第22話:手洗いの導線 "穴の位置"
保管庫の外へ出た瞬間、空気が湿った。
紙と金属の乾いた匂いから、潮と汗の匂いへ。たった数歩なのに、世界が急に“生き物”になる。遠くで荷車の車輪が鳴り、誰かが怒鳴り、笑い声が短く弾ける。港は今日も回っている。回っているのに、どこかにひびが入っている気配がした。
ミナト・アヤメは自分の足元を見下ろした。
見えない円が、まだ世界を縛っている。
【Zone restriction: 1m】
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
一メートル。影の中だけが自分の領土だ。
守られている、と言えば聞こえはいい。けれど実態は首輪に近い。首輪がある限り、自分は“犬”として扱われる。噂がそれを広げる。噂が広がれば、誰かが安心する。安心のための生贄は、港にはいくらでも転がっている。
「……言うなよ」
低い声が背後から落ちた。エドだ。
アヤメは振り向かずに頷いた。言わなくても分かる。保管庫の中で見えた“同型”。封印の逆転。名前のない更新。あれを口にした瞬間、刃がこちらへ向く。
レイが一メートルの円の外側で立ち、周囲の流れを切っている。
目だけが鋭い。港の人間は、その目を見て勝手に距離を取る。距離が取れれば、擦り付けられにくい。擦り付けられにくいなら、少しだけ息ができる。
「言えないなら、どうするの」
アヤメが小さく言うと、エドは即答した。
「言葉にしない。手順に埋める」
「手順に……」
「疑いは“名指し”した瞬間に負ける。だから、名指ししなくても穴が塞がる形にする。穴に手を突っ込むのは監査の仕事だ。俺たちは穴の位置を示す」
穴の位置。
それなら、できる。
アヤメは手帳を抱え直し、革の表紙に指先を押し付けた。紙の角が掌に当たって痛い。痛いと、言葉が余計に慎重になる。
「まず、やることは二つ」
エドが指を二本立てた。
「ひとつ。接触ログを固める。君の一メートル制限を逆利用して、近づいた人間を“限定”し、記録する」
「……限定って、どうやって」
「導線を作る。水場の前、掲示の前、受付の前。君に近づく理由がある場所を、こっちで作る。理由がある接触は、ログになる」
理由がある接触。
それは、“偶然”を減らす。偶然が減れば、擦り付けは浮く。
「ふたつは?」
「診療所セクタの関係者を当たる。残滓と水路の話が出てる。そこから現場の断片を拾う。拾い方は合法で」
合法。
その言葉が今日の命綱だ。合法は安全じゃない。でも合法は“争える形”になる。
アヤメは息を吸い、吐いた。潮の匂いが喉に刺さる。刺さるのに落ち着く。港の匂いは怖くても慣れている。
「レイ、導線作れる?」
「作る。人を減らす。近づく理由を作る」
レイの言葉は短い。短い言葉は現場を動かす。
レイが動くと、周囲の空気が少しだけ整った。人の立ち位置が変わり、列の角度が変わる。揉めそうだった声が別の方向へ流れる。視線が散る。散れば、刺されにくい。
エドが紙束から一枚抜き、さらさらと書き始めた。ペン先が紙をこする音が、妙に大きい。
「“安全確認”の名目で行く。最近、未登録トークンで痺れが出てる。触れたものをそのまま持ち込まないように、ここで一回、手を洗う場所を作る」
「手洗い……?」
「うん。手洗いは誰も反対しない。反対したら怪しいからな」
アヤメは小さく笑いそうになって、やめた。笑うと気が緩む。気が緩むと、相手の手順が刺さる。
代わりに、手帳を開いて書いた。
“名目:安全確認(手洗い・布交換)”
“目的:接触者を限定してログ化”
“場所:水場前・受付前”
レイが水場の前に縄を張り、木札を立てた。
『手を洗ってから通る』
『痺れ・跳ねる光は外れ:持ち込まない』
文字があると人は従いやすい。従えば流れが整う。
整った流れは、異物を浮かせる。異物は流れに逆らうからだ。
アヤメは一メートルの円の中で、水場の横へ立った。
桶の水が冷たい音を立てる。石鹸の匂いが微かに混じる。港の油臭さが少しだけ薄まる。手を洗う音は、なぜか人を落ち着かせる。洗う動作が、心まで洗うみたいに見えるのだろう。
そして、近づく人が出る。
「……ここで洗うのか?」
「洗ってください。痺れが出た人がいるので。損しないために」
アヤメは“損”を最後に置いた。最後の言葉で人は動く。
男がぶつぶつ言いながら手を洗う。女が子どもの手を洗わせる。荷役の若者が乱暴に水をかける。水が跳ねる。跳ねる水が夕陽を砕く。
そのたびに、アヤメの視界の端が動いた。
【Contact attempt: within 1m】
【Subject: unknown】
【Residue: none】
【Log: recorded】
【Contact attempt: within 1m】
【Subject: unknown】
【Residue: faint】
【Signature fragment: none】
【Log: recorded】
薄い残滓。
けれど署名断片はない。問題は、ここに混ざる“異常”だ。異常は、いつも同じ匂いで来る。
アヤメは目を凝らし、手帳に“残滓の手触り”を言葉で残す。冷たい、ざらつく、紙の粉みたい、鉄みたい。誰も理解しない記述でも、自分には意味がある。自分だけが読める辞書だからだ。
「エド、今のところは薄い。けど、時々だけ“引っかかる”」
「引っかかりは?」
「手袋。黒い布。……それと、肩を寄せる角度が同じ」
エドが頷く。
「角度は癖だ。癖は変えにくい。ログに残せ」
「……ログ取ろ」
呟くと、自分の声が少しだけ落ち着いた。
その時、ユウトが水場の縄の外側で立ち止まった。
顔が強張っている。目だけが忙しい。遠くを見ているのに焦点が合っていない。
「……ねえ、アヤメ」
ユウトは円の外から、ギリギリ近づかない距離で声を落とした。
「この前、診療所のとこで見た人……ここにもいる気がする」
「どんな人」
「助手みたいな格好。布のエプロン。髪をまとめてて……目が、こっち見ない。見ないのに、こっちの動きだけ分かってる感じ」
“見ないのに分かってる”。
現場慣れした人間の目だ。味方にもなる。敵にもなる。どちらでも、穴の近くにいる匂いがする。
レイが短く言った。
「いたら、指さすな」
「わ、分かった」
ユウトの頷きが早い。早い頷きは怖さの証拠だ。
エドがユウトへ視線を向け、静かに言う。
「覚えてるなら、言葉で描写しろ。服、手、歩き方、匂い。名前は要らない」
「匂い……薬草。手は……水に濡れてる感じ。いつも」
水に濡れてる。
診療所セクタなら当然だ。だが――水路系統、と骨が頭に刺さる。
アヤメの視界の端に、薄い矢印が一瞬だけ点いた。嫌な親切。導かれる感覚。
でも今は、導かれてもいい。罠でも、その先に証拠があるなら踏む価値がある。
「エド、合法の聞き取り、できる?」
「できる。名目は“安全確認の協力依頼”。診療所側なら、協力の理由が立つ」
レイが周囲を一瞥し、さらに短く言った。
「目が増えてる。急げ」
夕方は影が長い。影が長いと噂が速い。
速い噂は、遅い証拠を飲み込む。飲み込まれる前に形を出す。
エドが紙を一枚差し出し、アヤメの手帳の上に置いた。
整った書式。監査の匂い。
「協力依頼書。相手を脅す紙じゃない。守る紙だ。——“協力した”という事実が残る」
「紙が守る……」
紙が罠になることを知ったばかりなのに、紙を信じるしかない。
矛盾だ。でも矛盾は世界の呼吸だ。矛盾を扱えるのが、自分の役目だ。
レイが目だけで合図を出した。
水場の向こう、受付の陰で、布エプロンの人物がひとり立ち止まっている。桶を抱えている。目線は下。けれど、耳だけがこちらを向いている気配。
ユウトが小さく頷いた。
“その人”だ、と言っている。
アヤメは一メートルの円の中で、ゆっくり歩いた。急ぐと怪しまれる。怪しまれると逃げる。逃げると証拠が消える。
エドが半歩後ろで紙を持ち、レイが外側で道を作る。ユウトはさらに外側で息を殺す。
布エプロンの人物は、こちらを見ないまま桶を抱え直した。
その手が、ほんの少し震える。震えは理由にならない。理由にするのは手順だ。
エドが先に声をかけた。
「診療所セクタの方ですか。協力をお願いしたい。最近、未登録トークンの残滓で痺れが出ている。安全確認のため、短い聞き取りを」
「……私は忙しい」
低い声。女性か男性か分からない。
忙しいは当然の返答だ。忙しい人に頼むには、“忙しさを増やさない手順”が要る。
アヤメが、柔らかい声で続けた。
「増やしません。三つだけ。場所、時間、見たもの。答えたらすぐ戻れます。……現場が燃えると、診療所がもっと忙しくなる」
“忙しくなる”は、診療所の人間に刺さる。刺さると、少しだけ立ち止まる。
「……三つだけ?」
布エプロンの人物が、やっと顔を上げた。
目がこちらを見ない。正確には、目が“人”を見ずに“距離”だけを見る。距離で動く人間の目だ。
アヤメの視界が一瞬だけ冷えた。
【Contact: within 1m】
【Residue: faint (waterline type)】
【Signature fragment: none】
【Note: baseline-like】
水路タイプ。
診療所セクタの基準点で感じた匂いに似ている。似ているのに署名断片はない。
この人が貼り手ではない可能性が高い。だからこそ、断片が落ちる。
エドが紙を示す。
「ここに、協力したことだけ記録する。あなたを責める紙じゃない。あなたを守る紙だ」
「……守る」
布エプロンの人物は、少しだけ眉を動かした。
アヤメは質問を短く切った。
「一つ目。診療所セクタで、最近“変な薄片”を見ましたか」
「見た。捨てた。危ないから」
「二つ目。捨てた場所。どこ」
「排水の溝。……ノードの近く」
ノード。
その単語が出た瞬間、背中が冷たくなる。
「三つ目。薄片を持ち込ませようとする人を見た?」
「……見た」
声が少しだけ硬くなった。硬くなるのは怖さだ。怖さの先に、守りたい何かがある。
「誰」
「言えない。言うと……」
言うと壊れる。港は、言った人間から壊れていく。
エドがすぐに“言葉を変えた”。
「名前はいらない。ロールもいらない。——動きだけでいい。どこから来て、どこへ行く」
「……港門から。人混みに紛れて。診療所セクタの裏へ。夕方、潮が引くころ」
夕方。潮が引くころ。窓の時間。
点と点が線になる。
アヤメは、今ここで“それ”を言葉にしなかった。
言葉にした瞬間、この人が次の生贄になる。生贄が増えれば現場が燃える。燃えれば、センセイが笑う。
「ありがとうございます」
頭を下げると、相手は少しだけ安心する。安心は口を緩める。
布エプロンの人物が、小さく言った。
「……欠けた時間がある。記録が、いつもより短い日が」
「短い日?」
「排水の点検が、途中で止められた。理由は知らない。でも……“上”の指示だった」
上。上位手順。管理者級。
胸の奥が痛くなる。痛いほど、確信に近づく。
エドが即座に紙へ落とした。相手へ逃げ道も作る。
「今のは推測じゃない。“あなたが見た事実”として記録する。——排水点検が途中で止められた。上の指示と言われた。以上」
「……それなら」
布エプロンの人物は目を伏せた。罪悪感じゃない。怖さだ。怖さを抱えたまま働く人の目。
レイが周囲を見て短く言った。
「離れろ。耳が多い」
確かに、立ち止まる人が増えていた。誰もこちらを見ていないようで、耳だけが向いている。噂の耳は何でも燃やす。
エドが最後に言う。
「協力、感謝する。あなたは戻っていい」
「……うん」
布エプロンの人物は桶を抱え直し、足早に去った。
去り際、ユウトが小さく息を吐いた。怖さを飲み込んだ証拠だ。
アヤメは手帳を閉じ、表紙を指先で撫でた。
一メートルの世界の中で、今日できることはやった。
できることをやったのに、胸の奥の冷たさは消えない。むしろ輪郭がはっきりした。
エドが小声で言った。
「今の断片は、監査ログへ繋がる。排水点検の中断は“手順の破れ”だ。破れは記録に残る」
「残る?」
「残らないなら、それは“消された”になる。消されたなら、もっと大きな問題だ」
重い。
でも重いほど、証拠の価値が上がる。
アヤメの視界の端で、冷たい光が一瞬だけ走った。
保管庫で見た“閲覧”の痕跡が、手帳のページの隅に重なるように見える。まるで紙の上に、見えない指紋が付いたみたいに。
【Access trace: recorded】
【Next review window: pending】
【Condition: procedural request】
次の閲覧窓。次の手順。
手順があれば、まだ戦える。
レイが一歩だけ近づき、声を落とした。
「今のやつ、守れるか」
「守る」
即答した瞬間、胸が少しだけ熱くなる。
守る対象があると人は折れにくい。折れにくいから、相手の手順に飲まれない。
エドが紙束を揃え、最後に言った。
「今日はここまで。次は“閲覧の手順”を組む。名指しはしない。手順だけを積む。——ひびは、こっちが広げるんじゃない。向こうが勝手に割れるようにする」
「割れるように……」
「そう。割れたら音が出る。音が出たら規定が動く」
規定が動く。
その言葉が、港の夕風より冷たく、でも確かに頼もしく聞こえた。
アヤメは小さく頷き、喉の奥で呟いた。
「……ログ取ろ」
夕陽がさらに沈み、影が長くなる。
影の中で、誰かがまた“笑わない声”を落とした気がした。
「……賢い。でも、優しいのが遅さなんですよ」
振り返っても、誰もいない。
けれどアヤメは、さっき拾った断片が確かに次へ繋がっていると知っていた。
一メートルの世界でも、ひびは入る。ひびが入れば、光が差す。光が差した場所から、証拠の形が浮かび上がる。
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