第33話:棚札の影
保管庫の扉は、開くときに音がしない。
正確には、音が“外へ逃げない”。重い石の中に、きしみが吸い込まれて消える。
ミナト・アヤメは、扉の前で一度だけ息を吐いた。
吐いた息は白くならない。ここは乾いていて、暖かい。
暖かいのに背中が冷えるのは――この場所が“残す場所”だからだ。
足元の輪は今日もある。けれど、その上に白い表示が重なっている。
【Zone restriction: 3m】
【Observer role: active】
【Role: Log Preservation (temporary)】
【Scope: archive + sealing records】
【Role timer: 68:04:21】
【Log streaming: enabled】
数字が減っている。
減るなら、やることは先に決める。
アヤメは扉の横の板に、チョークで短く書いた。
『今日の手順』
1 棚札を見る
2 番号と一覧を照らす
3 違ったら止める
4 止めたら封をする
書くと、頭の中が静かになる。
静かになったところで、扉を押した。
中の匂いは、紙と鉄と乾いた布。
音は、自分の靴の音しかない。
人が少ない場所ほど、嘘が入りやすい。だからこそ、順番が必要だ。
保管庫の中には、青い光が一つ立っていた。
【Unit: MASK】
【ID: M-01】
M-01は余計な言葉を言わない。
アヤメが入ったのを見て、淡々と言った。
「日次点検を許可する。棚は開けない。札と一覧を照合する」
同じ言葉。
同じ手順。
同じは強い。
「分かった」
アヤメは短く返し、棚へ向かった。
棚は石の壁に沿って並び、棚札が吊られている。
昨日割り当てられた棚番号が、札に太い字で書かれている。
A-shelf 2
B-shelf 4
C-shelf 1
まずは棚札を見る。
アヤメはA-shelf 2の札を見た。裏の印は――丸が二つ。
印がある。結び目も港の結び方。
目で見て、胸が少しだけ緩む。
次は一覧を見る。
今日は管理箱ではなく、“保管庫側の一覧”だ。
保管庫の壁に紙が貼られている。紙は封がされ、端に署名がある。
この紙は勝手に剥がせない。剥がしたら跡が残る。
アヤメは紙の前に立ち、数字だけを追った。
難しいことはしない。数字だけを見る。
昨日一致した番号が、今日も一致しているか。
「A……一致。B……一致。C……」
声に出す。
声に出すと、自分の頭だけで終わらない。
言った瞬間から、空気にも残る。
次に、棚の“端”を見る。
棚の端には、チョークで小さな印がある。昨日ユウトが付けた印だ。
丸が二つ。棚札の裏と同じ。
札と棚の印が同じなら、札だけ差し替えても棚の印でバレる。
(印を二つにして正解だった)
アヤメがB-shelf 4へ向かった、そのとき――背中が少しだけ冷えた。
風じゃない。保管庫に風は入りにくい。
なのに冷える。
呼吸のない気配。
笑っていないのに、笑っている気配。
アヤメは振り向かない。
振り向くと穴に引きずられる。
代わりに足元の表示を見る。表示は嘘をつきにくい。
【Scope violation: none】
【Status: OK】
違反なし。
違反なしなら、今は“見えない手”が外にいるだけかもしれない。
外にいるなら、こちらは中で“形”を強くする。
B-shelf 4の札の前に立つ。
札は昨日と同じ場所に吊られている……はずだった。
アヤメの目が止まる。
札の位置が、ほんの少し低い。
結び目が、ほんの少し違う。
昨日は紐の端が右に出ていた。今日は左に出ている。
小さな違い。
でも偽物は、いつも小さな違いから始まる。
(止める)
アヤメは手を上げた。
「止める」
声は大きくない。
けれど保管庫は静かだから、その一言が石に当たって戻ってくる。
戻ってくる一言は、確かだ。
M-01の青い光が、わずかに強くなった。
「理由を申告」
「棚札の結び目が違う。位置が低い。……触らずに確認する」
札の裏を見たい。
だが今日は、裏が見えにくい角度に吊られている。
昨日は見やすかった。今日は見えにくい。
見えにくいのは、わざとだ。
わざとなら、“触らせたい”可能性がある。
触らせて関係を作りたい。関係ができたら縛れる。
アヤメは一歩下がり、口に出しかけて止まった。
「リオ、立会い」「エド、紙」――そう呼びたい。
でも今日は一人だ。保管庫はいつも全員で来られる場所じゃない。
(……だから狙われる)
喉が乾く。
乾くと焦る。焦ると手順が崩れる。
崩した瞬間に負ける。
だから代わりの手順を使う。
アヤメは壁の一覧紙を指さし、M-01へ言った。
「ここで立会いを取れる? 保管庫側の人を二人」
「可能。保管庫係を呼ぶ」
M-01が青い光を一つ点滅させた。
奥の小扉から、人が出てきた。保管庫係の男と女。顔色が硬い。
男が言う。
「何があった」
「棚札が違う。触らずに裏の印を確認したい。立会いをお願いします」
丁寧に言う。
丁寧は鎧だ。鎧があると、相手も雑に扱いにくい。
女が頷き、男と並んで横に立った。
立会いが二人揃う。これで“触る手順”が作れる。
アヤメは薄い布を取り出した。
直接触らないための布。いつでも持ち歩いている。
「布越しに札を支えて、裏を見ます。触るのは私。見ているのは全員」
全員が頷く。
頷きが揃ったところで、布を札の下に差し入れ、札を支えた。
支えるだけ。引っ張らない。
引っ張ると結び目が動き、証拠が壊れる。
札の裏が見えた。
――丸が、ない。
印がない。
昨日はあった。今日はない。
胃の奥が冷えた。
差し替えだ。しかも保管庫の中でやっている。
外より怖い。
ここは“残す場所”だから、ここで崩されたら信頼が折れる。
(でも、手順がある)
アヤメは声を落とさず、短く言った。
「棚札、差し替え。封印対象」
男が息を呑み、女が顔をしかめた。
当然だ。でも、顔をしかめても手順は進む。
アヤメは紙を持っていない。
だから壁のチョーク板を使う。棚の管理用の板だ。
太く書く。
『B-shelf 4 棚札差し替え』
『時刻:——』
『立会い:保管庫係男/保管庫係女/M-01/アヤメ』
『裏印:なし』
時刻を書いた瞬間、胸のざわつきが少し収まった。
時刻は鎖だ。鎖があると嘘が動きにくい。
M-01が淡々と言う。
「旧札が存在する可能性。探索するか」
「する。触らずに探す。溝、棚の下、角。……捨てるなら近い」
差し替えるとき、古い札は邪魔になる。
邪魔なら捨てる。捨てるなら近い。近いなら見つかる。
アヤメは三メートルの範囲で、床の角を目で追った。
棚の影。棚の脚の近く。石の継ぎ目。
木札は、継ぎ目に引っかかりやすい。
――あった。
棚の脚の後ろ。石の継ぎ目に木札が半分だけ挟まっている。
ここは乾いている。泥がない。だから余計に目立つ。
「見つけた。……触らないで回収」
保管庫係の女が布で札をすくい上げる。
布越し。そのまま封印袋へ――封印袋は保管庫側が持ってきた。
ここは“封”が常にある。そこが強みだ。
番号札をつける。
立会いの署名。
時刻と場所。
アヤメも署名する。
これで札が“証拠物”になる。
封印が終わったら、次は“戻す”。
棚札が偽物のままだと、次の点検で混乱する。
混乱は相手の狙いだ。狙いを与えない。
「予備札、ある?」
男が棚の奥から予備の札を出した。裏に丸が二つ。
結び方も港の結び方で付け直す。
結び方も印だ。
付け直した瞬間、アヤメの視界に白い表示が出た。
【Action: seal evidence (witnessed)】
【Status: OK】
【Scope violation: none】
【Role timer: 67:51:02】
OK。
違反なし。
手順は守れた。
――守れたのに、背中の冷たさは消えない。
呼吸のない気配が、まだ近い。
近いのに見えないのは嫌だ。
でも見えないなら、“形”で追う。
アヤメは棚の端の印を見た。丸が二つ。
変わっていない。棚そのものは触られていない可能性が高い。
(狙いは中身じゃない。……札だ)
札を変えれば番号が変わる。
番号が変われば一覧が崩れる。
一覧が崩れれば、“差し替え”がしやすくなる。
そのとき、視界の端に白い表示が滑った。
【Archive Index: updated】
【Change: 1 item】
【Detail: denied】
変化。
一項目だけ変わった。
心臓が嫌な跳ね方をする。
どれが変わったか分からない。
分からないなら、全体をもう一度“照らす”。
「一覧、もう一度確認する。棚札と棚番号、全部見る」
保管庫係の二人が頷く。
M-01も淡々と頷いた。
もう一度やる。
面倒だ。けれど面倒ほど強い。相手は面倒を嫌う。
A-shelf 2、印あり。
C-shelf 1、印あり。
B-shelf 4は直した。印あり。
一覧紙の見出しを、同じ順番で目で追う。
そして、目が止まった。
“事故報告 差し替え”
見出しの横に、小さな黒い点が付いている。
昨日はなかった点。
黒い点。
“注記”の印。
喉が、ひゅっと鳴る。
見出しだけなのに胸の奥が痛い。
事故。報告。差し替え。
それらが一本の糸で繋がると、嫌な形になる。
(でも今は触れない。触れたら奪われる)
アヤメは自分に言い聞かせるように、声に出した。
「見出しに印が増えた。注記が付いた」
保管庫係の男が眉をひそめる。
「注記? それは……誰が」
「分からない。だから形で止める。……M-01、一覧の封印を追加できる?」
M-01が淡々と言った。
「可能。封印を追加する。立会いが必要」
「ここにいる。お願いします」
封印は重ねるほど剥がしにくい。
剥がしにくいほど手間が増える。
手間が増えれば、どこかで痕が出る。
保管庫係が封印の布と蝋を用意し、封印を追加した。
追加封印の番号もつける。
署名を揃える。
“封の上に封”は強い。
封印が終わった瞬間、赤い帯が一度だけ濃く出た。
【— — — — —】
相手が嫌がっている。
嫌がっているなら、これで正しい。
――そう思った、そのとき。
保管庫の奥、さらに奥の小扉の方で、紙が擦れる音がした。
さっきも聞いた音。
そして今日は、近い。
保管庫係の女が顔を上げる。
「……今、誰かいた?」
男が首を振る。
「ここは俺たちと、あなたたちだけだ」
“だけ”。
だけなら、音がするはずがない。
アヤメは振り向かない。
代わりに足元の表示を見る。
白い表示の上に、短い行が滑った。
【Maintenance key】
一瞬で消える。
でも見逃さなかった。
“メンテキー”。整備用の鍵。
鍵は扉を開ける。棚を開ける。封を破る。
嫌な想像が一気に増える。
アヤメは手帳を開く衝動をこらえた。
書くより先に、止める。
アヤメは声を落とさずに言った。
「M-01。奥、確認。私の範囲で行ける? 三メートルだけ」
「許可する。立会いを伴う」
立会い。
保管庫係の二人がアヤメの横に付く。
怖い。でも怖いからこそ、形で補う。
三人で奥の小扉へ近づく。
隙間は暗い。暗い隙間は目を吸い込む。
吸い込まれないよう、アヤメは床を見る。床は現実だ。
床の石の継ぎ目に、薄い紙片が落ちていた。
端が小さく光る。港で見た形に似ている。
光る薄い紙は、人を痺れさせる。
(入れないための罠? それとも誘導?)
誘導なら、触らせたい。
触らせたいなら触らない。
触らない代わりに、封をする。
「封印袋」
保管庫係が封印袋を持ってくる。
布越しに紙片をすくい、袋へ入れる。
番号札。署名。時刻。場所。
封印した瞬間、紙が擦れる音が止まった気がした。
相手が引いたのかもしれない。
引いたなら、こちらの勝ちだ。
アヤメは小扉の前で止まった。
取っ手は冷たい。けれど触らない。
触ると“鍵”と関係ができる気がした。
M-01が淡々と言う。
「奥室の開扉は許可外。現状は封印物の回収に留める」
正しい。
今は入れない。
入れないなら、“入れない”を残す。
アヤメはチョーク板へ戻り、太く書き足した。
『奥室前 紙片回収 封印番号:——』
『表示:Maintenance key(1回)』
『音:紙が擦れる(1回)』
『開けない』
書き終えると、手のひらが少し汗ばんでいた。
汗は生きている証拠だ。影のない存在なら汗をかかない。
アヤメは息を吐き、M-01を見ずに言った。
「差し替えは音がしない。……だから、こちらが音にする。声にする。紙にする」
M-01は淡々と返した。
「適切」
その一言が、背中の冷たさを少しだけ押し返した。
点検を終え、扉の外へ出る。
外の潮の匂いが肺に入る。
匂いが入ると世界が少しだけ“現場”に戻る。
扉を閉める前、視界にもう一度だけ白い表示が出た。
【Archive Index: updated】
【Change: 0 item】
【Status: stable】
【Role timer: 67:32:10】
安定。
安定は勝った証拠でもある。
でも勝った証拠は、相手の反撃も呼ぶ。
港へ戻る道で、アヤメは手帳に短く書いた。
「棚札差し替え未遂(B-shelf 4)」
「旧札回収、封印」
「一覧に注記が増えた(事故報告 差し替え)」
「Maintenance key(表示)」
「奥室前:紙片回収」
書いて、最後に線を引く。
線を引いた瞬間、胸の奥が痛んだ。
“事故報告 差し替え”。
ただの見出しだ。中身は見えない。
でも見えないのに痛いのは――中身が自分に近いからだ。
アヤメは顔を上げ、遠くの港の煙を見た。
煙は現場の呼吸だ。呼吸があるなら、人はまだ勝てる。
小さく呟く。
「……ログ取ろ。差し替えの影も、改ざんできない形で残す」
そして胸の奥で決める。
次に保管庫へ入るときは、立会いを増やす。
札だけじゃなく、棚の端にもう一つ印を増やす。
“鍵”の気配が来ても、手順で押し返せるように。
差し替えは音がしない。
なら、こちらが音にする。
声にして、紙にして、町に染み込ませる。
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