第32話:保管庫搬入
港の朝は、潮の匂いと一緒に始まる。
けれど今日は、潮より先に紙の匂いが来た。乾いた紙。封をした布。番号札の木の匂い。
匂いだけで分かる。――今日は“運ぶ日”だ。
ミナト・アヤメは詰所の前で立ち止まり、肩を回した。
広くなった範囲が、まだ身体に馴染んでいない。
踏み出すたび、石畳が一歩ぶん遠くへ伸びる感じがする。
【Zone restriction: 3m】
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
三メートル。
それだけで、守れるものが増えた。
でも、視界の端に浮かぶ赤い帯は相変わらず意味を失ったまま、薄く揺れている。
【— — — — —】
【— — — — —】
読めない。
だから、読めない前提で動く。
そして今日は“残す”じゃない。“残したものを守る”日だ。
詰所の扉を押すと、紙が擦れる音がすぐ耳に入った。
机の上に並んでいるのは、封印袋と番号札、それから黒い箱――管理箱。
蓋には太い字で短く書いてある。
『保管』
『触るな』
机の横に、大きい木箱が三つ置かれていた。
木箱にも同じように短い札が貼られている。
『封印回収箱:A』
『封印回収箱:B』
『封印回収箱:C』
ユウトが箱の端を押さえながら、落ち着かない目でアヤメを見る。
「……こんなに、あるの?」
「ある」
リオが短く答えた。
短い返事の裏に、現場の疲れがある。
それでも、ここまで“残っている”という事実がある。
エドが紙束を一枚抜き、机の端に置いた。
見出しは太い字で、誰でも読める。
『運ぶ手順(短い)』
その下に、番号つきで短い文が並ぶ。
1 箱は開けない
2 番号札を数える
3 一覧と一致させる
4 立会い二名
5 運ぶ人の名前を書く
6 着いたら、また数える
7 合わなければ、その場で止める
ガンゾが腕を組み、鼻を鳴らした。
「最後だ。止める、が一番大事だ。勝手に進むな」
「進むと混ざる。混ざったら、相手の勝ちだ」
エドの声は冷えている。
冷えている言葉は、余計な熱がないぶん通りやすい。
詰所の外にレイが立っていた。
影のように静かで、でも視線だけは忙しい。
港の人の流れに、よそ者の歩き方が混ざっていないか。
混ざっているなら、どの方向へ逃げるか。
レイはそれを言葉にせず見ている。
リオがアヤメを見た。
「今日、アヤメが“止める役”だ」
「……止める役?」
「運ぶ途中で変だと思ったら止める。誰が何と言っても止める。今は、それができる」
できることが増えた。
それは助かる。けれど怖い。
怖いからこそ、手順が必要だ。
アヤメの視界に白い表示が出ている。
【Role: Log Preservation (temporary)】
【Scope: archive + sealing records】
【Duration: 3 days】
【Role timer: 70:12:08】
【Log streaming: enabled】
数字は減っていく。
減るなら、先に形を固めるしかない。
アヤメは深く息を吸って、吐いた。
「……始めよう。まず、数える」
数えるのは、現場で一番強い。
数は嘘をつきにくい。
嘘をつくなら、数を変えなきゃいけない。
数を変えるには、必ず誰かの手が要る。
手が要るなら、そこが狙い目になる。
リオが箱Aの蓋に手をかけそうになって止まった。
確認の目でアヤメを見る。
「開けない」
アヤメが言う。
箱を開けた瞬間、“混ざる余地”が生まれる。
余地を作らないのが、今日の形だ。
エドが一覧の紙を出した。
数字だけが縦に並んでいる。
難しい言葉がない。数字は強い。
「箱A、番号札を外側だけ確認。見える分を読み上げる」
番号札は箱の外側の紐にぶら下がっている。
封印袋ひとつに一枚。短い札。
ユウトが札を押さえて、声に出す。
「A-01」
「A-02」
「A-03」
声が少し震える。
震えてもいい。数字は数字だ。
エドが紙に印をつける。
リオが横で見ている。
アヤメは少し離れて全体理解の役に回る。
全体を見る人がいると、混ざりにくい。
箱Aが終わり、箱B、箱C。
最後にエドが言った。
「一致。立会いは俺とリオ。現場の目はガンゾ。運ぶのはレイとユウト。補助で俺。アヤメは先頭で止める役」
ガンゾが頷く。
「運ぶ道は一つ。あっちこっち行くな」
「近道は使わない」
アヤメが言うと、レイが小さく頷いた。
近道は早い。でも混ざりやすい。
混ざりやすい道は、相手の道だ。
港の端から保管庫へ向かう道は一本。
広い道。人の目がある道。
目がある道は、手が出しにくい。
一行が動き出す。
木箱は重い。
重いのは中身じゃない。意味が重い。
歩き出してすぐ、アヤメは足元の輪を意識した。
三メートルは広い。広いぶん、見落としも増える。
【Zone restriction: 3m】
【Observer role: active】
頭の中で“守る丸”を描く。
丸の端に来たものを見逃さない。
見逃さなければ止められる。
道は港から離れるほど静かになる。
潮の匂いが薄れ、乾いた土と石の匂いが増える。
保管庫は町の端。人が集まらない場所。
だからこそ、狙われやすい。
アヤメは手を上げた。
「間を空けて。箱と箱、腕一本ぶん離す」
ユウトがすぐ縄を出し、箱と箱の間に軽く張った。
縄が一本あるだけで詰めにくくなる。
詰めにくければ、ぶつかり事故が減る。
事故が減れば、“混ぜる口実”が減る。
歩いていると、道の脇から声が飛んだ。
「おい! それ、どこへ運ぶんだ!」
知らない男の声。
大きい声は人の流れを止める。
止めた瞬間に、手が伸びることがある。
アヤメは立ち止まらない。
立ち止まると後ろが詰まる。詰まれば混ざる。
だから歩いたまま短く返す。
「保管庫。封をした物。触らない」
説明しない。
説明すると、相手に情報を渡す。
情報を渡すと、偽物が上手くなる。
男が追いすがる。
「中身を見せろ! 危ねえもんだろ!」
「危ないから見せない。見るなら、審査の手順で」
声を大きくしない。
大きくすると、ざわつきが増える。
ざわつきは相手の道具だ。
レイが男と箱の間へすっと入った。
刃は抜かない。
でも男が踏み込めない距離を作る。
男は舌打ちして引いた。
引く足が軽い。軽い足は本気じゃない。
本気じゃない足は火種だ。火種は踏まなければ消える。
そのまま進む。
進みながら、アヤメの視界の端で赤い帯がまた揺れた。
【— — — — —】
意味は読めない。
けれど今日は、赤い帯より先に“現実の違和感”が来た。
箱Bの横で、番号札が一枚だけ妙に揺れている。
風の揺れじゃない。
紐の結び目が、新しい。
新しい結び目は、触られた結び目だ。
アヤメは手を上げた。
「止める」
一言。
それだけで全員が止まった。
止まれる形ができている。いい。
リオがすぐ近づく。
「何?」
「箱Bの札。結び目が違う」
ユウトが息を飲んだ。
「……さっき数えたときは、こうじゃなかった」
「触らない。まず見る」
アヤメは三メートルの端から目を凝らす。
確かに紐の端が短い。切って結び直した可能性がある。
エドが紙を出した。
「番号は?」
「B-12……」
ユウトが震える声で読む。
札の裏を見たい。
でも札に触ると“関係ができる”ことがある。
リオが言った。
「封印袋には触ってない。札だけなら、立会いの下で扱える」
立会い。
形を作れば、触っても“残せる”。
「立会いはリオとエド。現場の目はガンゾ。レイは周囲」
アヤメが言うと、全員がすぐ動いた。
リオが布を広げ、札の下へ差し入れる。
直接触らず、布越しに札を支える。
エドが紙に書く。
「時刻。場所。対象B-12。違和感:結び目が新しい」
ガンゾが太い声で言った。
「見てるぞ。勝手に動くな」
その声で通行人が少し距離を取る。
距離が取れれば、手が伸びにくい。
リオが布越しに札をめくり、裏を見る。
そして眉が一瞬だけ動いた。
「……印がない」
印。
港の札には丸が二つある。
その印がない。
差し替えられた可能性が高い。
ユウトの顔が青くなる。
「中身じゃなくて、札を……?」
「札を変えれば番号が変わる。番号が変われば、“別の物”にできる」
アヤメは言いながら、喉が冷たくなるのを感じた。
札だけ変える。簡単で、怖い。
エドが低く言った。
「箱を開けない限り、中身は守られている。だから札の差し替えを“事件”として残す」
リオが頷く。
「札を封印する。差し替えたこと自体が証拠だ」
アヤメがすぐ言った。
「新しい札も、古い札も必要。古い札はどこに行った?」
落とされたか、回収されたか。
回収されたなら犯人が持っている。
落とされたなら、どこかにある。
レイが無言で周囲を見た。
視線が地面を掃く。
落ちたものを探す視線だ。
レイは道の端の溝へ、目線だけで示した。
そこに小さな木札が落ちている。泥に半分埋もれていた。
ユウトが拾おうとして止まる。
止まれるのが偉い。
「触らない」
アヤメが言うと、ユウトは頷いて下がった。
リオが布で札をすくい上げ、封印袋へ入れる。
番号札。立会い署名。時刻と場所。見ていた人の名前。
手順が滑らかに進む。
滑らかに進むほど、相手は嫌がる。
アヤメの視界に白い表示が出た。
【Scope: archive + sealing records】
【Action: seal evidence (witnessed)】
【Status: OK】
【Role timer: 70:02:19】
OK。
それだけで胸の奥が少し軽くなる。
リオが封印袋を抱えたまま言う。
「箱Bの中身は触らない。札だけ正しい物に戻す」
「戻す札は、丸二つの印つき。ユウト、予備は?」
「……ある! 予備!」
ユウトが布袋から予備の札を出した。
裏に丸が二つ。
それだけで“本物”だと分かる。
リオが立会いの下で札を付け替える。
結び目は港の結び方。
結び方も印だ。真似しにくい。
エドが紙に最後の一行を書く。
「差し替え未遂。札二枚封印。箱Bは継続搬送」
ガンゾが頷いた。
「よし。進め。今のは“混ぜようとした”って形が残った」
残った。
残ったなら、負けていない。
一行は再び歩き出す。
保管庫が近づくほど人影が減る。
人影が減るほど怖さが増える。
アヤメは前を向いたまま、耳だけを後ろへ向けた。
足音が増えていないか。
息が増えていないか。
荷車の軋みの中に、違う音が混じっていないか。
――混じっている。
小さな音。紙が擦れる音。
背中がぞわりとする。
呼吸のない気配。
笑っていないのに、笑っている気配。
アヤメは振り返らない。
振り返ると穴に引きずられる。
だから、手順で返す。
「レイ」
名前を呼ぶだけ。
レイが無言で前に出て、隊列の外側へ回った。
外側へ回る動きは、追い払う動きだ。
それが見えると、よそ者は距離を取る。
保管庫の前に着いた。
石の建物。小さい窓。重い扉。
中の匂いは乾いている。紙と鉄の匂い。
ここは“残す場所”だ。
扉の前に青い光が立っていた。
【Unit: MASK】
【ID: M-01】
M-01が淡々と言う。
「搬入を確認する。箱を開けない。番号を照合する」
その言葉は今日の手順と同じだった。
同じならやりやすい。
同じは強い。
アヤメの視界にも表示が出る。
【Permission: READ (restricted)】
【Category: Archive Index】
【Access: list only】
一覧だけ。
でも今日は、それで十分だ。
箱は開けない。番号だけ照らす。
照らせば、嘘は浮く。
エドが一覧の紙を持ち、ユウトが番号札を読み上げる。
リオが確認し、アヤメは全体を見て止める準備をする。
ガンゾは人を近づけない。
レイは外側で道を見張る。
読み上げが続く。
「A-01、A-02、A-03……」
「B-10、B-11、B-12……」
「C-05、C-06……」
B-12を読んだとき、アヤメの胸が少しだけ締まった。
でも札は本物。印がある。結び方も港の結び方だ。
エドが紙に印をつけ、最後に言った。
「一致」
その一言で、全員が息を吐いた。
一致は勝ちだ。
M-01が淡々と言った。
「搬入を許可する。棚番号を割り当てる」
棚番号。
数字が増えるほど管理は強くなる。
強くなるほど相手は嫌がる。
アヤメの視界に白い文字が出た。
【Archive allocation: A-shelf 2】
【Archive allocation: B-shelf 4】
【Archive allocation: C-shelf 1】
【Role timer: 69:48:33】
棚が決まった。
棚が決まれば場所が決まる。
場所が決まれば、消すには“そこへ行く手”が必要になる。
手が必要なら、見つけられる。
搬入は静かに進んだ。
箱は開けない。
棚の前に置く。
棚番号の紙を箱の外側に結ぶ。
立会い署名を足す。
すべてが二重に残る。
作業の途中、アヤメは管理の一覧に目を走らせた。
役目があると、見出しが前よりはっきり見える。
ただし中身は見えない。
そして、引っかかる見出しがある。
“事故報告 差し替え”
アヤメは息を止めかけて、すぐ吐いた。
ここで欲張ると手順が崩れる。
崩れた瞬間、仮の役目は奪われる。
でも“見出しがここにある”事実は残せる。
アヤメは手帳を開き、短く書く。
「保管庫:棚割り当て完了」
「差し替え未遂:札封印済」
「見出し:事故報告 差し替え(一覧に残る)」
書いていると、背後の空気が少し冷えた。
振り向かなくても分かる。青い光が増えた。
【Unit: MASK】
【ID: M-02】
M-02の声は揺れない。
「記録が増えすぎている。管理が難しくなる」
アヤメは顔を上げずに答えた。
「難しくなるなら、手順を増やす。手順があれば、同じことができる」
「同じことができる、は危険だ」
「危険だから、立会いと署名がいる。――その形でやってる」
M-02が一拍置く。
その一拍が長い。長いのは、嫌がっている証拠だ。
赤い帯が薄く揺れかけた。
でもすぐに白い文字が上書きする。
【Scope violation: none】
【Status: OK】
違反なし。
それが出た瞬間、背中のぞわりが少し弱まった。
搬入が終わり、箱が棚に並ぶ。
保管庫の扉が閉まると、外の潮の匂いが一気に戻ってきた。
戻ってくる匂いは現場の匂いだ。現場の匂いは強い。
帰り道、アヤメは隊列を崩さず言った。
「戻るまでが手順。帰り道も一本」
誰も反対しない。
反対しないのは、今日“止めた”からだ。
止められた経験があると、人は手順を信じる。
港が見え始めたころ、ユウトが小さく言った。
「……札、差し替えられたの、気づかなかったらどうなってたんだろ」
アヤメはすぐ答えた。
「混ざってた。混ざったら、あとで全部が疑われた。疑われたら、縛られた」
「……怖」
「だから止めた。止めれば混ざらない。混ざらなければ、あとで照らせる」
照らせば、嘘は浮く。
浮いた嘘を掴めば、次へ進める。
詰所へ戻ると、視界に表示が出た。
【Role timer: 69:21:05】
【Log streaming: enabled】
時間は減る。
でも減ったぶんだけ、棚番号が増えた。
棚番号は残る。
アヤメは手帳を閉じ、胸の前で抱えた。
(手順は裏切らない。裏切るのは、人の焦りだ)
焦らない。
順番。
止める。
残す。
アヤメは小さく呟く。
「……ログ取ろ。今日の“止めた”も、改ざんできない形で残す」
遠くで、誰かが紙を擦る音がした気がした。
気のせいかもしれない。
でも気のせいでも、アヤメはもう知っている。
気のせいで済ませると、相手の思う壺だ。
だから、気のせいも――残す。
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