第30話:外れが走る
港の朝は、戻るのが早い。
潮の匂いの上に、人の汗と油と湯気が重なって、空気が一気に“仕事”の形になる。
ミナト・アヤメは石畳の上で、手帳を抱えたまま流れを見ていた。
広くなった世界が、今日は少しだけ頼もしい。
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三メートル。
声が届く。手が届く。人の動きの“癖”が見える距離だ。
――けれど。
視界の端に浮かぶはずの文字は、まだ崩れている。
赤い帯が薄く揺れ、意味だけが抜け落ちたまま居座っている。
【— — — — —】
【— — — — —】
読めない。
だから、読めなくても回る形を増やすしかない。
壁のチョーク。吊った札。縄の導線。封印袋。番号札。立会いの署名。
そして、手帳の紙。
壁の前を通ると、ユウトが釘打ち用の板を抱えて待っていた。
「札、増やした。裏の印も付けた」
「丸、二つ?」
「二つ。見たらすぐ分かるように」
ユウトは不安そうに笑う。でも目は真剣だ。
怖いまま動ける人間は、現場を守る。
アヤメが頷いた、その瞬間だった。
「うわっ!」
検査の列の先で叫び声が弾けた。
荷役の男が手を押さえて尻もちをついている。
荷の上で、薄い光が跳ねた。小さな火花みたいに。
「またかよ!」
「触っただけでビリってくる!」
「検査が止まった!」
ざわつきが一気に広がる。
ざわつきは噂になる。噂は怒りになる。怒りは押し合いになる。
押し合いになったら、次は転ぶ。
レイが先に動いた。
列の横に立ち、押し返さない。ただ、“ここから先は詰まる”という空気を作る。
空気が変わると、人は足を止める。
ガンゾの太い声がかぶさる。
「押すな! 走るな! 壁の矢印見ろ! 手を洗ってからだ!」
アヤメは三メートルの中で、叫び声の中心へ近づいた。
倒れた男の足元。
石畳に薄い小片が落ちている。端がチカ、と光る。
赤い帯が一度だけ濃く脈打った。
【— — — — —】
【— — — — —】
(危ない。形は分かる)
アヤメは声を張った。
「踏まない! 触らない! 壁の『触らない』、守って!」
短い言葉。現場の言葉。
長い説明はいらない。今は止めるのが先だ。
倒れた男が歯を食いしばる。
「ただ運んだだけだぞ……! なんでだよ……!」
アヤメは男の手を見る。
指先が赤い。痺れたように震えている。
「診療所へ行こう。……今、動ける?」
「……くそ、動ける」
男が立ち上がろうとしてふらついた。
レイが無言で肘を貸す。引っ張らない。支えるだけ。
引っ張らない支えは、相手の心を折らない。
――そのとき、別の方向から声が重なった。
「こっちもだ!」
「荷が光った!」
「手が痺れる!」
一つじゃない。
点が線になる。線が面になる。
面になったら、港が止まる。
エドが走ってきた。紙束はない。代わりに木箱を二つ抱えている。
蓋に大きく黒い字。
『封印回収箱』
『触るな 入れるだけ』
エドは箱を検査場の横に置き、声を落とさず言った。
「出たら、ここへ入れろ! 触るな!
布で包む! 番号をつける! 立会いは俺が回す!」
港の空気が一段変わった。
“置き場”ができると、人は落ち着く。
迷いが減るからだ。
リオも来ていた。封印袋と紐を抱えている。
目が冷えている。手順が頭にある目だ。
「回収箱は二つ。片方は診療所側へ回す。比べるために」
比べる。
その言葉で、アヤメの胸が少し落ち着く。
(“普通”がある。比べられる)
アヤメは壁の札を指さし、声を出した。
「列は四つに分ける!
『受付』→『手洗い』→『検査』→『搬入』!
痛い人は右! 動ける人は左! 荷は置く! 置いたら手を洗う!」
言いながらチョークで地面に線を引いた。
線は順番になる。順番は混乱を減らす。
ユウトがすぐ動く。
札を持ち、矢印を追加し、縄を張る。
縄が一本あるだけで、人はぶつかりにくい。
ガンゾが声をかぶせた。
「アヤメの線に沿って動け! 逆走するな! 逆走は損だ!」
“損”は効く。
港は損が嫌いだ。嫌いだから動く。
しばらくして、検査場の端に“痛い人”の列ができた。
痺れを訴える者。手のひらが赤い者。指先が震える者。
軽い者は立てる。重い者は座り込む。
アヤメは座り込んだ女に声をかけた。
「息、吐いて。ゆっくり。……何に触った?」
「分かんない……袋が、ぴかって……」
「袋、ここにある?」
「……ある、そこ」
女が指した荷の端に、小さな札のようなものが挟まっていた。
薄い札。端が小さく光る。
赤い帯がまた脈打つ。
文字はないのに、体が“触るな”と叫ぶ。
「触らない。……リオ!」
リオが来て布で包み、封印袋へ入れる。番号札。署名。
その動きが、周りの目にも入る。
見える形は真似されることもある。けれど今は、見える形で動かないと現場が壊れる。
エドは回収箱の横で封印袋を受け取り続けていた。
箱に入れる前に番号を読み上げ、紙に書く。
書けば、箱は“ただの箱”じゃなくなる。
箱が記録になる。
「番号、四十七。立会い、ガンゾ。見てたの、ユウト」
「番号、四十八。立会い、リオ。見てたの、レイ」
番号が増える。
増えるほど、相手は嫌がる。
嫌がれば、手を出してくる。
案の定だった。
「うるせえ! こんなことしてたら仕事にならねえだろ!」
男が怒鳴り、回収箱を蹴ろうとした。
蹴られたら箱が倒れる。袋が散る。番号が混ざる。
混ざったら相手の勝ちだ。
レイが、蹴る前に男の前へ立った。
刃は抜かない。
ただ、足が止まる距離に立つ。
男の足が止まった。
歯ぎしりして、別の方向へ怒鳴り散らしながら去る。
去るときの荒い歩き方は群衆を煽る。
だからガンゾがすぐ声を上げた。
「蹴ったら損だ! 箱が壊れたら検査がもっと止まる!
止まったら今日の稼ぎが消える!」
稼ぎが消えるのが、一番怖い。
怖いものが見えると、人は落ち着く。
落ち着いたところで、アヤメは次の手へ移る。
「診療所へ回す列も作る! レイ、行ける?」
「行く」
レイは痺れの強い者を診療所へ誘導し始めた。
導線が増えると、港が呼吸できる。
――しかし、そのとき。
検査場の端。
人の波の隙間を縫うように、ひとりの若い男が走った。
走り方が違う。港の走り方じゃない。
港の走りは荷も人も避ける。
けれどその男は避けない。ぶつかっても構わない走り方。
そして、男が通った後――なぜか“痛い人”が増えた。
(……撒いてる)
背中が冷えた。
混乱の中で、混乱を増やす。そういうやり方。
「ユウト!」
ユウトが即座に顔を上げる。怖さの中でも目が動く。
「今の走ったやつ、見た?」
「見た……! 手の動きが変だった」
「どう変?」
「手首をひねって……擦るみたいに。袋に触れたとき、角度が変だった」
擦る。
触れるんじゃない。擦る。
擦れば薄いものが落ちる。貼り付く。混ざる。
ユウトは続けた。
「港の持ち方じゃない。港は指の腹で持つ。
あいつは……手の甲側で擦ってた。癖だと思う」
癖は嘘をつきにくい。
癖を掴めば、人を掴める。
レイが診療所へ向かう途中で立ち止まり、視線を投げた。
“追うか”の合図。
アヤメは迷わず言った。
「追う。レイ、ユウト、行ける?」
「行ける」
「……行ける!」
ユウトの声は震えていた。でも足は動いた。
怖くても動ける。それが強さだ。
アヤメは走らない。
三メートルの中で走ったら列が崩れる。
だから残る。残って形を守る。
「エド! 回収箱、守って! 番号、混ぜないで!」
「任せろ!」
短い声は現場を守る。
アヤメはガンゾに指示する。
「追う組が戻るまで、導線は固定! 逆走は止めて!」
「分かった! おい! 矢印の逆に行くな!」
港は動き続ける。
動き続ける間に、診療所の前は別の地獄になる。
痛い人が増える。泣く子が増える。叫ぶ声が増える。
増えるほど誤解が増える。誤解が増えるほど怒りが増える。
アヤメは診療所の入口へ行き、壁にチョークで大きく書いた。
『痛い人 ここ』
『軽い人 待つ』
『手を洗う』
『触らない』
さらに地面に線を引いて“診療所の列”を作る。
列がないと押し合いになる。押し合いになれば倒れる。倒れれば命が削れる。
中から看護役の女が顔を出した。余裕が削れている顔だ。
「誰から入れる!」
アヤメは即答する。
「息が苦しい人、先! 手が動かない人、次!
痺れが軽い人は外で待つ!」
完璧じゃない。でも今必要なのは完璧じゃない。順番だ。
看護役が頷き、叫んだ。
「息が苦しい人、こっち! 手が動かない人、次! 他は外!」
外で待つ者が不満顔になる。
当然だ。だからアヤメは“損”の言葉を選ぶ。
「押し込むと遅くなる! 遅くなると余計に待つ! 列を守って!」
一拍置いて、人が列に戻る。
戻った瞬間、診療所の空気が少し薄くなる。
薄くなると、呼吸ができる。
――そのとき、港の方から声が上がった。
レイの声ではない。ユウトの声だ。
「いた! あいつだ!」
足音が近づく。
二人に引きずられるように、若い男が連れてこられた。
男の手には黒い手袋。
新品みたいに綺麗だ。港の手袋じゃない。
男は叫んだ。
「違う! 俺じゃない! 俺は言われただけだ!」
ユウトが息を切らしながら言う。
「擦る癖が同じだった。手首のひねり……絶対、同じ」
レイは男の肩を押さえる。痛くないのに動けない押さえ方。
逃げ道だけを潰す。
エドが診療所の入口まで来て、低く言った。
「言われただけなら言え。誰に」
「……言えない!」
「言えないなら、“言えない”を残す。――リオ!」
リオが封印袋を持って来た。
男の手袋を見て、眉が一瞬動く。
「その手袋、外せ」
男が拒もうとすると、レイの視線が落ちる。
それだけで男の肩がすくむ。
男は震える手で手袋を外した。
手は綺麗だった。爪も整っている。油の染みがない。港の手じゃない。
そして手首の内側に、薄い白い粉が付いていた。
チョークより細かい粉。紙の粉みたいな白。
赤い帯が一度だけ濃く脈打つ。
【— — — — —】
文字はない。
でも“これだ”という感じがある。
エドが短く言った。
「粉、封印」
リオが頷き、布で包み、袋へ入れる。番号札。署名。
形が整うたび、男の顔が青くなる。
「頼む! 俺、ほんとに知らない! ただ運べって……!」
嘘の声には聞こえない。
ただ、怖い声だ。怖い声は人を売る。
アヤメは男の前に立ち、短い言葉を選ぶ。逃げ道を潰すために。
「運べって言ったのは誰」
「……先生みたいな人だよ」
「先生みたい?」
「喋り方が静かで……笑わなくて……。怒鳴らないのに、逆らえない感じ」
“笑わない”という言葉が背中を冷やした。
呼吸がない気配。笑っていないのに笑っている気配。
アヤメはそれを思い出して、唇を噛む。
「その人、どこにいる」
「知らない! 会うのはいつも裏だ。……紙袋だけ渡される」
「どこで渡される」
男は目を泳がせ、吐くように言った。
「……水の通るとこ。港の裏の湿った道。
あそこ、抜け道がある。水路の方へ……」
水路。
湿った道。抜け道。
診療所の裏、点検口の匂いが鼻に蘇る。
リオが一瞬だけ目を細めた。同じ線を思ったのだと分かる。
エドがさらに問う。
「他にも運んだか」
「運んだ……何回も……」
「何を」
「光る札みたいなやつ。薄い紙みたいなやつ。
手袋で擦ると、服とか荷に貼り付くって……言われた」
擦る。
やっぱり擦る。
擦って混ぜる。混ぜて痺れを起こす。痺れで混乱を起こす。
混乱が起きたら、“安全”で縛れる。
アヤメは男の言葉を手帳に書き、最後に線を引いた。
線を引くのは、重要だと自分に知らせるためだ。
そのとき、回収箱の方からガンゾが叫んだ。
「箱が増えてる! 出てくる数が多すぎる!」
アヤメは港側へ戻り、回収箱を覗いた。
封印袋が山になっている。番号札が揺れ、紙が束になり、署名が増えている。
――残っている。
それだけで、少し勝っている気がした。
リオがそっと小瓶を取り出した。
診療所裏で採った“普通”の水。番号札。封印。
封印は破らない。破れない。
だから瓶の外側を布で拭き、抱え直す。
「……比べる」
リオの声は小さい。
アヤメは頷き、回収箱の封印袋を一つ、布越しに触れた。
触れたのは袋の外。袋は封印されている。
“関係”を作らない触れ方。
その瞬間、指先に冷たさが走った。
ただの冬の冷たさじゃない。
水路の点検口の裏で嗅いだ、あの冷たい感じ。石の奥の冷たさ。金属の奥の冷たさ。
アヤメは息を止め、瓶の外側に指を当てる。
瓶も冷たい。
そして、さっきの袋の冷たさと質が似ていた。
(同じ……?)
文字は読めない。
でも手触りは嘘をつきにくい。
リオも同じことを感じたのだろう。
瓶を抱えたまま、短く言った。
「……源が近い」
源。
港で混ぜられたものの源。
診療所裏の“普通”に混ざる源。
赤い帯が小さく脈打った。
今度の脈は、怒りというより、笑いに近い軽さ。胸がぞわりとする。
呼吸がない気配。
笑っていないのに、笑っている気配。
アヤメは手帳を開き、震えない字で書いた。
「外れが大量に出た」
「擦る癖の使い走りを確保」
「黒い手袋/先生みたいな人」
「水路の抜け道」
「回収箱の冷たさ=基準の冷たさに近い」
書けば、胸の奥が固まる。
固まれば、折れない。
レイが近づき、低い声で言った。
「抜け道、今夜」
アヤメは頷いた。
“今夜”は怖い。
でも怖いほど、輪郭がはっきりする。
エドが回収箱の蓋を閉め、番号札を確かめながら言った。
「箱は保管庫へ。記録は写す。
混ぜられた数だけ、相手の手も増える」
「増えたなら、残す。増えた分、残す」
ガンゾが太い声で笑った。
「残せ残せ! 残して、後でまとめて叩け!」
港の笑い声は荒い。
でも今日は、その荒さが頼もしい。
診療所の方から、また泣き声が聞こえた。
現場はまだ終わっていない。
だから立ち止まれない。
アヤメは回収箱の横で、小さく呟いた。
「……ログ取ろ。改ざんできない形で残す」
赤い帯が、もう一度だけ脈打った。
まるでどこか遠い場所で、“先生みたいな誰か”がこちらの記録を見ているみたいに。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
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