第31話:仮ロール発行
港の風は潮の匂いを運ぶ。
けれど今日は、潮より先に紙の匂いが鼻に来た。乾いた紙。新しい紙。封をした布の匂い。
紙の匂いは、安心にもなるし、不安にもなる。
残るからだ。残るものは、誰かに嫌われる。
ミナト・アヤメは港の端にある小さな詰所の前で立ち止まった。
扉の隙間から、机を擦る音が聞こえる。ペン先が紙を走る音。
その音が、胸の奥を少し落ち着かせた。
足元の見えない輪は、今日もある。
【Zone restriction: 3m】
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
三メートル。昨日より息ができる。
けれど、視界の端に出るはずの“文字”はまだ戻っていない。赤い帯が薄く揺れて、意味だけが抜け落ちたままだ。
【— — — — —】
【— — — — —】
(読めないなら、残す。残すなら、形を強くする)
アヤメが扉を押すと、木がきしんで開いた。
中にはエドとリオ。机の上には紙束、番号札、封印袋。
そして机の隅に、黒く塗られた小さな箱が置かれていた。蓋に短い言葉。
『保管』
『触らない』
ガンゾもいる。腕を組み、眉間に皺を寄せている。
レイは扉の外。影のように立ち、詰所の周りの気配を見張っていた。
ユウトは壁際で落ち着かず、指を揉んでいる。
「来たな」
ガンゾの声は太い。でも抑えている。
抑えているときは、重要な話がある。
リオが紙束を押さえたまま言った。
「審査側が動いた。今日のうちに、役目を一つ作れる」
「役目?」
ユウトが小さく聞く。
エドがすぐに、わかる言い方に直した。
「アヤメに“記録を守る係”を渡せる。期限つきでな」
「記録を守る……」
エドは頷く。
「紙と番号を守る役。封印袋の管理を、きちんと回すための役だ。
その役があると、“この箱を動かしていい”って言える。勝手じゃなく、手順として動ける」
できることの範囲。
それが増えるのは助かる。けれど同時に、怖い。
便利なものは狙われる。
アヤメは手帳を抱き直して言った。
「私が、やっていいの?」
「やるなら、お前が一番向いてる」
ガンゾが言う。
向いてる、という言葉に笑いそうになって、アヤメはやめた。
笑うと軽くなる。軽くなると、足元をすくわれる。
「ただし、条件がある」
リオが続ける。
条件は大事だ。条件が曖昧だと、後で縛られる。
「期限は短い。動ける範囲も決める。好き勝手はできない」
「好き勝手はしない。……しない方が得だし」
アヤメがそう言うと、ガンゾが鼻で笑った。
「そういうとこだ。港の言葉が分かるやつが、紙を持て」
エドが机の上の紙を指で叩いた。
「手順は短くする。読むところが多いと、それだけで嫌がられる。短い手順で通す」
紙には太い字で書いてある。
『ログ保全係(仮) 発行手順』
1 立会い二名以上
2 目的を書く(記録を守る)
3 期限を書く(短く)
4 発行者の署名
5 受け取る者の署名
6 管理箱(番号一覧)と紐づける
「立会い二名は、俺とリオで行ける」
エドが言う。リオが頷く。
ガンゾも腕を組んだまま頷いた。
「もう一人。現場の目だ」
ガンゾはユウトを顎で示した。
「ユウト、お前も立て。震えててもいい。書け」
「……書ける。書けるけど……」
ユウトの声は小さく揺れる。
揺れるのは、生きている証拠だ。
影のない揺れない声より、ずっと信用できる。
――そのとき。
扉の外が、ふっと冷えた。
詰所の空気が一段、硬くなる。
青い光が入口に差し込んだ。カメンだ。
【Unit: MASK】
【ID: M-02】
M-02が、いつもの揺れない声で言う。
「仮の発行は、安定を損なう可能性がある」
“安定”。またその言葉。
その言葉で縛るなら、こちらは“形”で返すしかない。
リオが机の上の紙を持ち上げた。
「損なわない。記録を守るだけ。混乱を減らすため」
「記録は内部が管理する」
「内部が管理して、混乱が出た。だから現場の手順を増やす。――それだけ」
リオの声は低く強い。
強いのに怒鳴らない。怒鳴らない強さは、相手の逃げ道を狭める。
エドが続けた。
「立会いもいる。期限も短い。範囲も狭い。危険は小さい」
「危険が小さい、という判断は主観」
「主観じゃない。紙に書いて残す。残るなら、後で審査できる」
“審査できる”。
その言葉に、M-02の青い光が一瞬だけ強くなった。
空気が変わる。気のせいじゃない。
M-02が言う。
「発行者が必要だ」
「必要だ。だから呼んだ」
エドが扉の外へ目線を投げる。
レイが一歩ずれて通路を空けた。
そこに、もう一つの青い光が入ってきた。
【Unit: MASK】
【ID: M-01】
M-01は余計な言葉を言わない。
けれど今日はまっすぐ机へ近づき、紙を見た。
「仮発行は可能。条件が満たされる場合のみ」
止めるのではなく、条件。
それだけで、こちらが動ける。
エドが頷いた。
「条件は満たす。立会い、期限、目的、署名。――全部そろえる」
リオが紙を広げ、太い字で目的を書く。
『目的:記録を守る。混乱を減らす』
次に期限。短く書く。
『期限:三日』
ガンゾが眉を寄せた。
「短すぎねえか」
「短い方が通る。通れば、また通せる」
エドは“更新”みたいな難しい言い方を避けた。
言葉が難しいと、相手が嫌がる。
署名が回る。
リオ。エド。ユウト。
ガンゾは“現場の責任者”として署名した。字は荒い。でも荒い字ほど本気だ。
最後に、アヤメの番が来た。
白い紙が怖い。
白い紙は何でも書ける。何でも書けるから、間違えると戻れない。
アヤメは息を吐いて、短く自分の名を書く。
ミナト・アヤメ。
書いた瞬間、視界が一度だけ、ふっと明るくなった。
【Permission update: pending】
【Role: Log Preservation (temporary)】
【Scope: archive + sealing records】
【Duration: 3 days】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
いつもの表示の形で、文字が出た。
赤い帯じゃない。白い線の文字。意味がある文字。
読める。
読めるのに、嬉しいより先に怖い。
期限つきだからだ。
M-01が淡々と言った。
「Role granted」
その言葉が落ちた瞬間、空気の抵抗が少し減った気がした。
世界が広がったわけじゃない。
でも、“動いていい”という感覚が戻る。
M-02がすぐに釘を刺す。
「範囲外の閲覧は許可しない」
「分かってる」
アヤメは短く返した。
短い返事が一番いい。余計な言葉は引っかかる。
エドが黒い箱を指した。
「これが管理箱。封印袋の番号と紙の束をここで結び直す。――アヤメ、見てみろ」
アヤメは蓋を開けた。
中には紙束。番号札の控え。立会い署名の一覧。
紐でまとめられ、封印の印が押されている。
紙は、ただの紙じゃない。
ここでは紙が、人を守る。
アヤメが紙束に手を伸ばしかけた瞬間、表示が出た。
【Permission: READ (restricted)】
【Category: Archive Index】
【Content: list only】
一覧だけ。中身は見せない。
でも一覧が見えるだけでも、十分だ。
紙の見出しが目に入る。短い言葉だけが並んでいる。
・封印袋 番号一覧
・立会い署名一覧
・診療所対応記録
・掲示混入記録
・水路採取記録
・審査申立て記録
・……事故報告 差し替え
アヤメの指が止まった。
最後の一行。そこだけ、胸の奥がきゅっと締まる。
事故報告。差し替え。
言葉の意味は分かる。
でも“差し替え”は、普通やらない。やったなら理由がある。
理由があるなら、隠したいものがある。
赤い帯が視界の端で揺れかけた。
けれど、その上に白い表示が重なる。
【Access level insufficient】
【Content: denied】
【Reason: role temporary】
見られない。
見出しだけ見える。中身は拒まれる。
釣りみたいで嫌だった。
(……焦らせるな)
焦れば手順が崩れる。
崩れれば役目を奪われる。
奪われたら、また“読めない朝”に戻る。
アヤメは見出しから目を離し、机の紙に視線を落とした。
今やることは“差し替え”を見ることじゃない。
今やることは“記録を守る”こと。
エドがアヤメの顔色を見て、すぐ言った。
「見出しだけだ。今はそこへ行くな」
「……分かった」
分かった、と言いながら胸の奥はざわつく。
でも、ざわつきは紙に落とせる。
アヤメは手帳を開き、短く書いた。
「記録担当(仮)になった」
「一覧だけ見える/中身は見えない」
「見出し:事故報告 差し替え」
「拒否表示あり」
書いた瞬間、ざわつきが少し形になる。
形になれば、怖さは小さくなる。
そのとき、M-02が管理箱を見て言った。
「記録が増えれば、混乱も増える」
エドが即答する。
「逆だ。記録が増えれば、嘘が増やしにくい」
リオが続けた。
「嘘を増やしたい側が、嫌がるだけ」
その言葉は刃だった。
けれど、言い切るだけの紙がここに揃っている。
紙が揃っていると、言葉は軽くならない。
M-02の光が、ほんの少し硬くなる。
空気が冷える。背中がぞわりとする。
呼吸のない気配。
笑っていないのに、笑っている気配。
アヤメは視線を上げない。
上げると、穴に引きずられる。
だから紙を見る。紙は現実だ。
M-01が淡々と言った。
「Role duration: 72 hours」
数字が出ると、怖さが増す。
七十二時間。三日。
あっという間に削れる時間。
さらに表示が出た。
【Role timer: 71:59:42】
【Log streaming: enabled】
減っていく時間が見える。
見える時間は刃だ。焦りを生む刃。
ユウトが小さく息を飲んだ。
「……減ってる」
「減る。だから、先に手順を作る」
アヤメは言った。
自分にも言い聞かせる。焦るな。順番。順番。
ガンゾが腕を組んだまま言う。
「三日で何ができる」
「三日で、“残す形”を港に染み込ませる」
アヤメは答えた。
港の言葉で言う。港は水と油と汗の場所だから、染み込む感覚が分かる。
エドが頷く。
「まず回収箱の番号一覧を二重にする。紙の束を増やす。保管庫へ運ぶ道も固定する。
誰が運んだかも残す。――運ぶだけでも証拠になる」
リオが言う。
「封印袋の番号と、見ていた人の名前を確実につなぐ。そこが切れたら意味が薄い」
切れないようにつなぐ。
つなぐのは紙の力だ。
アヤメは管理箱の紙束を見つめ、ゆっくり頷いた。
読めない朝は怖かった。
でも今は、読めなくても守る手段がある。
そして今は、守る役目が自分の手にある。
期限つきでも、ある。
白い表示がまた重なった。
【Role timer: 71:58:10】
【Scope violation: none】
違反なし。
その一行だけで、胸の奥が少し軽くなる。
守っている証拠が、勝手に残っていく。
アヤメは小さく息を吐き、呟いた。
「……ログ取ろ。改ざんできない形で残す。三日分、全部」
その瞬間、管理箱の一番下の見出しが――
ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
“事故報告 差し替え”の文字が、少しだけ暗くなる。
見間違いかもしれない。
でも、見間違いでも残す。
アヤメは手帳の端に小さく書き足した。
「見出しが一瞬揺れた」
書いた瞬間、カウントが一秒減る。
【Role timer: 71:57:59】
時間が減る。
減るなら、やる。
やるなら、順番。
アヤメは管理箱の蓋を閉め、手帳を抱き直した。
紙の匂いが港の潮の匂いに混ざる。
混ざった匂いは、なぜか少しだけ強かった。
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