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第24話:定義を奪い返す

夜明け前の港は、音が薄い。

荷車の軋みも、海鳥の声も、遠くへ引っ込んでいる。代わりに、波の小さな呼吸と、縄が風に擦れる音だけが耳に残る。灯りはまだ弱く、影の輪郭が曖昧で――曖昧だからこそ、影に紛れる“手順”が動きやすい。


ミナト・アヤメは濡れた石畳の上で立ち尽くしていた。

いや、“立ち尽くすしかない”。足元の見えない円が、今日の世界を一メートルに切り取っている。


【Zone restriction: 1m】

【Observer role: active】

【Permission: READ (restricted)】

【EXEC: denied】

【WRITE: denied】

【Log streaming: enabled】


一メートルの世界で、夜明けの冷たさを吸い込む。

息を吸うたび、肺が痛い。寒さだけじゃない。五時十分の閲覧窓が、もうすぐだ。窓が開く前に壊される――センセイの声がそう言った気がして、それが胸の奥で冷たい針になっている。


レイが円の外側で、いつものように立っている。刃を抜かないのに、刃がある立ち方。

エドは紙束を抱え、眠っていない目で周囲の“形”を数えていた。

ユウトは少し離れて、肩をすぼめて息を白くしている。寒さより怖さが勝っている顔だ。


「……時間だ」


エドが言った。

正確には、時間の前だ。時間の前に“外側”が動く。窓の手順に入らないところで壊す。壊されるなら――壊された瞬間をログにするしかない。


「窓の外側って……」


ユウトの声が小さい。

アヤメは頷いた。


「閲覧の前。封印の前。——“誰も見てない時間”」


誰も見てない時間ほど、誰かが見ている。

それを知っているのが、アヤメだけじゃないのが怖い。


保管庫へ向かう道は、昼より静かだった。静かすぎて足音が目立つ。目立つ足音は、相手に“来た”と知らせる。知らせれば、相手は別の手順に切り替える。

だから歩幅を変えない。呼吸も変えない。変えないことが、今の戦い方だ。


保管庫の扉の前に、青い光が二つ並んでいた。

影のない顔が二つ。M-01とM-02。


【Unit: MASK / ID: M-01】

【Unit: MASK / ID: M-02】

【Status: standby】


同型が並ぶと、空気が硬い。硬い空気は割れやすい。


「早いな」


M-02が言った。

“褒め”の形をした牽制。早い=焦り。焦りに見せれば、隔離がしやすくなる。


エドが淡々と返す。


「窓の時刻に合わせただけだ。立会い条件がある」

「立会いは揃っている」

「観測対象の安全距離も必要だ」


M-01が頷いた。


「一メートル制限は維持されている」

「維持されているなら、触れない。触れないなら、汚れない。——汚れないことを確認する」


汚れないこと。

それが今日の目的だ。窓の外側で擦り付けられたら、窓の中身がどうであれ“関連”が作られる。関連が作られれば、隔離が正当化される。


扉が開き、保管庫の均一な光が流れ出る。

中へ入ると匂いが変わる。紙と金属。乾いた匂い。乾いた匂いは嘘を隠す。湿り気がないから、痕跡が逃げやすい。


アヤメは一メートルの円の中で台の前に立った。

台の上には、昨夜回収された紙片――EV-2040の封印札。番号。時刻。立会。

形が揃っているからこそ、ここで崩されると痛い。


エドがM-01へ紙を差し出した。


「閲覧窓の前に確認事項。

一、EV-2037の封印現状。

二、封印適用ログの時刻矛盾が“解消”されていないこと。

三、昨夜から今朝にかけて“隠れた更新”が追加されていないこと。

以上を立会いの下で確認する」


確認、という柔らかい言葉で、逃げ道を潰す。

それがエドの強さだ。


M-02が一拍置いた。


「確認は可能。だが、優先されるのは安全だ。危険が検知された場合、隔離と再封印を——」

「その場合はログを残す。判断ロールと時刻を。条件は受理済みだ」


アヤメの声は硬い。硬いけれど、怒鳴りではない。規定に寄せた硬さ。


M-02が無表情のまま頷いた。薄い頷き。


「開始する」


M-01が台の前へ立ち、封印札を示した。

その瞬間、アヤメの視界の端で冷たい行が走る。


【Seal S-11A4: status OK】

【EV-2037: stored B-07】

【Access: none since last review】


“アクセスなし”。

昨日、M-02が閲覧要求を出した。キューがあった。なのに、アクセスなし。


嘘か。定義の違いか。上書きか。

疑うな。定義を詰めろ。形で殴れ。


エドが小声で言った。


「“アクセス”の定義を聞く。触れてないなら、何が起きた」


アヤメが頷いた瞬間――背中が冷えた。

棚の影が、ほんの少し揺れた気がした。風は入らない。人もいない。揺れるはずがない。


【Admin-tier trace: faint】

【Source: unknown】

【Note: inside-noise】


内側のノイズ。

外側じゃない。内側に混じるノイズ。

“窓の外側が壊される”――その言葉が、別の意味で刺さる。外側だけじゃない。見え方そのものが壊される。


M-02が淡々と告げた。


「閲覧窓は予定通り。だがその前に……観測対象の相関が増している」

「相関?」

「EV-2040の残滓が、観測対象の近傍で検知されている」


……違う。

アヤメは歯の奥で冷たいものを噛んだ。自分は触れていない。触れていないなら、相関は増えない。


視界の端が赤に寄りかける。


【Correlation alert: rising】

【Reason: proximity event logged】

【Timestamp: 04:58:31】

【Location: vault corridor】


廊下。四時五十八分三十一秒。

窓の直前。外側。


誰かが廊下で“近くに残滓があった”ことにした。

あるいは――そう“記録した”。


「……廊下で、何があった」


アヤメの声は思ったより低かった。低い声は怒りの形。

エドがすぐに橋をかける。


「そのログを提示せよ。隔離の前に、原因ログを確認する必要がある。立会い条件に含まれる」

「提示は可能。だが、観測対象はログに触れられない」

「触れない。読むだけだ」


M-01が板を起動した。黒い板に薄い光。

映像じゃない。行だ。けれど、行は行で刺さる。


【04:58:31 Corridor event】

【Subject: MINATO-AYAME】

【Event: proximity to residue】

【Residue source: unknown】

【Witness: MASK-M02】


……M-02。

証人が、目の前の同型になっている。


自分で自分の証拠を作れる立場。

それは穴だ。穴というより、扉だ。


名指しするな。名指しした瞬間に負ける。

だから、手順で殴る。


「証人が当事者なら、立会いは不十分。第三者立会いが必要」


アヤメが言うと、エドが即座に繋いだ。


「規定に基づく。証人が片側に偏る場合、追加の立会いロールが必要。——保管担当を呼べ。あるいは別ユニット」

「別ユニットは手配に時間がかかる」

「時間は窓の内側で使う。窓の外側の矛盾は今詰める」


エドの声は紙より硬い。硬いほど、善意の刃は通らない。


M-02が一拍置いて言った。


「第三者立会いを手配する。だが、その間、観測対象は廊下へ出ない」

「出ない。出られない」


アヤメは足元の一メートルを見下ろして言った。

出られないことが守りになる瞬間がある。だが同時に、檻にもなる。檻は“保護”と名を変えて隔離になる。


そのとき、棚の影の揺れが、今度ははっきりした。

紙の匂いが一瞬だけ濃くなる。乾きが喉を刺す。


そして視界に、見たことのない短い行が挟まった。


【Patch note applied: silent】

【Time: 05:02:14】

【Scope: custody log display】

【By: —】


まただ。

名前がない。ロールがない。

窓の直前。外側を壊す。内側の“表示”を揺らす。


「……今、更新が入った」


アヤメが言うと、エドの鉛筆が止まった。

止まるのは、エドにとっても想定外だった証拠。


「何が見えた」

「表示範囲。チェーン表示の……静かな更新」

「言葉にしろ。今すぐ紙に」


アヤメは手帳を開き、震えない字で書いた。


“05:02:14 サイレント更新:表示範囲(チェーン表示)/実行者なし”


書き終えた瞬間、背中がぞわりとした。

見ている。姿じゃなく、手順が見ている。


M-01が淡々と告げる。


「閲覧窓の開始時刻が近い。準備する」

「準備はできている」

「観測対象は、窓で何を見る」

「封印適用ログと受領ログの整合。更新履歴の時刻。閲覧要求のキュー。——“触った形”」


触った形を見せろ。形が見えれば、嘘は折れる。

折れれば、隔離の刃が鈍る。


廊下の外で足音が増えた。第三者立会いの保管担当が来る。

足音に合わせて空気が冷える。冷えは嫌な予感を連れてくる。


そして、扉の隙間から声が滑り込んだ。

人の声じゃない。空気の声。笑わない声。


「……素敵ですね。立会いを増やして、正しさを積んで」


胸の奥が凍る。

それでもアヤメは顔を上げない。顔を上げた瞬間、視線が揺れ、手順が崩れる。


声は続いた。


「でも、正しさは“表示”に勝てませんよ。表示は、見せたいものだけ見せるから」


表示。

今回の戦場は、そこだ。

証拠ではなく、“証拠の見え方”。


アヤメは拳を握り、爪を掌に食い込ませた。痛みがある。まだ折れていない。


「……表示に勝つ方法がある」


呟いた声に、エドが視線だけで促す。言え、という合図。


「表示が変わるなら、変わった瞬間のログを取る。——更新が入った時刻を、こっちの紙に刻む。紙は改竄しにくい。改竄したら、触った形が残る」


エドが小さく頷く。


その瞬間、扉が開いた。

影のある顔が入ってくる。影があるだけで、世界が少し現実に戻る。


「保管担当、リオ。立会いに入る」


リオ。名前がある。

名前があるだけで、戦える気がした。


M-02が淡々と言う。


「廊下事案の再確認。立会い追加により、記録の整合を確認する」

「確認するなら、最初に“再現”が必要だろ」


リオの声は現場寄りだ。

再現。手順の中で一番強い言葉。


アヤメの胸の奥が熱くなる。再現できるなら、嘘は折れる。


「廊下の距離、測れる?」


アヤメが言うと、リオが眉を上げた。


「測れる。保管庫の距離は規定で決まってる」

「なら、近接イベントの“距離条件”を出して。——一メートル制限の私が、どうやって“近傍”になったのか、形で示せる」


M-02が一拍置いた。

その一拍が、少し長い。予想外の証拠の匂い。


リオが板を覗き込み、読み上げた。


「近接イベントの条件……“二メートル以内”。……なんだこれ」


二メートル。

広い。広い条件は、捏造しやすい。


エドが即座に刺す。


「“二メートル”に更新された時刻を出せ。昨日は一メートルだったはずだ」


アヤメはすでに手帳に追記していた。


“近接条件:2m(表示)”

“05:02:14 表示範囲サイレント更新”

“証人:M-02”


リオが眉を寄せ、M-01とM-02を見比べた。

同じ顔が二つ。影がない。だから余計に怖い。

けれどリオの影は揺れた。不信の揺れ。揺れが見えるなら戦える。


「……窓の前に条件が変わってる。おかしい」

「おかしいなら、ログだ。更新履歴の“非表示部分”を出せ」


エドの言葉が鋭い。

非表示部分。見せたくないものを、手順で引きずり出す。


M-01が淡々と答えた。


「非表示部分は閲覧範囲外」

「範囲は拡張できる。立会いが増えた。理由が増えた。——今ここで申請する」


エドが紙を差し出す。追加範囲申請。

リオが頷き、署名欄に名前を書く。署名が入ると紙が重くなる。重い紙は規定に通る。


M-02の光がわずかに強くなった。


「申請は受理する。だが——」


だが、の後に隔離が来る。再封印が来る。

来る前に、順序を刺す。


アヤメが言った。


「隔離と再封印は、更新履歴の確認後。順序を守って」


順序。

監査の言葉。監査は順序に弱い。順序が崩れると規定が噛む。


M-01が一拍置いて頷いた。


「順序を確認。——更新履歴を表示する」


板の光が変わる。

一段深い更新履歴が、開く。


そして、小さな行が現れた。


【Rule: proximity threshold】

【Changed: 1m -> 2m】

【Time: 05:02:14】

【By: —】


同じ時刻。

同じ“—”。

サイレント更新と一致。


つまり、廊下事案の“相関増加”は、条件そのものを広げて作られた。

窓の外側で壊されたのは、証拠ではなく、定義だった。


エドが低く言った。


「これで廊下事案は不当な相関増加だ。条件が窓前に改変された。——隔離の理由は薄れた」


「薄れた、じゃない」


アヤメは短く言った。


「消えた。私は触れていない。条件が勝手に広げられた。——更新が手順なら、手順で止められる」


リオが頷く。


「……隔離はできない。隔離は“証拠を消す”になる」

「判断は監査が行う」


M-02が淡々と返す。

だが、その声が硬い。硬いのは、刺さった証拠だ。


そのとき、保管庫の空気が一瞬だけ冷えた。

均一な光が、ほんの少し揺れる。

板の表示がちらりと白くなる。


【Admin-tier trace: strong】

【Action: conceal attempt】

【Target: update log display】


センセイ。

笑わない声が耳の奥を撫でた。


「……いいですね。じゃあ、見せないようにしましょう」


板の行が、消えかける。

消えたら、また一からだ。

消える前に、形を残す。


「エド、紙!」


アヤメが叫ぶより早く、エドが書いていた。

時刻。行の内容。立会い名。

リオも同じ内容を、自分の記録へ写す。二重に残る。二重に残れば、消しても残る。


M-01が淡々と宣言する。


「表示の揺れを検知。保管庫を一時ロックする」

「ロックしていい。——ログは紙に残った」


エドが返す。

紙は遅い。でも消されにくい。今は遅い方が勝つ。


扉が閉じ、外の湿った空気が遠のく。

ロックの静けさの中で、アヤメは手帳を抱きしめた。


一メートルの世界でも、確かに“窓の外側”は壊されかけた。

でも、壊された瞬間を掴んだ。掴んだなら次へ繋げる。


レイが扉の外側で短く言った。


「まだ終わってない」

「うん」


アヤメは頷いた。

窓は開く。窓の中で次の矛盾を見に行く。

センセイは、さらに別の“表示”を弄るだろう。

でも――表示が弄られるなら、弄られた瞬間をまた掴むだけだ。


アヤメは喉の奥で呟いた。


「……ログ取ろ。壊された瞬間を、全部、形にする」


夜明け前の薄い音の中で、波が小さく息をした。

その呼吸に紛れて、どこかでまた、笑わない声が“次の授業”を用意している気配がした。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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