第34話:ヘッダだけの許可
港に戻ると、潮の匂いが肺に刺さった。
刺さるのに、落ち着く。現場の匂いは、嘘を飲み込みにくいからだ。
ミナト・アヤメは詰所へ向かいながら、手帳の角を指で押さえた。
保管庫で見た“違い”は小さい。
小さいけれど、小さい違いほど、あとで全部を壊す。
足元の輪が、潮の匂いの上に重なる。
【Zone restriction: 3m】
【Observer role: active】
【Role: Log Preservation (temporary)】
【Scope: archive + sealing records】
【Role timer: 66:18:41】
【Log streaming: enabled】
数字が減っている。
減るなら、言葉を急ぐより先に、形を急ぐ。
詰所の扉を開けると、紙の匂いがふわっと押し返してきた。
机の上には管理箱。封印袋。番号札。
そして、エドの字で書かれた短い紙が置かれている。
『今日やること』
・棚札の印を増やす
・一覧の写しを二つ
・封の上に封(追加)
・注記の正体を“表の情報だけ”で掴む
リオが顔を上げ、アヤメを見る。
「戻った。……どうだった」
「差し替えがあった。棚札。裏の丸がない札に変えられてた」
壁際のユウトが息を飲んだ。指が止まる。止まれるのは強い。
ガンゾが腕を組み、低く唸る。
「保管庫の中でやるか」
「やる」
アヤメは短く答えた。
短く答えるとき、胸の奥が冷える。怖いからだ。
でも怖いなら、なおさら短くする。余計な言葉は穴になる。
エドが頷き、紙に印をつける。
「旧札は回収できたか」
「できた。封印袋に入れて番号をつけた。立会いは保管庫係二名とM-01」
リオが小さく息を吐いた。
「手順は守れた。なら“未遂”として残る」
「うん。……でも、もう一つ」
アヤメは手帳を開き、言葉を選ぶ。
選ぶ間が長いと、感情が先に出る。感情が先に出ると揺さぶられる。
「一覧に注記が増えた。“事故報告 差し替え”の横に、黒い点」
「黒い点?」
ユウトが小声で聞く。
アヤメは頷いた。
「注記の印。……それと、表示が出た」
あの短い行。目で追った瞬間に消えた白い文字。
「“メンテキー”」
詰所の空気が少し硬くなった。
硬くなると、紙の匂いが強く感じる。紙の匂いは緊張の匂いでもある。
扉の外からレイが一歩入ってきた。影みたいに静かで、声は低い。
「鍵。……中を開ける鍵」
「開けるだけじゃない」
エドが言った。
エドの言葉は短く、熱がない。熱がないから刺さる。
「“書き換える鍵”の可能性がある。札を差し替えた。注記が増えた。表示が出た。
全部、同じ方向を向いてる」
同じ方向。
点が線になり、線が矢印になる。矢印は“次”を示す。次は深いところだ。
ガンゾが机を指で叩いた。
「じゃあ次はどうする。港は止められねえ」
「止めない」
アヤメは即答した。
止めないために残す。止めないために手順を増やす。
それが今の自分の立ち方だ。
「棚札の裏印を三つにする」
アヤメは手帳に描いた丸を、指で三つ叩く。
「丸二つは、もう知られてる。三つにする。棚の端も三つ。札の裏も三つ」
ユウトが頷いた。
「俺、今すぐ作る。チョークじゃなくて……削った木で溝にする。消しにくい」
「いい。溝は消すのに手が要る。手が要るなら痕が出る」
リオがすぐ続ける。
「封印も追加。札だけじゃなく、棚札の紐の結び目にも印をつける。
紐に蝋を垂らして印を押す。結び直したら割れる」
ガンゾが鼻で笑った。
「割れるなら分かる。分かるなら叩ける」
「叩くのは最後」
エドが淡々と釘を刺した。最後を守るのも手順だ。
アヤメは机の紙を見る。
“注記の正体を表の情報だけで掴む”――そこが一番、息が詰まる。
中身は見られない。今の役目は一覧だけ。
でも“表の情報”なら――誰が、いつ、どこで、くらいは出ることがある。
アヤメは唇を噛み、言った。
「中身は要らない。表の情報だけでも、見られる?」
エドが頷いた。
「例外の申立てだ。中身じゃなく、表だけ。
棚札差し替え未遂が起きた。保管庫で。
保管庫の安全が揺らいだなら、“確認が必要”という形で通る可能性がある」
ユウトが首をかしげる。
エドがすぐ言い直した。
「相手がよく言う“安全のため”を、逆に使う。
危ないから見る。――ただし中身じゃなく、表だけ」
その瞬間、詰所の外が冷えた。
青い光が、扉の隙間から滲む。
【Unit: MASK】
【ID: M-02】
M-02の揺れない声が、室内に入ってくる。
「例外は認められない。範囲外」
リオが顔を上げ、冷たく返す。
「範囲外なら、範囲内の形で聞く。中身はいらない。表だけだ」
「表も情報だ」
「情報は残せば監査できる。監査できるなら暴走しない」
エドが続ける。
「棚札の差し替えが起きた。保管庫で。
保管庫の安全が揺らいだなら、確認は必要だ。――表だけでいい」
M-02は一拍置いた。
その一拍が長いとき、空気が薄くなる。薄くなると焦る。焦ると手順が崩れる。
アヤメは焦らないよう、手帳の角を押さえた。革の冷たさが指に戻る。
そのとき、別の青い光が入口に立った。
【Unit: MASK】
【ID: M-01】
M-01の声は影がない。けれど今日は“条件”を言う声だった。
「表の情報だけの閲覧は可能。条件付き」
M-02が即座に言う。
「安全を損なう」
M-01は淡々と返す。
「条件を満たす場合のみ。立会い二名。記録は封印。閲覧は一回。時間は短い」
一回。短い。
短いのは怖い。でも短いから通る。
アヤメは頷いた。
「立会いはリオとエド。封印もする。……やる」
M-01が机の上へ視線を落とす。視線が落ちると、紙が仕事になる。
「閲覧場所は保管庫の受付。奥室は不可」
「分かった」
その瞬間、白い表示が一つだけ滑った。
【Access exception: header-only】
【Duration: 00:02:00】
【Log streaming: enabled】
二分。
拾えるのは、数字と名前と場所。
それだけでいい。今はそれでいい。
⸻
保管庫の受付は、乾いた空気が薄く震えていた。
紙と鉄の匂いが、いつもより尖っている。尖る匂いは神経を削る。
アヤメは受付の机の前に立ち、息を吐いた。
立会いはリオとエド。
保管庫係が一人、見守り役として横に立つ。
M-01は机の向こうに青い光を置く。
M-02は少し離れて立っている。近づかないのに圧だけがある。
【Zone restriction: 3m】
【Observer role: active】
【Role: Log Preservation (temporary)】
【Scope: archive + sealing records】
【Role timer: 65:44:09】
【Log streaming: enabled】
M-01が淡々と言った。
「対象:事故報告 差し替え。表の情報のみ」
「お願いします」
アヤメは声を丁寧にした。
丁寧にすると感情が入りにくい。感情が入らなければ目が見える。
机の板が、ほんの小さく光った。
光の上に白い文字が並ぶ。今度は崩れていない。意味のある形で出る。
【Document: Incident Report】
【Category: Waterway Maintenance】
【Filed: 17 years ago】
【Location: Port Waterline - Junction 3】
【Reporter: (redacted)】
【Cause: “Access mismatch”】
【Attached: 1 note】
【Status: replaced (annotated)】
アヤメの喉が、きゅっと鳴った。
十七年前。
港の水路。
合流点。
報告者は塗りつぶし。
原因の言葉が、嫌に今の世界の言葉に似ている。
“アクセスの不一致”。
アヤメは胸の痛みをこらえ、息を吐いた。
吐かないと視界が狭くなる。狭くなると二分が溶ける。
リオが小さく呟く。
「……水路」
エドも低く言う。
「原因が言葉になってる。昔から、そういう形だった可能性がある」
M-02が淡々と言う。
「表だ。解釈するな」
アヤメは視線を動かさずに答えた。
「解釈しない。記録する」
添付が一つ。注記の中身は見られない。
でも“注記がある”という事実は掴めた。
そして、差し替え済み(注記付き)。
差し替えは誰かがやった。
誰かがやったのに、報告者は塗りつぶし。そこが一番嫌だ。
アヤメは最後に、もう一行だけ拾おうとした。
板の光の端に、短い文字が見えた気がする。
【Key: maintenance】
――その瞬間、文字が消えた。
二分が終わる。終わりは音がしない。
だから、終わる前に“形”へ落とす。
アヤメは手帳を開け、震えないように単語だけを書きつけた。
「Incident Report」
「Waterway Maintenance」
「Port Waterline - Junction 3」
「Reporter: redacted」
「Cause: Access mismatch」
「Status: replaced (annotated)」
「Key: maintenance(端に見えた)」
書いた瞬間、表示が閉じた。
【Access exception ended】
【Scope violation: none】
【Status: OK】
OK。
でも胸は、OKじゃない。胸の奥に冷たい石が落ちたままだ。
十七年前。
自分が小さかったころ。
水路。合流点。事故報告。差し替え。
“母”という言葉が、喉の下まで上がってきて止まった。
声にしたら崩れる。崩れたら刺される。
だから声にしない。紙にする。
リオがアヤメの手帳をちらりと見て頷いた。
頷きは“見た”の証拠だ。
エドがすぐ言った。
「このメモ、封印する。二重に残す。保管庫へ直行」
「うん」
アヤメはページを切り取らず、写しを作ることにした。
原本は手帳に残す。写しは封印袋へ。
二重に残せば、どちらかが消えても残る。
保管庫係が封印袋を持ってくる。
リオが写しを取り、封をする。番号札。立会い署名。
エドが時刻を書き、アヤメが“表だけ”と太く書いた。
封印が終わったとき、M-02が一歩だけ近づいた。
「水路へ行くな」
アヤメは顔を上げずに答えた。
「行くかどうかは、手順で決める」
「手順は遅い」
「遅い方が、混ざりにくい」
その言葉は自分に向けた言葉でもあった。
早く答えを欲しがると穴に落ちる。穴に落ちたら相手の勝ちだ。
保管庫を出ると、潮の匂いがまた肺に入った。
匂いが入ると涙が出そうになる。涙は弱さじゃない。
でも今は、出す順番じゃない。
詰所へ戻る道すがら、ユウトが小声で聞いた。
「……十七年前って、すごく昔だよな。なんで今」
アヤメは歩きながら答えた。
「今、札が差し替えられた。注記が増えた。鍵が見えた。
昔の事故報告が“差し替え済み”って書かれてる。
同じ手口が昔からあるなら、今の相手は“昔の扉”を使ってる」
扉。注記の扉。
その扉が、胸の奥の石につながっている気がする。
レイが前を歩きながら、低く言った。
「合流点。……夜、見に行く?」
ガンゾが太い声で割り込む。
「行くなら止める形作れ。勝手に潜るな。帰れなくなる」
「潜らない」
アヤメは即答した。
潜らないで、見る。
見るなら立会い。
立会いなら封印袋。
封印袋なら番号。
番号なら一覧。
順番はもう、頭の中でつながっている。
詰所へ戻ると、アヤメは封印袋を机に置き、別の紙に短くまとめた。
難しい説明はしない。現場の言葉に落とす。
『今日分かったこと(短い)』
・十七年前に水路で事故
・報告者の名が消されてる
・原因が“アクセスの不一致”
・報告が差し替えられて注記付き
・鍵の気配
書いていると、手が少し震えた。
震えは怖さの印だ。怖いなら、なおさら残す。
リオが紙を見て言う。
「行くなら、明かりと縄。あと、戻る道の印」
ユウトがすぐ言った。
「印、三つにする。溝で。消せない形にする」
エドが続ける。
「水路へ行く理由も紙に落とす。“危険だから行く”じゃなく、
“危険を減らすために見る”にする」
ガンゾが鼻で笑った。
「言い方で通すの、上手くなったな」
「生きるため」
アヤメは言って、息を吐いた。
吐いた息が、胸の石の角を少しだけ丸くする。
そのとき、視界の端に赤い帯が一度だけ濃く出た。
久しぶりに、意味のないはずの赤が強く刺さる。
【— — — — —】
嫌がっている。
嫌がっているなら、こちらが近づいている。
アヤメは手帳を抱え直し、小さく呟いた。
「……ログ取ろ。注記の扉も、改ざんできない形で残す」
そして決める。
水路へ行く。
でも潜らない。
触らない。
立会いと印と封で、“見るだけ”を強くする。
鍵が見えるなら――鍵の使い道も、形で掴めるはずだ。
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