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第26話:読めない朝

夜明け前の港は、音より先に匂いが来る。

潮の冷たい匂い。濡れた縄の渋い匂い。木箱に染みた油の匂い。

息を吸うたび、胸の奥が少しだけ縮んだ。


ミナト・アヤメは石畳の上で立ち止まり、足元を見下ろす。

見えない輪が、今日も自分を囲んでいる。


【Zone restriction: 2m】

【Observer role: active】

【Permission: READ (restricted)】

【EXEC: denied】

【WRITE: denied】

【Log streaming: enabled】


二メートル。

前よりは広い。肩を回せる。人の横をすり抜ける余裕もある。

なのに、息が詰まった。


理由は、視界の端に浮かぶはずの“文字”が、文字ではなかったからだ。


いつもなら赤い字は赤い字として読めた。

灰色の注意は灰色の注意として分かった。

怖くても、読めれば対処の入り口が見えた。


――でも今朝は違う。


赤いものが出ている。

出ているのに、意味がない。

赤い帯が、ゆっくり脈打つ。そこに残っているのは「警告の色」だけで、言葉が抜け落ちていた。


目をこすっても、焦点を合わせても、赤い帯は“線の集まり”のまま揺れた。


(……読めない?)


喉が乾く。乾いた喉に潮の冷気が刺さって、咳が出そうになる。

アヤメは手帳を抱き直した。革の表紙が冷たい。冷たさに触れると、頭が少しだけ整う。


背後から低い声が落ちた。


「止まるな」


レイだった。

二メートルの外側に立ち、流れの向きを変えるように周囲を見ている。刃を抜いていないのに、そこだけ空気が固い。


「……表示が変」

アヤメが言うと、レイは短く頷いた。


「読めない?」

「うん。字が崩れてる」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥が痛んだ。

“読める”ことが、自分の唯一の武器だった。武器が欠けた手触りが、寒さより嫌だ。


紙の匂いが近づく。エドが来た。眠っていない目で、一直線にアヤメを見る。


「来たな」

「来た。……読めない」


エドは驚かなかった。驚かないのは、予想していたからだ。

そして予想していたということは、誰かがそれを狙っていたということでもある。


「読める人間を減らしたい。そういう動きだ」


難しい言い回しじゃない。短い言葉ほど、現実味が増す。


少し離れた場所から、ユウトが声を出した。


「じゃあ、どうすればいいんだよ……」


ユウトの肩はすぼまっている。怖いのに、ここにいる。

怖さを抱えたまま立つのは、強さだとアヤメは思う。


エドは即答した。


「表示に頼らない。読めない前提で回す」

「回すって……どうやって」

「現場の言葉で。紙と、縄と、札で。――それから、残す」


残す。

アヤメは手帳の角を親指で押さえた。紙は遅い。でも消されにくい。


「……改ざんできない形で残す」

アヤメが呟くと、エドは頷いた。


「それが主役になる。今日から」


レイが短く言った。


「人が増える。列が乱れる前に動け」


夜明け前の港は、あっという間に人の熱で満ちる。

熱が増えると噂も増える。噂が増えると混乱が増える。

混乱は、誰かの「安全」という言葉に吸い込まれやすい。


アヤメは二メートルの中で一歩前へ出て、検査の列の方を見た。

すでに小さな揉め事が起きている。荷役の若者が手を押さえ、顔をしかめていた。


「痛っ……! なんだこれ、手がビリって……!」


ざわつきが広がる。ざわつきは火種だ。

火が回る前に、水をかける。


アヤメは若者の足元を見る。

薄い紙片が石畳に張り付いていた。濡れた石に吸い付くようにぴたりと貼り、端がチカ、と小さく光る。


その瞬間、視界の端の赤い帯が強く脈打った。


【— — — — —】

【— — — — —】

【— — — — —】


文字にならない。

でも、危ないという“感じ”だけははっきり伝わる。

色は嘘をつきにくい。嘘をつくのは言葉だ。今は色だけが残っている。


「踏まないで!」


アヤメが声を張ると、レイが即座に動いた。

若者と紙片の間に体を入れ、周囲の足を止める。止まるだけで、空気が一瞬静まる。


「拾って捨てりゃいいだろ!」


誰かが言いかけた。

その瞬間、エドが割って入る。


「触るな。触ったら、あとで“関係がある”と言われる」


関係がある。

その言葉は港の人間に効く。関係が増えれば面倒が増える。面倒は損に変わる。


「じゃあどうすんだよ」

「封をして箱に入れる。番号をつける。見ていた人の名前を書く。――それだけ」


エドは紙束から一枚抜いて掲げた。字は大きく、短い。難しい言葉がない。


『拾った物は触らない』

『場所と時刻を書く』

『封をして番号をつける』

『見ていた人の名前を書く』

『箱に入れる』


「……それ、誰がやる」


問いが出た瞬間、保管担当のリオが前に出た。

影のある顔。人間の顔。影があるだけで、ここが現実に戻る。


「私が封をする。立会いもつける」


リオは布を広げ、紙片の周りを囲む。

布の端を折って包み、細い紐で縛る。縛る手つきに迷いがない。現場で生きてきた手だ。


アヤメは触れない。触れないからこそ、目で全部を焼き付けた。

紙片の角。光り方。濡れへの貼り付き方。

そして、若者が手を引いた“その瞬間”。


(読めなくても……見える。残せる)


アヤメは手帳を開き、紙に落とす。


・時刻

・場所

・紙片(薄い/端が光る/濡れた石に張り付く)

・触れた人(名前を後で聞く)

・痛み(ビリっと一瞬)


書いている間に、ガンゾの太い声が港を割った。


「列を止めるな! 回れ! 手を洗ってから進め!」


ガンゾは港を動かす男だ。声が大きいだけじゃない。

声に“順番”が混ざっている。順番が見える声は、人を動かす。


レイの導線とガンゾの号令が合わさり、列が再び流れ始めた。

流れが戻れば、噂の速度が落ちる。落ちれば、こちらが一手打てる。


――その一手を邪魔するように、青い光が近づいた。


影のない顔。カメン。


【Unit: MASK】

【ID: M-02】


M-02は淡々と告げる。


「安定のため、観測対象の行動を制限する」


“安定”。

優しそうな言葉で、人の自由を削る。だから嫌だ。


喉が冷えた。

読めない朝は、こういう場面で効く。

読めないなら説明できない。説明できないなら縛られる。――そういう手順に持っていかれる。


エドが前に出た。紙を持っている。


「制限するなら、理由を記録に残せ」

「理由は安全」

「安全は言葉だ。――何が起きた。いつ。どこで。誰が見た」


M-02の青い光が、一拍だけ強くなる。だが声は揺れない。


「観測対象の周囲で危険物が検知された」

「その“検知”を、立会いの下で記録に残せ」


エドは怒鳴らない。言い返すこともしない。

形に落とすことだけを求める。形が残れば、あとで争える。


リオが一歩前に出た。


「立会いは私。勝手に縛るな。縛るなら記録を出せ」


ガンゾが鼻を鳴らす。


「“安全”って言えば何でも通ると思うなよ」


港の言葉は荒い。だが荒い言葉は、噂より早く人を止める。

止めれば、こちらが紙に書ける。紙に書ければ、消えにくい。


アヤメは二メートルの中で拳を握った。爪が掌に食い込み、痛みが走る。

痛みがあると、心が折れにくい。


(読めないから縛る……そうはさせない)


アヤメは短く言った。難しい言葉は使わない。現場の言葉で、でも手順の言葉で。


「私は触ってない。触ってないなら、私に責任はつけられない。――つけるなら、形で示して」


M-02が一拍置く。その一拍が、ほんの少し長い。

長い一拍は、刺さった証拠だ。


「形は記録される」

「記録は、立会いの下で」


エドがすぐに繋ぐ。リオが頷く。

レイは何も言わないが、M-02の前に“踏み込むな”という距離で立った。

その距離だけで、相手は押し込みにくくなる。


M-02は一歩下がった。

譲ったわけじゃない。次の手順へ移る合図だ。

それでも今は、一手止めた。止めたなら、こちらが残せる。


リオが紙を取り出し、淡々と書き始める。


・いつ(時刻)

・どこ(場所)

・何(紙片/封の番号)

・誰(立会い)

・観測対象は触れていない


最後に署名。

署名が入ると、紙が重くなる。重い紙は、勝手に捨てにくい。


アヤメはその紙を目で追い、胸の奥で息を吐いた。


(改ざんできない形で残す。……これが今の私の武器)


列はまた動き、朝が戻ってくる。

戻ってくる朝はいつもより冷たい。けれど、まだ壊れてはいない。


それでも、視界の端の赤い帯は消えなかった。

文字にならない警告が、脈打つだけで居座る。


そして、その赤の端に――ほんの一瞬だけ別の冷たさが混じった。

赤の中に、細い黒い線が走った気がした。


呼吸がない気配。

笑っていないのに、笑っている気配。

背中の皮膚を、薄い指でなぞられるような嫌な“軽さ”。


アヤメは手帳を開き、震えない字で一行書く。


「読めない朝。表示が崩れた。だから、残す」


書いた瞬間、視界の赤い帯がまた一度だけ脈打った。

まるで、それに答えるみたいに。


アヤメは小さく呟く。


「……ログ取ろ。改ざんできない形で残す」


港の空気は冷たい。

でも、紙の重さは確かだった。

読めない朝でも、残せるものがある限り――まだ折れない。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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