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第28話:水路の基準点

診療所の近くは、港とは匂いが違う。

潮より先に、薬草の苦い匂いが鼻に来る。消毒した布の匂い。湯を沸かした匂い。

石畳は同じはずなのに、ここでは足音が少し控えめに聞こえた。


ミナト・アヤメは入口の柱の影で立ち止まり、息を吐く。

白い息が薄く伸びて、すぐに消えた。


足元の見えない輪が、今日もある。


【Zone restriction: 2m】

【Observer role: active】

【Permission: READ (restricted)】

【EXEC: denied】

【WRITE: denied】

【Log streaming: enabled】


二メートルの世界は、まだ狭い。

けれど狭い世界でも、“残せるもの”は増えた。

壁の案内。札の印。封をして番号をつける手順。見ていた人の名前。

そして何より、手帳の紙の重さ。


「こっちだ」


リオが小さく顎で指した。診療所の裏手。

石畳が少し湿っている。水が流れる音が、低く途切れず続いていた。


レイは輪の外側に立ち、周囲を見ている。

視線が動くたび、空気の温度が少しだけ変わる気がした。

ユウトは数歩後ろで、小石を避けるように歩く。音を立てない歩き方を覚え始めている。


エドは紙束を抱えたまま、短く言った。


「今日は“基準点”を取る」

「基準点?」


ユウトが小声で聞く。

エドは難しい言葉を使わず、言い直した。


「比べるための“普通”を取る。普通が分かれば、変なものが分かる」


アヤメは頷いた。比べる、という言葉は好きだ。

見えないところで何かが動いても、比べれば形が浮く。


リオが立ち止まり、足元を指差す。

石畳の端に、丸い鉄のフタが埋め込まれている。

縁は黒ずみ、湿りが薄く滲んでいた。


「ここ。水が通るところの点検口」


リオの声は落ち着いていた。

落ち着いているのは、手順が頭に入っているからだ。手順が入っている人間は強い。


視界の端で、赤い帯が薄く揺れる。

文字にはならない。けれど嫌な感じは少しある。


【— — — — —】

【— — — — —】


(……まただ)


読めない。

でも今日は、読めなくても“やること”が決まっている。


「採るのは、どれくらい?」


アヤメが聞くと、リオは布袋から小さな瓶を二つ出した。

透明な瓶。口が狭い。蓋が硬い。


「瓶一つ分。二つ取る。片方は保管、片方は比べる」

「立会いは?」

「私。……それと、現場側の目も入れる」


リオはレイとユウトを見た。

レイは黙って頷き、ユウトも頷いた。

目が増えるほど、消されにくい。今日のルールだ。


アヤメは手帳を開き、最初に大きく書く。


・場所:診療所裏/点検口

・目的:普通を取る(比べるため)

・立会い:リオ

・見ていた人:レイ/ユウト/エド/アヤメ

・時刻:__


時刻を書こうとして、アヤメは一瞬だけ息を止めた。

赤い帯が、ふっと濃くなる。文字は出ない。

でも、時間が大事だと体が知っている。


(今、書く)


アヤメは首を振って時刻を書いた。

書いた瞬間、胸のざわつきが少し薄れる。

“残す”は、こういうところで効く。


リオが膝をつき、フタの縁に小さな道具を差し込んだ。

金具がきしみ、湿った匂いがふっと上がる。

薬草の匂いの下から、水の生臭さが顔を出した。


「開ける。近づきすぎるな」


アヤメは輪の中で、半歩だけ下がる。

下がることで、輪の端が少しだけ楽になる。


フタが持ち上がった。

中は暗い。暗い中で、水の音がはっきり聞こえる。

ここは“魔法の通り道”の水路だ、と言われる。

見えるのは水だけでも、匂いが違う。金属の匂いが混ざっていた。


リオが瓶の蓋を開け、柄の長い匙で水をすくう。

すくう動きが一定だ。速くも遅くもない。

一定は、基準点に必要な形。


「一瓶目」


瓶を満たし、蓋を締める。

次に瓶の外側を布で拭いた。水滴を残さない。

水滴は後で紛れる。紛れは敵だ。


エドが紙を出す。


「番号」


リオが番号札を取り出す。太い字。港の札と同じくらい分かりやすい。

瓶に札を結び、布を巻き、封印の蝋で印をつけた。

勝手に開けにくくするための形。


「二瓶目」


同じ手順でもう一瓶。

同じが二つ。二つあれば、どちらかが壊れても残る。


アヤメは手帳に書き足す。


・瓶A:番号__/封印__

・瓶B:番号__/封印__

・封をした人:リオ

・立会い署名:__


「署名はここ」


エドが指で示す。

リオが署名し、ユウトが署名する。


レイは文字を書かず、印を残した。

木炭を指先につけ、紙の端に短い線を引く。

その線は、レイが“居た”という証拠だ。


アヤメも署名欄に短く名を書く。

字が綺麗じゃなくていい。形が残ればいい。


署名が揃ったとき、視界の端で赤い帯が少し薄くなった。

気のせいかもしれない。

でも薄くなったなら、今はそれでいい。


「……採った水、普通なの?」


ユウトが小声で聞く。

瓶の中の水は透明で、少しだけ泡がある。

普通に見える。普通の顔をしている。


「普通かどうかは、比べたら分かる」


アヤメは言った。

指先の火傷跡を見る。細い線のように残っている。

昔、呪文の練習に失敗して、何度も焼いた。痛いのに、やめられなかった。


リオが点検口の縁を拭きながら言う。


「水は普通に見える。でも、普通に見えるものほど混ぜやすい」


混ぜる。

港の掲示に細い矢印を混ぜるのと同じ。

水にも混ぜられる。混ぜられたら、見えないまま広がる。


アヤメの喉が乾いた。


「次は、フタの裏も見たい」


リオが少し眉を上げる。


「裏?」

「うん。……匂いが変わった。金属の匂いが強かった気がする」


読めない代わりに、匂いと音で拾う。

それが今のアヤメのやり方だ。


リオは頷き、フタを地面に置いたまま裏返した。

裏側は黒い。湿りが染みている。


そして――端の方に、小さな刻印があった。


言葉ではない。小さな図形。丸と線、角張った印。

目立たない場所に、こっそり押されている。


「……これ」


ユウトが息を呑む。

リオが指でなぞろうとして、止めた。

触ったら関係ができる。触るなら封印が先だ。


「触らない。まず記録」


リオの声が落ちる。

アヤメは手帳を開き、刻印を見たまま線を写した。

丸の位置。線の角度。欠けているところ。


写すとき、胸の奥がきゅっと締まった。


(これ……)


言葉にできないのに、体が覚えている感じがある。

同じ形を、どこかで見た。

いや、“見た”より、“触れた”に近い。


工具の冷たさ。濡れた布。暗い水路の匂い。

誰かの手が自分の手を包んで――こう言った気がする。


――大丈夫。慌てない。順番を守る。


アヤメは息を止めかけ、すぐに吐いた。

白い息が、現実に戻してくれる。


「アヤメ?」


エドが小さく声をかける。

アヤメは首を振った。


「……なんでもない。刻印、記録する」


“なんでもない”は嘘だ。

でも今は感情に飲まれる前に、形を残す。

形を残したら、あとで泣ける。泣く順番も手順だ。


リオが紙を出す。


「刻印も封印対象にする。フタは大きいから、写しを封印だ」


布の上に紙を置き、木炭の粉を指に取る。

紙の上から刻印をなぞると、薄い影が浮かんだ。写し。写しは証拠になる。


「写し、封をする」


写しは折られ、封印袋に入る。番号札がつき、立会いの署名が揃う。


アヤメは手帳に書いた。


・刻印写し:封印番号__

・立会い:リオ/ユウト/レイ/エド/アヤメ

・場所:点検口フタ裏

・備考:母の匂いに似た感じ(言語化できず)


最後の一行を書いて、アヤメは少しだけ唇を噛んだ。

“母”という言葉は、書くと痛い。

でも書かないと、あとで自分が自分を疑う。疑うと折れる。折れるのはもっと嫌だ。


そのとき、赤い帯がまた濃くなる。

今度は赤だけじゃない。赤の端に、細い黒い線が走る。


【— — — — —】

【— — — — —】

【— — — — —】


黒い線。

呼吸のない気配。笑っていないのに、笑っている気配。


背中がぞわりとした。

誰かが、すぐ近くで見ている。

でも周囲に人影はない。診療所の裏は静かで、風も弱い。


レイがわずかに顔を動かした。

レイも気づいたのだと分かる。

気づいても騒がない。騒ぐと相手が喜ぶから。


レイが低い声で言う。


「……目がある」

「どこ」

ユウトが小声で聞く。

レイは指をささない。指をさすと、相手に場所を教える。


「近い。動かない」


短いほど怖い言葉。動かない目。

目だけ置いてあるみたいな存在。


エドがすぐに言った。


「手順を崩すな。瓶を持つ。封印袋を持つ。全員、同じ速度で戻る」

「リオ、最後にフタを閉めて」

「分かった」


リオがフタを戻し、金具をはめる。

きしむ音がして、点検口がまた“普通の地面”になる。

普通に戻すことも大事な手順だ。普通のままなら、余計な噂が立ちにくい。


アヤメは瓶を抱えたリオの横に、輪の中でついていく。

瓶の水は透明なのに、重い。

重いのは水じゃない。意味の方だ。


診療所の角を曲がる瞬間、アヤメは振り返りそうになった。

でも、やめた。

振り返ると穴に引きずられる。穴は相手の得意な形だ。


(見ない。残す)


アヤメは歩きながら手帳を開く。

歩きながらでも書ける短い言葉で、書く。


「基準点サンプル確保」

「刻印写し確保」

「黒い線の気配(呼吸なし)」


書いた瞬間、胸のざわつきが少し落ち着く。

心が“手順”の形になる。


診療所の入口近くまで戻ると、ガンゾが待っていた。

港のまとめ役がここにいるのは珍しい。つまり港でも何かが起きている。


「取れたか」


声は太いのに、今日は少し抑えてある。

抑えた声は、良くない知らせの前触れだ。


「取れた」


リオが瓶を示す。

ガンゾは頷き、エドを見る。


エドが短く言う。


「これが“普通”。これと比べて、混ざった形を掴む」

「比べて分かるなら、港の奴らにも分かる形にしろ」


ガンゾの言葉は現場だ。現場は、分かる形が必要だ。

分かる形があれば混乱が減る。混乱が減れば縛られにくい。


アヤメは頷いた。


「分かる形にする。……札と同じ。印と同じ」


“同じ”は強い。

同じ形を増やせば、偽物が混ざってもバレる。

バレれば相手は次の手を打たなきゃならない。

次の手を打つとき、必ずどこかで形が崩れる。崩れたところが入口だ。


そのとき、赤い帯が小さく脈打った。

文字はない。けれど“急げ”という感じがある。


急げ、は敵の言葉でもある。焦らせるための言葉。

だから急がない。順番を守る。


アヤメは瓶の番号札を見つめ、手帳に最後の一行を書いた。


「普通を取った。次は比べる」


書き終えた瞬間、指先の火傷跡がほんの少しだけ熱くなった。

まるで、刻印がまだ指の中に残っているみたいに。


アヤメは小さく息を吐き、呟く。


「……ログ取ろ。普通も、異常も、改ざんできない形で残す」


診療所の奥から、子どもの泣き声が聞こえた。

現場は待ってくれない。

だからこそ、今日取った“普通”は強い。


普通は地味だ。

でも地味な普通があるから、嘘は嘘として浮かぶ。

浮かべば掴める。掴めれば、次へ進める。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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