
【Role timer: 63:31:08】
【Log streaming: enabled】
時間は減っている。
でも減ったぶんだけ封印袋が増えた。封印袋は、相手が嫌がる。
そのとき、扉の外に青い光が立った。
【Unit: MASK】
【ID: M-02】
M-02の声は揺れない。
「水路へ行った」
「行った。開けてない。触ってない。採っただけ。全部、封印した」
「危険だ」
「危険を減らすためにやった。“分からない”が一番、危険を増やす」
アヤメは顔を上げずに答えた。
上げると相手のペースになる。相手のペースは焦りのペースだ。
M-02が一拍置く。長い一拍。嫌がっている証拠。
そして言った。
「鍵は存在しない」
アヤメは短く返す。
「鍵が必要って板に出た。……板が嘘なら、板を直すのが先」
相手の言葉を、相手に返す形。
M-02の青い光が、ほんの少し硬くなる。
硬くなった瞬間、詰所の隅で紙が擦れる音がした気がした。
誰も動いていないのに。
アヤメは振り向かない。
代わりに封印袋の列を見る。列は嘘を飲み込まない。列は現実だ。
小さく呟く。
「……ログ取ろ。鍵の影も、改ざんできない形で残す」
その瞬間、机の端で封印袋のひとつが、ほんの少しだけ光った。
欠片の袋。袋の中で、欠片の端が小さく瞬く。
視界に短い白い行が滑った。
【Maintenance key: fragment detected】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
欠片。鍵の欠片。
まだ使えない。
でも“ある”という事実だけは、今ここに落ちた。
アヤメは息を吐き、封印袋に指を当てず、目だけで見た。
目で見て、紙に落とす。触らないで残す。
「……欠片、鍵の欠片だ」
言った瞬間、全員の呼吸が一拍揃った。
揃った呼吸は、次の手順の合図だ。
エドが低く言う。
「封印を追加。二重にする。保管庫へ。棚札の印も三つに増やす」
リオが頷く。
「水の瓶も同じ。左右で比べる。比べれば嘘が浮く」
ユウトが握った拳をほどき、言った。
「印、今夜中に増やす。溝、三つ。札も三つ」
ガンゾが太い声で笑う。
「いい。残せ。残して、逃げ道を塞げ」
レイは何も言わない。
ただ、扉の外の暗い方を見ていた。
暗い奥で、誰かが笑っていない笑いをしている気がするから。
アヤメは手帳を抱え直し、胸の中で決めた。
鍵は、欠片でも鍵だ。
欠片が出たなら、次は“鍵を使う側”の手が見える。
手が見えるなら、掴める。
掴むのは拳じゃない。
手順だ。封だ。番号だ。立会いだ。
そして――改ざんできない形で残すことだ。
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