第29話:審査室
審査室の空気は、乾いていた。
潮の匂いも、油の匂いもない。代わりに紙の匂いがある。古い紙。新しい紙。乾いた墨。
声を出すと、壁にぶつかって戻ってくる。港とは違う戻り方だ。ここでは言葉が逃げない。
ミナト・アヤメは机の前で背筋を伸ばした。
足元の輪は、ここでも消えない。
【Zone restriction: 2m】
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
二メートル。
椅子を引くにも気をつける距離だ。
これは「安全」のためだと言われる。けれど距離は、心も縮める。
机の向こうには審査役が二人いた。
顔は見えるのに、表情が硬い。硬い表情は、結論を持って来たときの表情だ。
机の横には、青い光が二つ。
カメン。
【Unit: MASK】
【ID: M-01】
【Unit: MASK】
【ID: M-02】
M-01は影のない声で沈黙している。
M-02は沈黙がうまい。沈黙で相手を焦らせる。焦れば手順が崩れる。崩れれば負ける。
アヤメは焦らないよう、手帳の角を指で押さえた。
革が冷たい。冷たいものに触れると、考えがまっすぐになる。
エドが一歩前に出た。紙束を抱えている。
紙束の角が揃っている。それだけで、言い分より強く見えた。
「今日の審査に必要な記録を持ってきた」
エドの声は低いが、はっきりしていた。
感情ではなく順番。エドはそれだけを守る。
審査役のひとりが言う。
「申し立てを短く」
「はい」
エドは頷き、短く言った。
「観測対象への制限が、正当ではない可能性がある。理由は三つ。
一、時刻の順番が逆になっている。
二、気づけない変更が入っている。
三、立会いの形が崩れている。
この三点を、紙で示す」
審査役の視線が紙束へ落ちた。
視線が落ちると、言葉の勝負じゃなくなる。紙の勝負になる。
紙は消しにくい。だから強い。
M-02が淡々と言った。
「制限は安全のため」
エドはすぐ返す。
「安全を否定しない。だが、手順が崩れた安全は、安全ではない」
アヤメはその言葉を胸の奥で繰り返した。
手順が崩れた安全は、安全ではない。
だから今日の戦いは、手順を見せる戦いだ。
エドが紙を一枚、机に置いた。
難しい言葉がない。短い項目だけが並んでいる。
「まず一つ目。時刻の逆転。受け取った記録より先に、封がされている」
審査役の眉が動いた。
意外だった証拠だ。
エドは続ける。
「二つ目。気づけない変更。
『近くにいるだけで関係が増える』ように条件が変えられている。
この変更は『誰がやったか』が空白になっている。空白は手順違反だ」
M-02が一拍置いて言う。
「内部の都合で、省くことはある」
「省くなら、理由が残る。理由が残らない省略は、隠すための省略だ」
エドの言葉は鋭いのに冷たい。
冷たい言葉は感情に見えにくい。だから通りやすい。
審査役が問う。
「三つ目。立会いの形が崩れている、とは」
「例外の手順で、先に封をする処理が使われた。
その処理をした者が、同時に証人になっている」
机の上の空気が変わった。
「自分でやって、自分で正しいと言っている」
そう聞こえる言葉は、誰でも嫌う。
リオが一歩前に出る。影のある声で言う。
「私が立会いとして署名した記録もある。
立会いがある場面で表示が揺れた。その揺れを記録した。
消そうとした動きも残っている」
審査役が紙をめくる音がした。
紙をめくる音は、決定の音に似ている。
アヤメは喉が乾きそうになり、唇を軽く舐めた。
自分の視界の文字は、崩れたままだ。
今日も赤い帯が薄く揺れているだけ。
【— — — — —】
【— — — — —】
意味は読めない。
でもこの部屋の空気は「危ない」ではない。
「試されている」空気だ。
エドがさらに紙を出した。
短い英数字の並び。
「最後に、まとめ番号(照合用)だ。
表示が揺れても、あとから変えにくい形で残る。
これが一致している限り、記録の骨は同じだ」
審査役が英数字を指でなぞった。
なぞるだけで、書類は“物”になる。物はごまかしにくい。
M-01が、そこで初めて声を出した。
「照合用番号は、立会いの下で固定されている」
影のない声なのに、その言葉は重い。
カメンが言うと、手順としての重みが増える。
M-02の青い光が、わずかに硬くなった気がした。
審査役のひとりが、アヤメを見る。
「本人は、何を求める」
アヤメは短く答えた。
「縛るなら、形で示してほしい。
縛らないなら、戻してほしい。……戻したうえで、記録を残したい」
丁寧に。
でも弱くしない。弱くすると、手順がねじれる。
審査役が頷きかけた、その瞬間。
M-02が淡々と言った。
「本人の手帳は危険だ。誤解を生む。回収する」
回収。
その言葉が出た瞬間、アヤメの背中が冷えた。
回収は守る言葉にも見える。けれど現場では「奪う」だ。奪えば、残せない。
アヤメの指が、手帳の角を強く押さえる。革が小さく鳴いた。
エドがすぐ前へ出た。
声は荒げない。荒げたら負ける。
代わりに、順番を差し込む。
「回収は構わない。ただし“証拠”として扱え。
その場で開くな。触るな。
封をして番号をつけ、立会いをつけ、保管庫へ移せ。
そうでなければ、破壊と同じだ」
審査室が一瞬静まり返った。
“破壊と同じ”は強い。
強い言葉は、正しい形を伴うと通る。
リオがすぐ言う。
「立会いは私がやる。封も私がやる。番号もつける。
回収したいなら、手順でやれ」
部屋の後ろから、ガンゾが太い声を落とした。
「手帳が危ねえなら、港そのものが危ねえってことだろ。
危ねえもんは全部、手順で縛って残せ。勝手に取り上げるな」
荒い言葉。
でも荒い言葉がここで響くのは、嘘がないからだ。嘘がない言葉は紙に落ちる。
審査役がM-02を見た。
M-02は揺れない。揺れないのに空気だけが硬くなる。
硬くなると息が浅くなる。浅くなると焦る。焦ると手順が崩れる。
アヤメは焦らないよう、ゆっくり息を吐いた。
吐いた息は白くならない。ここは暖かい。
暖かいのに、喉は冷たい。
審査役が言う。
「回収する場合は、証拠として封印し、保管庫で管理する。
ここで中は見ない。今日は手順を確かにする」
エドが頷く。
リオが頷く。
アヤメは胸の奥で、小さく息を吐いた。
(奪われるんじゃない。……残る)
リオが布を出し、手帳を包む準備をする。
アヤメは手帳を差し出した。震えないように、ゆっくり。
差し出すだけで胸が痛い。
でも今の目的は「守る」ではなく「残す」だ。残せば取り戻せる。
「番号」
リオが言う。
エドが番号札を出す。
リオが手帳を布で包み、紐で縛った。
縛ると、手帳は“物”になる。
物は勝手に消せない。消せば、それ自体が問題になる。
「立会いの署名」
紙が回る。
審査役が署名する。
リオが署名する。
エドが署名する。
ユウトも署名する。
レイは短い線を引く。レイの線は、ここでも証拠になる。
M-02は署名しない。
署名しないことも、形として残った。
封印が終わった瞬間、アヤメの視界の端で赤い帯が一度だけ濃く脈打った。
文字はない。
でも“嫌だ”という感じが、はっきりあった。
(嫌がってる……?)
嫌がっているなら、こちらが正しい方向に近づいている。
そう考えると、喉の冷たさが少しだけましになる。
審査役が紙束を整えて言った。
「申し立ての三点は、形として残っている。
制限は暫定で見直す。――ただし現場の安全は守れ」
エドがすぐ返す。
「守る。そのために、記録を残す」
審査役が頷き、M-01を見た。
M-01が淡々と言う。
「Zone restriction update: pending」
机の端で青い光が小さく揺れ、アヤメの視界にも表示が出た。
【Zone restriction update: pending】
【Effective: immediate】
【2m -> 3m】
【Duration: until audit completes】
二メートルが三メートルになる。
たった一メートル。
でも一メートルは世界を変える。
手が届くものが増える。声が届く範囲が増える。逃げ道も増える。
アヤメは胸の奥の息を、やっと深く吸えた。
(……三メートル)
M-02が淡々と言う。
「関係は残る。油断するな」
アヤメは短く返す。
「油断しない。……残すから」
その言葉はM-02に向けた言葉じゃない。
自分に向けた言葉だ。
残す。改ざんできない形で残す。
それが今の自分の立ち方。
審査が終わりかけた、そのときだった。
机の上の板が、ほんの一瞬だけ光った。
誰かが触ったわけじゃない。
勝手に、短い行が滑るように出て、すぐ消える。
アヤメの目は、それを追った。
読めない文字が多い中で、なぜかそれだけは形がはっきりした。
【Maintenance key】
一瞬。
息をする間もない。
でも、確かに見えた。
アヤメは顔に出さず、手帳の代わりの紙に小さく書く。
「メンテの鍵」
見えたという事実だけを残す。
エドがアヤメの手元を見て、何も言わずに頷いた。
言葉にすると消されることがある。
だから今は、紙の中だけで共有する。
審査役が立ち上がる。
「今日はここまで。保管庫へ移送を」
リオが頷く。
「封印物、運ぶ」
レイが無言で前に出た。
三メートルになった輪の外側で、通路の空気を整える。
ユウトは息を吐き、肩を落とした。緊張がほどけた合図だ。
アヤメは三メートルの世界で一歩踏み出す。
足が軽い。軽いのに、背中は冷たい。
「メンテの鍵」という言葉が、胸の内側で硬い石みたいに残っている。
廊下へ出た瞬間、窓のない通路の空気がさらに乾いた。
乾いた空気は秘密を吸い込む。
吸い込まれないように、アヤメは心の中で繰り返す。
(残す。消されない形で残す)
視界の端で赤い帯が小さく脈打った。
文字は相変わらず崩れている。
【— — — — —】
意味は読めない。
でも今の脈は“怒り”に近い。
怒りに近いなら、相手は焦っている。
アヤメは小さく呟いた。
「……ログ取ろ。今日の形を、全部、改ざんできない形で残す」
三メートルの世界で、アヤメは前へ進んだ。
乾いた廊下の先に、また現場がある。
そして現場の先に、あの短い言葉が待っている気がした。
【Maintenance key】
その鍵が何かは、まだ分からない。
分からないなら、まず形を増やす。
形を増やせば、いつか“分かる”が落ちてくる。
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