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第23話:閲覧の窓 "条件を残す"

紙の匂いは、夜に強くなる。

港の潮が冷えて、汗の匂いが落ち着く頃、逆に紙の乾きだけが鼻の奥に残る。掲示がはためく音も、縄がきしむ音も、昼より少し低くなる。低くなるから、囁きがよく通る。


アヤメは足元を見下ろした。見えない円が、影の輪郭と重なっている。


【Zone restriction: 1m】

【Observer role: active】

【Permission: READ (restricted)】

【EXEC: denied】

【WRITE: denied】

【Log streaming: enabled】


一メートル。

自分の影の中だけが世界になる。世界が狭いと、心が勝手に広い敵を作りたがる。だからアヤメは、敵のサイズを“手順”に落とすように意識した。サイズが分かれば、殴り方が決まる。


「次は、閲覧の窓を取る」


エドの声は低く、紙の角みたいに正確だった。

レイは一メートルの外側で立ち、誰も近づけない角度を作っている。ユウトは少し離れた場所で、手を握りしめたまま周囲を見張っていた。見張るというより、息を止めて“耳”になっている。


「窓って、どうやって?」


アヤメが聞くと、エドは紙束から一枚抜き、指で二つの欄を叩いた。


「閲覧許可トークン。期限付きで発行される。

ただし条件がある。“理由”と“範囲”と“立会”だ。ここが曖昧だと、向こうに逃げ道を作る」


「逃げ道」

「隔離。再封印。再整理。——全部、“善意の手順”で押し切られる」


善意の手順。

優しい言葉で包んだ刃。センセイの匂いがする。


アヤメは手帳の表紙を指先で押さえた。革の感触が、今の自分の唯一の“触れていい”ものだった。


「範囲は?」

「狭く。狭いほど強い。——EV-2037のチェーン・オブ・カストディ、封印適用ログ、更新履歴の“表示部分だけ”。内容には触れない」

「内容に触れないなら、何が分かるの」

「分かるのは“触った形”。触った形は、誰も言い逃れできない」


エドは紙に短い文章を書き始めた。

文字が並ぶのを見ると、胸の奥の霧が少し晴れる。霧が晴れれば息ができる。息ができれば焦らない。


レイが短く言った。


「来る」


言葉の直後、足音が近づいた。港の歩き方じゃない。規則的で、迷いがない。

青い光が廊下の角に滲み、影のない顔が現れる。


カメン。

……だが、アヤメの視界は“違い”を拾った。


【Unit: MASK】

【ID: M-02】

【Role: audit-support】


同型の方。

同じ顔でも空気が少し違う。M-02は薄い紙の匂いがする。倉庫の匂いではなく、机の匂い。


「閲覧申請の準備か」


M-02の問いは、問いかけの形をした誘導だった。

エドが一歩前へ出る。紙を見せる角度が、絶妙に“拒否できない”角度だ。


「準備ではなく提出だ。目的は整合確認。範囲は限定。立会は必須。——ここに書いてある」

「提出は受理される。だが、優先度がある」

「優先度は規定で決める。規定を出せ」


M-02の光が一拍だけ強くなる。

その一拍が、嫌な匂いを運ぶ。押せるかどうかを測る匂い。


「規定は内部資料だ」

「内部資料なら、内部手順で処理しろ。外へ押し出すな」


エドの声は冷たい。冷たいほど規定に寄る。

アヤメは自分の一メートルの中で息を整えた。口を挟みたい衝動を抑える。感情で飛び込んだ瞬間に、相手の縄が首にかかる。


M-02が視線をアヤメへ向けた。影のない顔が、影のないまま言う。


「観測対象は、発言のたびに記録される。理解しているか」

「理解してる」


短い返事は、余計な隙を作らない。


M-02は紙の上を見た。

見ているのに、焦点は紙ではなく“紙の周囲”にある。紙そのものじゃなく、誰が触れているかを見る目。


「範囲が狭い。狭すぎる」

「狭いからいい。狭いほど改竄の余地が減る」

「改竄を疑うのか」

「疑わない。——整合を確認するだけだ」


エドが言い切った。

“疑う”と言った瞬間、こちらが悪者になる。だから言わない。言わない代わりに、手順で相手の逃げ道を塞ぐ。


M-02が一拍置き、淡々と答える。


「受理する。閲覧窓は、最短で明朝」

「今すぐは?」

「不可」


不可。

港なら揉める火種だが、監査では“終わり”の印だ。

終わりの印を受け取った瞬間に、次の手順を出さないと、全部が流される。


アヤメはそこで口を開いた。

短く。規定の言葉に寄せて。


「不可なら代替。閲覧前に“隔離”と“再封印”は実施しない。実施するなら、理由と担当ロールと時刻を先に記録する。——それを条件にして」


レイがほんの少しだけアヤメへ視線を寄せた。

ユウトの息が止まる音が聞こえた気がした。

一メートルの世界で声を出すのは、いつも怖い。怖いけれど、今出さないと、明朝の窓が“空っぽ”になる。


M-02がアヤメを見たまま、少しだけ間を置いた。


「……条件を受理する。封印は現状維持。隔離は緊急時のみ。緊急時にはログを残す」

「緊急時の定義は?」

「危険が増した時」

「危険の基準は?」

「監査が判断する」

「なら、判断ログを残す。判断したロールと時刻を」


言い終えた瞬間、胸の奥が熱くなる。

怒りじゃない。小さな達成感。手順をひとつ、相手の手から取り返した感覚。


M-02は頷いた。頷きが薄い。薄い頷きほど怖い。

薄い頷きは、“後で別の手順で回収する”合図だからだ。


「明朝。窓を発行する。準備しておけ」


M-02が去る。

青い光が角を曲がり、湿った港の空気が少し戻る。戻った空気の中で、アヤメはやっと息を吐いた。


「……今の、刺さった?」


ユウトの小声。

アヤメは首を縦に振った。


「刺さった。条件が残った。条件が残れば、動いた形がログになる」


エドが紙を揃えながら言う。


「いい。今夜やるのは二つ。

ひとつ、窓に入れる“照合項目”をさらに狭めて鋭くする。

ふたつ、明朝までに“物理”の証拠を増やす。紙が媒体になるなら、媒体の指紋を取る」


指紋。

紙の上の指紋。擦り付けの角度。布の繊維。残滓の粉。

現場の言葉にすると、全部が“手触り”だ。


レイが周囲を見回し、短く言った。


「尾がいる」


尾。つけられている。

それが分かった瞬間、背中が冷える。冷えは嫌いだ。でも冷えは命を守る。


アヤメは一メートルの円の中で動けない。動けないからこそ、尾の狙いは単純だ。近づいて擦り付ける。擦り付けて“関連”を作る。関連が増えれば、隔離が正当化される。


「近づけない」


レイが言う。言葉だけでなく、足の向きでそれを示す。

レイが立つと人の流れが避ける。避けた場所に影ができる。影ができると、影を使う者が出る。


影から、男がひとり出てきた。

荷を持っていない。手が妙に綺麗だ。港の手じゃない。港の手はもっと傷だらけだ。


男は笑いそうな口元を作り、しかし笑わず、軽く会釈した。


「手洗い、助かりました。……これ、落とし物」


男は紙片を差し出そうとした。

紙片は薄い。見ただけで冷たい匂いがする。

アヤメの視界が勝手に赤に寄る。


【Residue: present】

【Signature fragment: faint】

【Risk: transfer by contact】


落とし物。

優しい言葉で近づく手順。触らせる手順。


「触るな」


レイが男の前へ滑り込んだ。

滑り込む、としか言えない動きだった。刃を抜いていないのに、刃が見えたみたいに男が止まる。


「怖いですね」

「怖い方が生きる」


レイの返しは短い。飾りがないから強い。


エドが男へ、紙ではなく“声”で釘を刺した。


「落とし物なら、そこに置け。こちらは触らない。——監査の箱へ回す」


男の目が一瞬だけ動いた。

“監査の箱”という単語に反応した目。箱が嫌いなのは、手順が残るからだ。


男は肩をすくめ、紙片を地面に落とした。

落とした瞬間、紙片が風にめくれ、冷たい光がチカ、と跳ねた。


【Unstable residue: flicker】

【Note: counterfeit token film】


エドがすぐに言う。


「カメンを呼ぶ。封印付きで回収。チェーンを付ける」


アヤメは一メートルの中で手帳を開いた。触れない代わりに、目で全部を焼き付ける。

紙片の角。繊維。男の手袋の有無。指先の乾き。歩き方。肩の角度。擦り付ける時の角度。


レイが男を見たまま低く言った。


「行くなら今」

「行かない。行くと尾が切れる」


男は笑わずに、すっと人混みに紛れた。

紛れる速さが慣れている。慣れているということは、同じ手順を何度も使っている。


カメン——今度はM-01が来た。

青い光が紙片の前に立ち、淡々と処理を始める。


【Receipt ID: EV-2040】

【Seal ID: S-11A8】

【Handler role: vault-keeper】

【Witness: MASK / ED】

【Subject contact: prohibited】


封印。受領。時刻。立会。

形が揃うと心が少しだけ落ち着く。相手は“形”を嫌う。だから形を積む。


「これでいい」


エドの声。

アヤメは頷き、手帳に書いた。


“落とし物手順:接触誘導”

“紙片:残滓あり、跳ねる”

“回収:EV-2040、封印S-11A8”

“接触なし”


レイが、一メートルの外側でわずかに肩の力を抜いた。

抜いたのは一瞬。すぐにまた硬くなる。硬くならないと刺される。


ユウトが小声で言う。


「……今の人、先生っぽい?」

「違う」


アヤメは即答した。

センセイは、こんなに前に出ない。前に出ずに手順だけを残す。空気に混ざる。影に混ざる。自分の声の裏に混ざる。


「でも、センセイの“授業”みたいだった」

「そう。授業の手順を、誰かが真似してる」


真似。

真似できる程度に手順が広がっている。広がるほど危険だ。広がるほど現場が壊れる。


エドが紙を揃え、最後に言った。


「明朝の窓で見るものが増えた。

封印逆転。隠れた更新。接触誘導。——全部、一本の線になる」

「線になったら?」

「線になったら、切れる。噂の線も、制限の線も」


切れる。

切れた瞬間に息ができる。息ができれば、港も診療所も、少しは生き延びる。


アヤメは一メートルの世界の中で夜の港を見た。

潮の匂いが冷え、遠くで灯りが増え、影がさらに長くなる。影が長いほど、敵の手順も伸びる。

だからこそ、窓が必要だ。ログの光が必要だ。


視界の端に、淡い表示が出た。


【Review window scheduled: 05:10】

【Token issuance: pending】

【Condition: witnesses present】


明朝。

窓の時刻が具体的な数字になると、恐怖が少しだけ扱いやすくなる。数字は手順だ。手順は武器だ。


アヤメは手帳を抱き直し、喉の奥で呟いた。


「……ログ取ろ。窓が開いたら、折る」


その呟きに重なるように、風の中で、笑わない声が聞こえた気がした。


「……いいですね。じゃあ、窓の外側を壊しましょうか」


振り返っても、誰もいない。

けれどアヤメは確信した。


窓の中だけが戦場じゃない。

窓が開く前の“外側”こそ、先に壊される。

だから壊される前提で、さらに手順を重ねる。


一メートルの世界でも、重ねられるものがある。

紙と、時刻と、封印と、言葉。

それが、アヤメの生き残り方だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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