第27話:代替UI
港の朝は、音が戻るのが早い。
荷車の軋み。桶の水音。怒鳴り声と笑い声。
それらが重なり合って、冷たい潮の匂いの上に“人の熱”が乗っていく。
ミナト・アヤメは壁にもたれたまま、深く息を吐いた。
吐けば、胸の奥のざわつきが少しだけ薄くなる。
けれど視界の端に浮かぶはずの“文字”は、今日も形にならない。
赤い帯が、薄く揺れる。
【— — — — —】
【— — — — —】
意味が抜けたままの警告。
それは「怖い」ではなく、「わからない」の形をしていた。
足元の輪は消えない。見えないのに、確かにそこにある。
【Zone restriction: 2m】
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
二メートルの世界は狭い。
けれど、狭い世界でもできることはある。
アヤメは手帳を抱き直し、目の前の壁を見た。
昨日までただの壁だったはずの場所が、今朝は“道具”に見える。
「チョーク、ある?」
アヤメが言うと、少し離れていたユウトが慌てて頷いた。
「ある。えっと……これ」
小さな布袋から、白いチョークが出てくる。
港の人間はチョークの使い方を知っている。数を数えるため、荷の印をつけるため、道を示すため。
だからチョークは、この場所では“言葉”より早い。
「ありがとう。……よし」
アヤメは輪の中で壁に近づき、チョークを握った。
握った瞬間、指先の火傷跡が少しだけひりつく。
痛みがあると「今」が確かになる。
アヤメは壁に、大きく線を引いた。
線で区切りを作る。区切りは順番になる。順番は混乱を減らす。
最初に書くのは短い言葉だ。誰でも読める言葉。
短いほど、間違いにくい。
『手を洗う』
『触らない』
『並ぶ』
『困ったら呼ぶ』
字が汚くてもいい。読めればいい。
そして読めなくても、形で分かればもっといい。
アヤメは線の横に、簡単な絵も描いた。
手を洗う絵。×印。矢印。手を挙げる人。
「……それ、何だ?」
近くで荷を抱えていた男が眉をひそめた。
声に苛立ちが混ざっている。苛立ちは、混乱の予告だ。
アヤメは言い返さない。短く、現場の言葉で説明する。
「ここから行くと早い。こっちは遠回り。……でも踏まないで済む」
“安全”は使いたくない。便利すぎるからだ。
だから具体を置く。
「触らないで済む。……それで痛いのが減る」
男は一拍置き、舌打ちせずに頷いた。
人は、自分に損がないと分かると動く。
少し離れたところで、ガンゾが太い声を上げた。
「おい! 今日から流れが変わる! 壁の矢印見ろ! 分からん奴は手を挙げろ!」
ガンゾは港のまとめ役だ。
声が大きいだけじゃない。声が“順番”を作る。
順番が見える声は、列を整える。
レイは壁の前に立っているわけじゃない。
けれど壁の近くに人が押し寄せすぎないよう、少し離れた位置で自然に空間を作っている。
その空間があるから、人はぶつからない。
エドが紙束を抱えて近づいた。
壁の文字を一つずつ見て、頷く。
「いい。短い。余計な言葉がない」
「読めない人が増えたら、これが必要になる」
アヤメは言った。
自分の“読める力”が戻るかどうかは分からない。分からないなら、戻らない前提で回す。
エドは紙束から一枚抜いて渡す。
紙には、さらに短い手順が書いてある。
『拾った物は触らない』
『場所と時刻を書く』
『封をして番号をつける』
『見ていた人の名前を書く』
『箱に入れる』
「これを壁の横にも貼れ」
「貼る……どうやって」
アヤメが言うと、ユウトが小さく手を挙げた。
「釘と板、ある。掲示板に使ってるやつ」
「じゃあそれで」
港は道具が揃っている。
揃っているのに回らない時は、順番がないだけだ。
アヤメは壁の横に木札も用意した。
札はチョークより強い。風に消えない。水にも強い。
そして札は“役割”を作れる。
『受付』
『手洗い』
『検査』
『搬入』
四枚の札を縄で吊るし、札の下に矢印をつける。
矢印は迷いを減らす。迷いが減れば人は早く動く。早く動けば列が短くなる。列が短くなれば噂が走りにくい。
アヤメは手帳を開き、短く書いた。
「壁=案内」
「札=順番」
「縄=道」
「紙=記録」
書きながら、胸の奥のざわつきが少し薄くなっていく。
読めなくても、やれることはある。やれることがある限り、人は折れにくい。
「……これ、ほんとに効くのか」
ユウトが小声で言う。怖さを隠さない声だ。
「効くよ」
アヤメは即答した。
「みんなが同じ方向を見れば、混乱が減る。……混乱が減れば、紛れにくい」
その言葉に、レイがほんの少しだけ顔を動かした。
レイは、人の流れの“隙間”を見ている。
午前の仕事は、思ったより回った。
列は完全に整うわけじゃない。港は揺れる。人も揺れる。
それでも揺れが小さくなった。小さくなるだけで、救えるものが増える。
検査の前で、男が手を挙げた。
「困った!」
札の下の矢印を見ながら、男は困った顔をしている。
アヤメは輪の中で近づき、男の荷を見た。
「何が困った?」
「これ、検査に通らんって言われた。でも理由が分からん」
理由が分からない。
それは、今のアヤメの問題と同じだ。
アヤメは男の足元を見た。
床に小さな紙片が落ちている。薄い。端が小さく光る。
赤い帯が、また脈打つ。
【— — — — —】
【— — — — —】
読めない。
でも危ない感じはある。
「それ、踏まないで」
男は慌てて足を引っ込めた。
「なんだよこれ……またかよ」
舌打ちはしたが、拾おうとはしない。
壁の『触らない』が効いている。効いているなら、次は“残す”。
「場所と時刻。……書ける?」
「書けるけど、字が下手だぞ」
「下手でいい。読めればいい」
アヤメはチョークを渡し、床に丸を描かせた。
丸の横に時刻を書かせる。
それだけで、“ここに何かがあった”が残る。
エドがすぐに来て、封印の布を持ってきた。
リオも立会いに入る。
「封をする。番号は……これ」
「見ていた人、名前」
エドの声は短い。短い声は現場を回す。
男が名を言い、リオが紙に書く。
アヤメは手帳に写す。写せば二つ残る。二つ残れば消しにくい。
封印が終わった頃、港の端で小さな揉め声が上がった。
人の輪ができる。輪は噂の火種だ。
レイが先に動いた。
輪の外側に立ち、輪の形を崩す。崩れると人はばらける。ばらければ火は回りにくい。
アヤメも近づこうとしたが、二メートルの輪が足元を引く。
見えない柵は、人の気持ちを小さくする。
だからこそ、アヤメは“目の届く範囲”でやれることを増やす必要がある。
「何があった」
エドが輪の方へ声を投げる。
輪の中心から、若い女の声が返ってきた。
「掲示の矢印が違う! こっちって書いてあるのに、あっちって言われた!」
掲示。
アヤメの胸が冷えた。掲示は今の港の“目”だ。目が嘘をついたら、全員が転ぶ。
アヤメは壁へ戻り、チョークの矢印を見る。
矢印は確かに、自分が描いた方向を向いている。
――だが、その横に、見覚えのない細い矢印が追加されていた。
自分の矢印は太い。港のチョークは太くなる。
細い矢印は、よそ者の手だ。
しかも入口の隙間へ人を誘導するような角度で描かれている。
(誰かが……混ぜた)
正しいものに、少しだけ間違いを混ぜる。
少しだけなら、すぐには気づかれない。
気づかれない間に、人が迷い、列が乱れ、揉め事が増える。
揉め事が増えれば、“縛る理由”が作れる。
視界の端で赤い帯が、小さく脈打った。
文字はない。けれど「危ない」より、「狙われている」感じが強い。
アヤメは壁の矢印を、チョークで大きく塗りつぶした。
細い矢印ごと白で消す。消せば誘導できない。
「ガンゾ!」
アヤメが声を上げると、ガンゾがすぐに来た。
「なんだ!」
「掲示、混ぜられてる。誰かが細い矢印を書いてる」
「……誰がやった」
ガンゾの目が鋭くなる。鋭くなると港の空気が締まる。締まると、よそ者は動きにくい。
「分からない。でも……わざとだと思う」
“わざと”は強い言葉だ。強い言葉には形が要る。
だからアヤメは手帳に書く。細い矢印。角度。位置。時刻。
書けば残る。残れば照らせる。
ユウトが小声で言った。
「……見てた人、いないかな」
「いるはず」
港の人間は見ている。見ているのに、言わないこともある。
言うと面倒になるからだ。
面倒を減らすには、質問を短くする。
「さっきここで、誰かチョーク持ってた? 見た?」
声を張ると、何人かが顔を上げた。
そして、ひとりの老人が手を挙げる。
「……黒い手袋のやつがいた。手が綺麗だった」
「どっちへ行った」
「人混みの方へ。……すぐ消えた」
黒い手袋。手が綺麗。
港の手じゃない。港の手は傷だらけで、油が染みている。
綺麗な手はここでは目立つ。
レイが短く言った。
「尾がいる」
「……尾?」
ユウトが聞くと、レイは輪郭だけを教えた。
「見張り。誘導。……火をつけて離れる」
火をつけて離れる。
今起きたこと、そのままだ。
エドが静かに言う。
「掲示は“目”だ。目に嘘を混ぜられたら終わる。……だから、目を増やす」
目を増やす。
アヤメは頷いた。
「矢印だけじゃなく、札にする。札は勝手に書き足しにくい」
「札にするなら、固定も必要だ」
ユウトが言う。手先の器用さが、こういう時に生きる。
「釘と板で止める。あと……札の裏に印をつける」
「印?」
「誰が作った札か分かる印。アヤメの印」
アヤメは少し考え、頷いた。
「じゃあ、札の裏に丸を二つ。……私の手帳にも同じ丸を書く」
「よし」
小さな工夫。
でも小さな工夫は偽装に効く。偽装は細部で破れる。
午後、港はまた動き始めた。
札が増え、矢印は太くなり、迷いは減っていく。
――だが、減った迷いの隙間に、別の迷いが落ちてきた。
検査場で、若い男が叫ぶ。
「おい! “ここで待て”って札が出てたぞ! 待ってたら怒鳴られた!」
札。
胸が冷える。
「どんな札?」
「……木の札。字が薄い。矢印が細い」
薄い字。細い矢印。
まただ。
アヤメは輪の中で検査場の端まで行く。
そこに確かに、見覚えのない札が吊られていた。
木が新しい。匂いが違う。港の札はもっと潮と油が染みている。
札の裏を見ようとする。
だが位置が高く、手が届かない。二メートルの輪が、距離をさらに遠く感じさせる。
「レイ」
呼ぶと、レイが無言で札の前へ行き、裏を見る。そして短く言った。
「印がない」
印がない。偽物だ。
「外して」
レイは縄を切らず、結び目をほどいて札を外した。
結び目をほどくのは証拠を壊さないためだ。壊さなければ形が残る。
リオが来て、札を受け取った。
受け取った瞬間、眉が動く。
「これ、ただの札じゃない」
「何が」
リオは札を鼻に近づけた。
「紙の匂いがする。木なのに」
木札の裏に、薄い紙が貼られている。
視界の端で赤い帯が脈打つ。文字はない。けれど“触るな”の感じが強い。
「触らない。封をする」
アヤメが言うと、リオは頷いた。
布で包み、紐で縛り、番号札をつける。立会いの名を書く。
エドが紙に書く。
ガンゾが見ている。
ユウトが見ている。
アヤメが手帳に写す。
見ている人が増えれば、消しにくい。
封印が終わった瞬間、港の空気が少し冷えた。
風が吹いたわけじゃない。背中がぞわりとする。
――誰かが見ている。
アヤメはゆっくり周囲を見回す。人は多い。顔も多い。
その中に、ひとつだけ“空白”がある気がした。視線の穴。
アヤメは穴を見ない。
見ない代わりに足元を見る。足元には現実がある。石畳。縄。木屑。水たまり。
水たまりの縁に、薄い紙の欠片が貼り付いていた。
小指の爪ほどの大きさ。でも端が小さく光る。
喉が乾く。
それは今日何度も見た“形”だった。
(……誘導の札にも、紙が貼られてた)
紙が媒体。
媒体は触れさせるためにある。触れさせれば関係ができる。関係ができれば縛れる。
縛るための手順が、港にまかれている。
アヤメは手帳を開き、短く書いた。
「偽札:薄い字/細い矢印/印なし」
「木に紙の匂い」
「水たまり:紙欠片、光る」
書いていると、ユウトが小声で言った。
「……アヤメ、掲示板の裏、見た?」
「裏?」
「釘打つときに見えた。……変な紙が貼ってあった」
掲示板の裏。
胸の奥が冷える。表だけじゃない。裏からも混ぜられている。
「案内が壊されてる」
アヤメが言うと、エドが頷いた。
「だからこそ、案内を“固定”する。固定は目だけじゃない。――記録も固定する」
固定。
固定は紙と署名と番号だ。港の道具でできる固定。
レイが短く言った。
「今夜、また来る」
根拠のない予言じゃない。レイは“動き”で分かる。
よそ者の歩き方。息の切り方。視線の置き方。
ガンゾが腕を組み、太い声を落とした。
「港は目を増やす。札の印も、みんな覚えろ。偽物は外す。外したら封をする。……よしな?」
荷役たちが頷いた。頷きがそろうと港の空気が強くなる。
強い空気は、よそ者を動きにくくする。
しかし、追い出せないものもある。
追い出せないのは“見えない手順”だ。
夕方、空が赤くなり、港の影が長くなる。
影が長いほど、紛れやすい。
だからアヤメは壁の前に立ち、チョークを握った。
札の裏の印をもう一度みんなに見せる。
丸が二つ。小さく、でも確か。
同じ丸を、手帳にも描く。
「この丸がない札は偽物。触らない。封をする」
短い言葉を、何度も言う。
何度も言えば、港の手が覚える。
覚えれば、アヤメが動けなくても現場が回る。
――それが狙いだった。
壁から離れようとしたとき、リオが小さく手を挙げた。
「アヤメ。これ」
差し出されたのは、封印袋に入った薄い紙片だった。
番号札がついている。立会いの署名もある。形が揃っている。
「どこで」
「掲示板の裏。……釘の影に貼り付いてた」
影に貼り付く。触れさせるための仕掛け。
けれど封印袋なら触れない。
アヤメは袋越しに紙片を見る。端が小さく光る。
赤い帯が脈打つ。
【— — — — —】
【— — — — —】
読めない。
それでも“嫌な感じ”ははっきり分かる。嫌な感じは言葉より正直だ。
「……混ぜてるやつがいる」
リオは頷く。
「いる。しかも丁寧だ。港の人間の真似をしてる」
真似。
真似できる程度に、港の手順が外へ漏れている。
漏れれば、外から逆に使われる。
エドが静かに言った。
「真似が始まったなら、次はもっと“本物らしい偽物”が来る。だから、こちらも次の段階へ行く」
次の段階。
アヤメは息を吸う。
「紙と札だけじゃ足りない?」
「足りる。足りるが、強くする。――“照らし合わせ”ができる形にする」
照らし合わせ。
見えないところで何かが動くなら、別の場所の形と比べればいい。比べれば矛盾が出る。
そのとき、港の遠くで、誰かが笑った気がした。
笑い声じゃない。息が漏れた音でもない。
ただ“軽い気配”が揺れた。
背中の皮膚が薄くなる。
呼吸がない気配。笑っていないのに、笑っている気配。
アヤメは振り返らない。振り返ると穴に引きずられる。
だから足元の輪を見る。
【Zone restriction: 2m】
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【Log streaming: enabled】
二メートルの世界でも、できることは増えた。
壁の文字。札の印。封印の手順。港のみんなの目。
それでも相手は混ぜてくる。
混ぜてくるなら、こちらは残す。改ざんできない形で残す。
アヤメは小さく呟いた。
「……ログ取ろ。混ぜた形を、全部、残す」
夕方の潮風が冷たく頬を撫でた。
壁のチョークは白いまま、札は揺れる。
揺れながらも、港は回っている。
だが掲示板の裏に貼られた薄い紙片は、確かに言っていた。
“目”を狙われた。次はもっと深いところへ来る、と。
アヤメは封印袋の番号札を見つめ、手帳に最後の一行を書いた。
「掲示の裏にも混入。偽装が進んだ」
書いた瞬間、赤い帯が一度だけ脈打った。
まるで、次の手を打つ合図みたいに。
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